第四十六話『〜今日はラジオはお休みです〜』
――とある日、五行庵にて
朝、いつもの放送開始の鐘は鳴らなかった。
ラジオブースの魔導水晶も、今日はおとなしく光を落としている。
掲げられた札には、こう書かれていた。
『本日、五行庵ラジオはお休みです。
それぞれの風を、静かに過ごす一日に。――空雷』
武蔵
竹林の裏山を一人登り、木刀を携えて黙々と型を打つ。
“風の巻”を終えた今、次に筆を取るための“空”を求めていた。
木々の間を渡る風が、彼の動きと呼吸に寄り添う。
「空を識るには……まず、無を抱くことからか」
彼は、風の旅の記憶を、木刀の音に沈めていた。
⸻
カエデ
炊事場の奥で、朝から一人黙々と仕込み中。
干した風獣の肉を丁寧にさばき、特製の味噌ダレに漬け込む。
「宴用に仕込んだん、武蔵くん喜んでくれるかな……。
いや、別に“特別”ってわけやないけど、そらまぁ、ちょっとくらいは……ええよな」
誰にも聞かれてないと思ってつぶやいたのに、背後からナギサが「ふふっ」と笑って立っていたのは内緒である。
⸻
空雷
書斎の一室にて、“空の巻”の構想を練っている。
魔導陣と星図を照らし合わせながら、静かに唇を噛む。
「風の巻は……思ったより“情”が濃すぎたな。
……だが、悪くなかった。実に、剣豪どのらしかった」
空の巻では、もっと“空白”を生かした構成にしようと、彼は設計図の上で世界を飛ばしていた。
⸻
烈火
庵の庭先で、腕まくりしてひたすら薪割り。
「宴会には焚き火が必要だからなぁ!」と叫びながら、
なぜか割った薪を芸術的に積み上げている。
途中、うっかり薪の山が崩れて下敷きになりそうになるが、
「オレさまの筋肉は薪すら受け止める!」と本気で叫んでいた。
(※なお、誰も見ていなかった)
⸻
ナギサ
縁側にて風鈴の音を聞きながら、風の巻を読み返す。
淡く笑みを浮かべながら、ときおり指先でページを撫でる。
「武蔵さま……わたくしも、風に触れてみたくなりましたわ」
ラジオブースの休止を提案したのは彼女だった。
たまには、音のない風も、よいものだから。
⸻
創冶
鍛冶場にて、新たな素材と格闘中。
風の巻に触発され、風属性の軽量槌《風ノ音》を鍛え始めていた。
「風のように軽く、だが打撃は雷鳴のごとく――。
拙者、感化されやすい性格ゆえ、すまぬのう……ふふふ」
鍛冶場の炉からは、今日も熱風が立ち上る。
⸻
そして夜――縁側に灯がともる。
「今日は、よう頑張ったな、うちら」
そう言ってカエデが持ってきた風獣の味噌焼きが、香ばしく炭で焼かれていく。
ナギサが用意した風酒が杯を満たし、
創冶の竹笛が静かに音を奏で、
烈火の巨大マグからは泡が飛び、
空雷は一人、星を仰いで何やら筆を走らせる。
そして武蔵は、焚き火の前でひとこと。
「……宴もまた、剣のうち」
「それ、もう口癖やな」
とカエデが笑って、
「まぁ、今日は許したるわ」と続けた。
ふわり。夜風が吹く。
杯の中に、竹の葉が一枚、ひらりと落ちた。
誰もそれを取り除こうとはせず――
そのまま、そっと風と共に、語らぬ時間を楽しんでいた。
⸻
明日また、何かが始まる。
けれど、今日の風は、今日だけのもの。
それぞれの風が、今宵の焚き火で、ひとつの輪になった。
⸻
――月明かりの縁側にて、カエデとナギサ
宴の最中、風獣の焼き香ばしさと笑い声が賑やかに響く中。
ふたりの少女は、少しだけ席を外して、縁側の端に腰を下ろしていた。
風が竹を揺らし、虫の声が遠くに響く。
カエデは手にした風酒の杯をくるくると回しながら、ぽつり。
「なぁ、ナギサっち。……ウチ、ちょっと怖なったんよ」
ナギサが、やさしく問い返す。
「……なにが、ですの?」
「武蔵くんとの二人旅。楽しかった。嬉しかった。
でもな……あの人、ホンマに“風”みたいやねん。自由で、強くて、でもすぐどっか行ってまいそうで」
ナギサは微笑んで、そっと風に髪を預ける。
「……ふふ。わかりますわ。武蔵さまは、誰のものにもならない風のような方。
けれど、それでも……惹かれてしまいますのよね」
「うん……」
カエデは、杯をぐいっと飲み干した。
「でもな、ナギサっち。
ウチ、はっきり分かったんよ。“好き”って、風みたいにぼんやりしてるけど、でも、あの旅の最後で……ウチ、自分が“好きや”って思ったって、ちゃんと感じたんよ」
ナギサは目を見開き、次の瞬間にはにこりと笑った。
「……それは、素敵な風ですわ。
カエデさんが真っ直ぐ想う風なら……きっと武蔵さまにも、届いておりますわ」
「……でもなぁ」
とカエデは膝を抱える。
「ウチ、あの人に“お前の風が好きや”って言われたとき……
嬉しい反面、ちょっとだけ、泣きそうになってしもた。
なんでか分からへんけど、“それだけ”な気もして……」
ナギサの目が、ふっと柔らかく揺れる。
「……それは、“風のように”言われたから、ですのね。
武蔵さまは、いつも大切なことを風に乗せてしまわれる。
……でもきっと、それは彼なりの“本気”の言葉ですわ」
「そっか……ウチも、風に乗せ返したらええんやな」
ナギサはそっと寄り添うように言う。
「ええ。ですから、わたくしと一緒に練習いたしましょう?
“風に想いを乗せる言葉”――きっと、素敵に舞いますわ」
ふたり、顔を見合わせて、くすりと笑う。
カエデは少し照れくさそうに、風に囁いた。
「……武蔵くん、ウチのこと、もうちょっと風の奥まで見てほしいなぁ」
ナギサは、そっと目を閉じてその言葉を心にしまった。
⸻
宴は続き、月は高く昇る。
その夜の風は、ほんの少しだけ甘く、柔らかく、
ふたりの想いをそっと撫でていた。
⸻
【水姫ナギサ 想いを綴る】
〜風の巻が終わり、心に残った一滴〜
ふたりが旅から戻った日。
風が庵を吹き抜けたとき、わたくしは微笑んで彼らを迎えた。
武蔵さまの眼差しは、以前と変わらず澄んでいて、けれどその奥に、ほんの少しだけ――
カエデさんの風が宿っていることに、わたくしはすぐ気づきましたの。
あの人は、鈍いようでいて、まっすぐで。
誰かの気配を、自分の剣と同じくらい大切にする方。
……だから、きっともう、気づいていらっしゃるのかもしれませんわね。
カエデさんの“風”に。
あの夜、縁側でカエデさんとふたりきりになったとき、彼女がぽつりぽつりと語った想いを聞いて、
わたくし――なんと申しましょう……胸がじん、といたしましたの。
羨ましくて。
悔しくて。
でも、それ以上に、あたたかくて。
わたくしも、気づいていたのです。
武蔵さまに惹かれていたこと。
その剣に、その佇まいに、その誠に。
けれどそれは、どこか祈りにも似ていて……
触れてはいけないような、そんな“静かな想い”。
わたくしの想いは、まるで水面に落ちた一滴の波紋。
静かに広がって、やがて消えていくもの。
だからこそ、応援したいのです。
カエデさんの風が、武蔵さまに届くなら。
その風が、武蔵さまの剣に寄り添えるのなら。
きっとそれは、わたくしでは成し得ない“共鳴”。
あのふたりの間に吹く風は、
もう、“わたくしの届かない場所”にあるものですわ。
……ですけれども。
ほんの少しだけ、贅沢を申してもよろしいでしょうか?
わたくしのこの想いも、風に乗ってどこかへ流れていってくれたら――
そう願うだけで、少しだけ、救われるのですのよ。
わたくしは、水。
寄り添い、癒やし、そして流れるもの。
武蔵さま。
どうか、カエデさんの風を、大切になさってくださいませね。
その風が、いつかあなたの剣となり、心となりますように。
――水姫 ナギサ
(風の巻・私的感想ノートより)
――つづく
――あとがき 水姫ナギサより――
武蔵さまの「風の巻」、いかがでしたか?
武蔵さまとカエデさんの旅路は――まるで風そのもののようでしたわね。
気まぐれで、自由で、でも決して、優しさを忘れない。
そして……
最後に語られた、カエデさんの独白。
あの言葉のひとつひとつが、まるで風が頬を撫でるように、わたくしの心にも、そっと届きましたの。
――風は見えません。
けれど、確かにそこに在って、人を動かし、癒し、そして、前へと運んでくれる。
たぶん、武蔵さまという存在は、カエデさんにとってそんな風のような方なのだと思いますわ。
……少しだけ、羨ましいですわね。ふふ。
ですが、何よりも嬉しいのは――
この旅を、聴いてくださったあなたさまがいらっしゃったことですの。
カエデさんが語った風。
武蔵さまが見据えた道。
それらを、心で受け止めてくださった、あなたさまのおかげで……
この物語は、ようやく風に乗ることができますの。
どうか、その風が、あなたの心にも届いていますように。
そして……もし。
ほんのすこしでも、気持ちが揺れたなら――
その想いを、星に残していただけたら……嬉しゅうございます。
またいつか、別の季節、別の風の中で――
お会いできますように。
水姫ナギサ、心よりの感謝を込めて。




