氷結
オンタリオ州北部、冬の湖はすべて凍りついていた。
コリンは祖母の死をきっかけに、遺された山小屋へひとりで向かっていた。
祖母は湖畔の森の奥深くに、一人で住んでいた。訪れるたびに「水には名前がある」と、曖昧なことを言っていた。
小屋は整然としており、暖炉の灰はまだ温もりを残していた。
棚には瓶詰めのベリーや古い紅茶缶が並び、壁には氷の湖を描いた油絵がかかっていた。
湖には、一点だけ氷が白く濁っている箇所がある。
不自然だったが、絵だ。気に留めなかった。
夜になり、コリンは奇妙な夢を見た。
湖の真ん中に、女が立っている。
濃いグレーのコートに長い黒髪。氷の下に何かを沈めているようだった。
女はコリンに気づくと、口を開いた。
「忘れたの?」
その声は、祖母のものによく似ていた。
翌朝、目覚めたコリンは湖へ向かった。
夢に見た白く濁った場所が、実際に存在していた。
近づくと、氷の中にうっすらと人のような影が見えた。
「……これ、何だ?」
だがそのとき、不意に背後から声がした。
「そこに、埋めたのよ」
振り返ると誰もいない。だが、確かに祖母の声だった。
小屋に戻ると、祖母の書斎に鍵のかかった引き出しがあった。
無理に開けると、中から一冊の古い日記と、錆びた銀のネックレスが出てきた。
日記にはこう記されていた。
「あの湖には、記憶が沈む。忘れたいものだけが沈むのよ」
「私は娘を――コリンの母を――あの湖に返したの。苦しまないように」
「でも、あの子はまだ、私の夢に立っている」
コリンは凍りついた。
彼の母は失踪とされていたが、「自死」とも「事故」とも、はっきりしないままだった。
祖母が、何かを隠していた。
再び湖へ向かった夜、雪が降り始めていた。
ライトを手に、コリンはあの濁った氷の上に立った。
「母さんが……ここにいるのか?」
問いかけた瞬間、氷がバキッと音を立てて割れた。
水面から、白く濁った指が伸びてきた。
コリンは悲鳴を上げて後退したが、何かが袖を掴んでいる。
水中から顔を出したのは、夢に見た女――だが、その顔はコリン自身の面影を宿していた。
「わたしを忘れないで……あなたは知ってたでしょう……」
水の中の女が叫ぶと、湖面に割れ目が増え、複数の顔が浮かび上がってきた。
どれもが、なにかを訴えている。
沈められた名前。消された記憶。
その瞬間、コリンの頭に電流のような衝撃が走る。
――自分は、祖母と一緒にこの湖に来ていた。
――母と口論になった。祖母は「もう忘れなさい」と言った。
――祖母の手で、母は氷の下に……
目を覚ますと、コリンは湖畔の雪に倒れていた。
ポケットの中に、銀のネックレスがあった。
母がつけていたものだ。
小屋に戻ると、壁の油絵が変わっていた。
氷の湖の中央に、小さなボートが描かれていた。
そこには子どもを抱く母親の姿。
だがその顔は、ぼやけていた。まるで、水に溶けるように。
それ以来、コリンは春になるたび、湖に花を捧げるようになった。
氷が解けるその日だけ、湖面に誰かの影が映るからだ。
いつか、忘れたふりをした記憶が、すべて浮かび上がるその日まで。