第四十一話『五輪書改 風の巻』―序
朝の風が、五行庵の竹林を縫うように吹き抜ける。
鳥のさえずりも、薪のはぜる音も、すべてが耳に心地よい静けさをまといながら、一人の少年剣士が筆を走らせていた。
「……風とは、気配。技とは、間合い。移ろい、抜き、虚をもって実を討つ――」
木の机に置かれた巻紙に、筆が音もなく踊っていたのも束の間。
ぴたり、と止まった。
武蔵:「……何かが、足りぬ」
筆先を空に向け、風を感じる。
竹の葉がさやさやと囁き、白い雲がひとつ、山の稜線を越えてゆく。
武蔵:「――所詮、これは我一人の『風』に過ぎぬ。
真なる風を綴るには、あの者の風が要る」
その瞬間、武蔵の脳裏に浮かんだのは疾風のように駆け、台所で音速の包丁さばきを見せる、あの忍――
武蔵:「風飛カエデ。我、汝との二人旅を所望する。風を識るためにな」
そして彼は、筆を巻紙に戻し、墨を拭った。
「書では、風を捉えきれぬ。ならば、旅にて風を感じ取るまでよ」
次の瞬間には、愛刀・天翔を腰に差し、さながら風に乗るが如く自室を後にしたのだった――。
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『風の巻』―風を識るための旅立ち
五行庵の庭にて。
春を過ぎ、夏の気配が忍び寄る昼下がり。
風が一筋、竹林の隙間をくぐって、カエデの髪を揺らした。
風飛カエデは、井戸の傍らで風呂桶を洗っていた。
手際は早く、水音は澄んでいて、その姿はまるで風の巫女のようでもあった。
そこに、木漏れ日を背にした武蔵が現れた。
「風飛カエデ。我、風の巻を綴るにあたり、ただ一つ、足りぬものを悟った」
カエデは桶を置き、顔を上げる。
「……何か、見つけたんやな」
「うむ。“風”とは、独りでは決して辿り着けぬものと知った。
汝の気配、汝の呼吸、汝の笑み。全てが風のごとし。ゆえに、共に歩もう。
この巻、汝と共に綴りたい。風を識る、二人きりの旅を所望する」
カエデは一瞬、ぽかんと目を瞬かせ――
やがて口元にふわりと微笑を乗せた。
「そないな風流な誘い方されてしもたら……ウチ、おしとやかになってまうやん……」
その声は、いつものツッコミ混じりの声とは違っていた。
そよ風のように柔らかく、けれど芯のある声音。
「ええよ。行こか、武蔵くん。
風の巻、ウチの風も添えたる。ウチ、ずっとあんたと旅したかったんや」
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そして、旅路のはじまり。
峠を越え、川辺を渡り、風に揺れる野を歩む。
ふとした瞬間、カエデが呟く。
「……なあ、武蔵くん。覚えとる? ウチと初めて出会ったあの日。
魔猪が現れてあんた、木刀一本で突っ込んで――」
「ああ。我はあのとき、風に吹かれていた。
風の中に、お主の気配を感じたのだ。鋭く、清らかで、どこか寂しげであった」
「――あんた、いっつも詩人やな。
でもな、ウチもあの日、あんたの背中に見惚れてもうたんや。
こないに無茶やのに、でも真っ直ぐなヤツおるんやって」
二人は、あの時と同じように背中を預け合いながら、魔物の群れを打ち倒していった。
風のように駆け、風のように笑い、そして――
一つの夜。
焚き火の灯りのもと、香ばしい焼き肉の香りが立ちのぼる。
「うんま! これ、風獣の腿やろ? 脂がええ感じにのってて……あっかん、泣けるわ……!」
「我も同感だ。肉の余熱、焚き火の熱、風がそれを運び……
これは風が造った宴と言えるな」
ふたり、同時に笑う。
そして、夜風に髪を揺らしながら、少しだけ黙って、星空を見上げる。
「……武蔵くん。今日一日、楽しかったな」
「うむ。我は、風のように過ぎる一日というものが、こんなにも尊く、愛おしいとは知らなんだ」
風は、ふたりの肩を撫でて通り過ぎていった。
その風には、確かに“絆”の香りがあった。
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『風の巻』―幻の風を追って
幾日かの旅路を経て、ふたりは小高い尾根の道を進んでいた。
草はなびき、木々は囁き、雲の流れさえ急を告げている。
風が舞い、風が騒ぐ。
まるで何かが呼んでいるかのように。
「この先やな、巣があるのは」
カエデが風に髪を踊らせながら呟いた。
「風を纏う幻獣シルフフェーン。その名を聞いたのは、先の村にて、か」
武蔵の声は穏やかだが、その眼は鋭く風を見据えている。
「姿は見えへん。けど、現れるときは突然や。
風が逆巻く、葉が逆立つ、耳鳴りがする、空気が震える……
そんなん、まるで風そのものや」
「……ならば我らもまた、風と成ればよい。気配を殺し、呼吸を調え、風に解けるのだ」
ふたりは会話を途切れさせた。
そして、音を捨てた。
足取りは落ち葉を避け、衣のすれさえ風に預ける。
一陣の風と共に、姿が森に紛れた。
やがて、見えてきた。
五行庵のような竹林地帯――風が縦横無尽に走るその裂け目に、薄く淡く揺れる影。
まるで霞。まるで舞。
それが、《シルフフェーン》。
銀白の体毛、六つの羽根、爛々とした青の瞳。
見る者の呼吸と心を奪う、美しき“風の精”。
「……来るよ、武蔵くん」
「ああ。だが斬るにあらず。感じ、読み、舞う。これは試練である」
幻獣が羽ばたいた瞬間、周囲の風がうねった。
突風。回転。真空。
風圧が刃となり、ふたりを試す。
だが武蔵は、風を読んで滑るように受け流し、カエデは、その隙間に双剣を差し込みながら風の狭間を縫って踊った。
「ふふっ……やるやん、ウチら」
「まだまだ、これからよ」
その瞬間――幻獣の体が、七重の残像を残しながら姿を消した。
「……幻、か」
「ちゃう。風や。あいつ、ウチらに“舞え”って言うてるんや」
そして――
二人は背を合わせ、風の乱舞のなか、踊るように動いた。
――一歩、風を読む。
――一閃、風を斬らず、導く。
その呼吸、その間合い。
かつての修羅場、共に笑った野営の夜、初めて出会ったあの日。
すべてがこの瞬間に繋がっていた。
風が止み、幻獣は姿を現す。
その瞳は穏やかで、翼はやわらかくたたまれていた。
そして、羽根を一枚だけ残し、霧のように風と消えた。
手元に残ったのは――神秘の羽根。
「……これが、風の証」
カエデがそっと羽根を撫でる。
「いや。これは、我らの“絆”が風に認められた証であろう」
二人は見つめ合い、少し照れて、笑った。
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この羽根こそ、風の巻を綴るための真なる鍵。
そしてこの出会いは、二人の物語に深く、美しく刻まれてゆく。




