とある少年のプロローグ
それは、とある夏の夜の悪夢。
血色の月が空と地を照らし、紅色の雨が零れ落ちる涙のようにポツポツとアスファルトを濡らす。
今は使われていない廃墟の一室にて、悪夢は確かに現実となり苛んだ。
「なん……でなんだよ」
絞り出したように掠れた声。
廃墟内に居る二人のうちの一人。黒髪で優柔そうな雰囲気を持つ少年が発したものだ。彼の容貌は、俯いているため窺えない。
「なんでなんだよ、ティアハート!!」
少年はもう一人−−目の前に居る女性の名を叫ぶ。悲鳴のように。
だがティアハートと呼ばれた女性は答えず、剣呑な目つきで少年を睨む。
その女性は、まるで絵本の中に出てくるお姫様のように美しかった。今廃墟の敷地内にのみ降る雨と同色の腰まで伸びる艶やかな長髪に、闇を映したかのごとき漆黒の瞳。しかし肌はそれとは反対に天から落ちる雪花のみたいな白せき。そんな純白を隠す鮮血色のドレスは彼女の貞淑さを表すみたく肩から足首までを覆う。それは一見下品に見える危険を孕む色合いだが、彼女が身にまとうと不思議と醜さが一片も浮かばず、綺麗、という感想しか持てなくなる。
そんな完成された美を体現する彼女の睨む様子は、一級の絵になるくらい美麗な姿で、決して恐いという感じはしない。
「−−−−−−−−っ!」
しかし放たれる気配は違う。血と死にまみれた匂いは、常人では耐えられないような危険なものを醸し出す。
「答えろ! ティアハート!!」
けれど少年はその圧に一歩も退かず、もう一度その名を呼ぶ。
「……もう君に呼んでもらえないと考えると、多少は死が恐いと思えるよ」
リン、と鈴の音が鳴るような声。
ようやく答えたティアハートの整然な口元から一筋の紅い液が垂れ、白い肌を染め上げる。
少年は必死に身体を動かそうとするが、その命令を受け付けない。
そうしている間にも、手刀の形に作られた少年の右手により貫かれたティアハートの心臓はその力を失っていく。
薄い肌を切り裂き、柔らかい脂肪と肉を抉り、肋骨を砕いて、確かな命の音を響かせる心臓を穿つことで得た生物の身に当たり前に巡る血液の温かさは、それを現実だと刻み込む。
護ると決めた女を自身の手で殺しているという事実に少年は、両の目に一粒ずつ涙を浮かばせた。
それを見たティアハートの表情がフッ、と綻ぶ。
流れ落ちようとしている右の雫を、まるで愛おしいものを扱う見たく掬い取り、
「愛しているわ、君よ」
最後の力を使い切ったかのように後ろへ倒れ込んだ。
栓となっていた右手が抜け、血が噴き出す。
少年は目を見開き血に染まっていない左手を伸ばす。彼には救う力があった。彼女を護る決意と役割も。
しかし、少年は迷ってしまった。
その一瞬が少年の運命を破滅させる。
伸ばされた手は何かを掴むことはなく、全ては終わった。
全身に命の証を浴び、少年は掬われなかった左目から一筋の涙を流し、芯となっている何かが失われたみたいに後ろ側へ倒れ込んだ。
それは罪。決して消えない罪科。背負う、なんて傲慢が許されないほど大きな十字架。
だが、それでも抗おう。
たとえその道のりで自分の手をどれだけ血で染めようと。
血で犯された罪は、血で償わなければならないのだから−−