第一章 山奥の村(1)
その日はいつにもなく晴れ晴れとした大空が広がっていた。
まるでこの地に立ち入ることを(俺は決して嬉しくはないが)歓迎されているよう
だ
移り変わる景色をただ何も考えずに眺めながら、今日は実に暑そうだ、どうしたらこの暑さから気を紛らわせることができるかとそんなどうでもいいことばかり、ぼんやりと考えていた
助手席ではラジオから流れる今時の流行の音楽を揚々と歌い上げる父と、そんな父にガムを渡す母の光景が目に入る。
時間が経つにつれて、高層ビルやマンション、ファストフード店などいつも見慣れていた建物なんかは完全に流れる景色からは消えていた
あるのは緑、緑、緑
地元の人たちしか利用しないであろうスーパー
また緑、緑、緑
けれど、いつまでも似たような景色を眺めているのも嫌いではなかった
広大の緑の土地は山の向こうまで広がっているようだ
その景色を見て感動なんてものはなかった
ただこの土地で一生暮らすなんて真似俺には出来ないな、と思う
一息つき、視線を遠くの山から近くの脇道に逸らす
「(あ、いまそこの脇にいたのは狐だろうか)」
今し方通り過ぎた何かがいた場所を覗きこもうとしたが、父の「之道」という呼びかけにそれは叶わなかった
「あと1時間くらいたったら婆ちゃん家に着くぞ」
斜め後ろの体制で振り返る父と一時目が合うがすぐに逸れる。
「でも之道を1ヵ月もお義母さんのところに預けるなんて大丈夫かしら」
母も斜め後ろの体制で俺をちらりと見やる。俺は窓の外の景色に目線を合わせたまま。
「なに田舎で不便な点は多いが、自然はたくさんあるぞ。之道くらいの年齢ならそういう自然にたくさん触れておくべきなんだ」
長旅だったと言いながら嬉しそうな父。やはり自分の故郷だからだろうか
今、俺たちが向かっているのは父方の祖母の家だ。
母方の祖父母は俺が生まれるのと同時期に二人とも亡くなっている。
「之道もおばあちゃんの家に1ヶ月も滞在するなんて不安じゃない?」
「別に…」
「本当いつからこんなに無口になっちゃったのかしら…」
「まあまあ。男の子なんだし、そんな時期もあるさ」
父と母が何かを笑って話しているのは微かに聞こえたが、急激に意識は奥深く吸い込まれていき、俺の肩をゆさぶる母の声で目を覚ましたのは、それから約1時間後のことだった。
主に着替えしか入っていないスポーツバッグを肩にぶら下げて、停車した車
のドアを片手で開ける
その瞬間にぶあっと熱気が押し寄せて、くらっと目眩のような感覚が押し寄せる
それまで快適空間の中で悠揚と数時間過ごしていた俺にこの気温差はいささか辛
い
「暑いわねぇ…」
「さすがというべきか…懐かしいよ。よく爺さん婆さん連中が日射病にかかってたっけな」
「笑い事じゃないわよ馬鹿」
暑い暑いと言いながらも楽しげに話して歩く父と母の後ろから数歩下がってつい
て行く
車を停めたすぐ脇には、古ぼけた看板が立っており読めなさそうで読める字で『古森村』と書かれていた。
周りを見渡しても知らない景色、土地、馬や牛などの家畜
「さっきの話じゃないが…急に之道を1ヶ月も預けてほしいなんて母さんも何考えてんだか」
「やっぱり不思議よね。でもまぁ、たまには滅多に会えない可愛い孫と一緒に過ごしたいんでしょ」
「そういえば、之道と婆ちゃんまだ2回しか会ったことないか」
そう、俺は自分の祖母にあたる人と二回しか会ったことがない
一度目は俺が小学校に入学する前。けれどその時の記憶はほとんどない。
二度目は四年前だが、祖父の葬式の会場だったから話すとかそういう状況ではなかった。
けれどその中でも鮮明に覚えていることは、自分の夫の死を目の前にして最後の最後まで涙を見せない祖母の姿だった。
「ほら、ついたぞ」
「本当に何も変わってないわね」
そう言いながら慣れた手つきで玄関の鍵を開けて入っていく父と母
「ほら、之道も早く来い」
「あぁ…」
俺もそれに続こうとしたが、
「…?」
何かが、誰かがいる気配がする。
誰だろう、村の人かな。
まさかこんな時代に、真昼間から、旅人の金目を盗もうとかそういう思考回路の奴がいるわけじゃあるまいし
嫌な予感がする方向を俺はゆっくりと振り返る。振り返る
「あ…」
そこには軽く息切れを起こしている俺と同い年くらいの、男が立っていた
その目はしっかりと俺を見ており、まるで追いかけて走ってきたかのようだ
なんだこいつ…気味悪い
よそ者は歓迎しないとか、今時そういうのなのか?
そういうのにはかかわらないのが一番だ。
俺は無視を決め込もうとしたときだった
「之…道…っ?」
「え…」
その男の口から出てきた名前はまさしく俺の名前で、一瞬背中が凍りつく
「(なんで…)」
何故俺の名前を知っている、と目線で訴えていると男は次第に俺のほうへ駆け足
で寄ってくる
そして男はかなり怖い顔、というか絶望に満ちたような顔をしながら俺より視線が高い位置から見下してくる
「…本人か?」
「そうだと言ったらどう… …っ!?」
不意に手首を強引に掴まれたことに動揺し、どうするんだと言いかけた口は止ま
った
「之道来い!!」
「は…っ?」
「いいから!見つかる前に!!」
俺は祖母の家に入ることなく、なぜか俺の名前を知るこの知らない男に腕を引っ張られたまま…林の中へ走ることになってしまった