第四十話「武蔵の火、ひめねの心の火」
『五輪書改・火の巻』が五行庵ラジオで朗読された、その日の夜。
遥か彼方、街道沿いの宿場町もりおかの一角、寝台宿の小さな個室にて。
一人の少女が布団を胸まで引き寄せ、目を潤ませながら、ラジオの残響をじっと噛みしめていた。
それが、ひめねだった。
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「……かっこよすぎ、でしょ……武蔵さま……!」
そう呟く声は、ほとんど囁きに近かった。
けれど、その瞳には確かに燃えるものがあった。
それは“焦がれる”気持ち。
武蔵の語った「火」の本質に、まるで自分が炙られたような、熱い衝動。
「“怒るな、燃やせ”って……はぁあ……! もぉ、名言製造器なんだからぁ……!」
思わず抱きしめたのは枕ではなく、旅に出る前に自作した「武蔵抱きまくら(木刀付きver.)」。
「わたしも……燃やす。焦がれるだけじゃダメなんだ。
旅をして、いろんな人と出会って、いろんな“火”を見つけて……わたしの火、灯すの」
ぐっ、と拳を握るひめね。
彼女は、まだ「何者にもなっていない」旅の途中。
だけど、確かに一歩ずつ踏み出していた。
それを導くような“巻”だったのだ。
そして、ぽつりと。
ひめねは枕元の魔導ラジオに顔を近づけ、そっと囁く。
「武蔵さま……その火、ひめねの心にも……ちゃんと、灯りましたよ。ふふ」
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翌朝、ひめねは宿を出て次の街へ。
足取りは軽く、背中に燃える想いの焔が揺れていた。
彼女の旅は、誰かに導かれるものではなく、武蔵の哲学を胸に、自ら灯して歩むものとなっていた──
その日、ひめねが向かっていたのはあかねがわという川辺の町。
交易も盛んで、旅人や職人が集う活気ある場所だ。
川沿いの露天市では、色とりどりの野菜や果物、見慣れない魔道具が軒を連ね、湯気と笑い声と商談が飛び交っていた。
ひめねは小柄な体に薄手の旅装束をまとい、軽やかに人混みを抜けながら、いつものように携帯型魔導ラジオの調整をしていた。
「よし、これで今日の夕方にはちゃんと五行庵ラジオが入るはず……」
彼女の耳はもう、あの声を、あの空気を、逃すことを許さなかった。
ふと、すれ違いざまにどこかの商人が口にしていた──
「この前の火の巻? あれすごかったよな。ああいう哲学を語るラジオ、初めて聞いたぜ……」
「“剣は怒りで振るうもんじゃねえ”ってやつ? 俺、昨日酒場で喧嘩になりかけたけど、その言葉思い出してやめたんだよ。あの剣豪、ほんとにすげぇわ……」
そんな他愛ない会話の断片に、ひめねの胸がじんと熱くなる。
武蔵の言葉が、届いてる。
旅をしていない人にも、確かに火が灯ってる。
ひめねは足を止め、満開の桜のような微笑みを浮かべた。
「武蔵さま、あなたの火は、この世界のあちこちでちゃんと燃えてます。
わたしも、そのひとつでいたいな……」
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その日の夕方、あかねがわの宿場町の屋根の上。
一人で瓦に座り川風を受けながら、魔導ラジオを抱えてひめねは放送を待っていた。
「今日の放送、誰が話すんだろう? そろそろ風の巻の気配、してきたなぁ……」
五輪書改は、ただの思想書ではない。
それはひめねにとって「生き方の風向きを変えるまさに”風”」だった。
火の巻がそうだったように、次の巻がどう吹くかが楽しみでたまらない。
彼女の旅と、武蔵の巻物。
ふたつの軸は、まだ交わらない。
けれど、確かに影響し合っていた。
空を仰ぎ、目を細める。
「……いつか、わたしも。あの場所で、火じゃなくて、わたし自身の“巻”を……」
風が、木の葉を揺らす音の中に。
あの柔らかくも芯のある、ラジオのオープニング音が、そっと流れ始める
──五行庵ラジオ、まもなくオンエア!
魔導ラジオから、あの軽やかなチャイム音と共にナギサの声が流れる。
「本日も、五行庵よりお届けいたします《五行庵ラジオ》──今宵はわたくし、水姫ナギサと……」
「火の巻に燃え尽きた感ある烈火くんと!」
「いやいや、まだまだ燃えてるぞ! オレさまの炎は無限よ!」
「はいはい、お二人ともお静かにお願いしますわ。今夜は、火の巻への反響と、それに続く《風の巻》についても、少し語っていきますわよ〜」
──と、ラジオはいつもの調子で始まった。
それを、ひめねは宿の屋根の上で、肘をついて聴いている。
夕空の残光の中、町の喧騒はやや静まり、風の流れが心地よく頬を撫でていた。
「《火の巻》に関しては、たくさんのお便りが届いていますわ」
ナギサがそう紹介すると、リスナーからのお便りが次々に読み上げられた。
『怒りに任せて振るう剣では、誰も守れない──この言葉、心に刺さりました。兄との喧嘩のあと、素直に謝れました。ありがとう、剣豪さま!』
『今まで“力こそ正義”だと思ってた。でも、“力は熱、熱は意志、意志は心”という言葉を聞いて、少し考えが変わった気がする』
『オレも“燃える生き方”、目指してみようと思う。剣豪、マジで憧れてます!』
「ふふっ、武蔵さま、ほんとに影響力がすごいですわ」
「……我は、ただ思うままを書き記しただけじゃが……」
ラジオの向こう、五行庵では木刀片手に湯呑みを持った武蔵が、照れくさそうに答えていた。
烈火がニヤニヤと肘でつつく。
「照れてんじゃねーよ、剣豪ー! もっとどやれや!」
「ぬう……では一つ。これが“天下無双”を捨てた者の、第二の道というやつかもしれぬな……」
ナギサが小さく笑いながら締めくくる。
「──さて、次回予告ですわ。ついに、風飛カエデさんと共に《風の巻》へと参ります。
風のように舞い、風のように去る。そんな忍びの巻、乞うご期待!」
宿の屋根の上で、ひめねは思わず拳をぎゅっと握った。
「やった……! 次は、カエデさんの巻……!」
火の巻に感化され、彼女の旅はさらに深く、広くなっていた。
川辺の町〈あかねがわ〉を越え、次に向かうは〈こだまの森〉。
そこに、風の巻で語られる“忍びの思想”に通じる何かがある──
そんな気がしてならなかった。
「ねえ、武蔵さま。わたしも、誰かの風になれるかな」
小さく呟いた声は、夜風に乗って消えていく。
でもその胸の奥では、小さな風が吹き始めていた。
――
次話、武蔵とカエデのまじめな話し!?へ続く。
紫藤ひめねより
皆さま……
今宵も、五行庵ラジオにお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
“火の巻”……
武蔵さまたちが歩んだ、激しく、そして切実なる章。
まるで燃え尽きるほどの衝動と、でもその奥にある“守りたいもの”が、ひしひしと伝わってきて……
わたくし、何度も胸がぎゅっとなってしまいました。
たぶん、誰しもが、心のどこかに“火”を抱えて生きているのだと思いますの。
それをどう燃やし、どう抱きしめて、どう誰かと繋いでいくのか……
そんな問いが、この章には込められていたように思いますわ。
そして――
それを最後まで聴いてくださった皆さま。
今、この瞬間に、耳を傾けてくださった貴方さま。
本当に、ありがとうございます。
もし、ほんのすこしでも心に火が灯ったなら……
その想いを、小さな形でも残していただけたら。
きっと武蔵さまも、烈火さまも……いいえ、皆さま、喜ばれると思いますの。
それはきっと、わたくしたちが“次”へ進むための道しるべになりますから。
今夜はここまでですわ。
また――どこかの章で、お会いできますように。
紫藤ひめね、感謝を込めて。




