異世界と現世の壁はそんなに厚くないのかもしれない(下)
ルミエリアさんはとりあえずリリーさんがベッドに運んでくれた。起きるまでは猶予が与えられた、ということになる。
フィール先輩はというと、台所にふわふわと浮かんでいた。引き出しや棚を物珍しげに開けては「ふむふむ」と頷きながら、調理用具を物色している。
『先輩! なんであんなこと言ったんですか!』
振り返った先輩には、まるで反省の色がない。それどころか、口をとがらせて反論してくる。
『あたしはリリーの思ってることを代わりに言っただけよ』
『いえ! リリーさんはあんなこと言いません! ですよね?』
俺がリリーさんを振り向くと、リリーさんはそっと目を閉じた。ほら見ろ!
『まあ一部あたしの解釈も入ったけど』
『だってお風呂も一緒に入ってないじゃないですか。ベッドも別ですし。捏造100%じゃないですか』
『まだなの? なんだつまんない。同居人なんだからお風呂で仲良くお湯の掛け合いくらいしなさいよ』
フィール先輩はたぶん同居人というものを何か勘違いしている。いや、そもそも……。
『先輩って私の元々の性別忘れてません?』
俺がリリーさんとお風呂に入ったら俺はたぶん出血多量で死ぬと思う。興奮したら鼻血が出るのが漫画的表現かどうかは知らないが、多分出る。湯船に浮かぶ俺と血まみれのお風呂で茫然とするリリーさんは想像の中なのにいやにリアルで、俺はぶんぶんと首を振った。
一方、リリーさんは澄んだ瞳で俺をじっと見て、そっと首を傾げた。
「サヤは一緒に入りたい?」
『ほら! 先輩のせいで変な方向に……!』
『でも、今の一番の問題はさ』
フィール先輩が意味深に言葉を区切ったので、俺は思わず口を閉じた。問題は……?
『ルミエリアは、たぶんお風呂もベッドも要求するわよね? 自分が婚約者なんだから! って言って』
『確かに……ど、どうするんですか!? 先輩のせいですよ! なんであんなこと言ったんですか!』
『えー? 面白くなるかなって思って』
にやりと笑う先輩。なぜか得意げである。
俺とフィール先輩の言い合いが2巡目に入りかけたその時──。
「待って」
リリーさんが、目をぱちりと開け、胸をポンと叩く。
「私に、任せて」
俺は影を極限まで薄くして、台所の入り口からリビングの様子を窺った。
リリーさんは、ソファの中央にまっすぐ座っている。背筋をぴんと伸ばし、相変わらず表情はほとんど読めない。ただ、その佇まいからは、妙な威圧感というか、堂々とした空気が漂っていた。
フィール先輩は壁掛け時計のあたりに張りついていて、わくわくした顔でこちらを見たり、リビングを見たり。完全に野次馬だ。
しかし、リリーさんに丸投げしてしまったが、どんな策があるというのか。だってリリーさん人と話すの苦手だし。もう少しちゃんと聞けばよかったな……。
やがて、カチャリと音を立てて、ドアがゆっくりと開いた。ドキドキしながらそれを見守る俺。
ルミエリアさんが、リビングに姿を現す。その髪はやや乱れていたが、真剣そのものの瞳でリリーさんを見据える。そして迷いなく彼女の正面へと腰を下ろした。
空気が重い。どちらから口を開くか、それすら迷う、まるで深海の底のようなずっしりと重たい空気がリビングを満たしていた。
間違いなく俺がこれまで見た中で、一番重たい話し合いの場だった。
『わたし、サヤさんの婚約者です。だからお風呂もベッドも毎日一緒に入るのは私なんです』
ルミエリアさんの婚約者像も明らかにおかしいが、これは先輩のせいだと思われた。だってあっちの世界でそういうことを求められたことなんてないから。
すると、リリーさんは片手をまっすぐに上げた。そして指先をゆっくりと伸ばす。まるで、俺がリリーさんを召喚する時みたいに。リリーさんも誰か呼ぶのだろうか?
『ルミエリアは婚約者かもしれないけど、契約者は私。だからお風呂もベッドも一緒に入るのは当たり前』
リリーさんの左手の人差し指が、ふっと黄色く光った。
その光は小さな火種のように、柔らかく灯り――数秒ののち、ふわりと消えた。
と同時に。
俺の右手の人差し指も、熱を帯びるようにして光った。同じ、淡い黄色の光。
ルミエリアさんの目が見開かれる。
ぽかんと開いた口が、そのまま止まる。いや、口、開きすぎじゃない?
ルミエリアさんがそのまま止まってしまったので、俺は先輩のいる時計の方向へ視線を走らせた。すると、先輩は、ルミエリアさんと全く同じ顔をしていた。
フィール先輩の口は、あんぐりと開かれている。感情が抜け落ちたような、ぽかんとした表情。それは、あの、何があっても動じない悪戯好きの大先輩に似つかわしくない、驚愕そのものの顔だった。
そういや先輩には契約の話をしてなかったっけ。だが、俺は先輩があんなに驚いているのを初めて見た。え? 契約ってそんなヤバいの?
そして、しばらくと言うには長すぎる沈黙ののち、真剣な顔のルミエリアさんがようやく口を開いた。
『魂響……サヤさんは、理解して……? いえ。当然ですよね。それは、一方的に結べるようなものではありませんから』
『うん』
『……………………』
再び、ルミエリアさんは長考した。なんかまるで将棋の対局でもやっているみたいに、一言ずつが重い。
『わかりました。私が後に来たので、部屋はリリーさんとサヤさんが一緒で構いません』
『私も、お風呂に一緒に入ったりはしない。約束する』
リリーさんも重々しく頷く。譲ってる感を出しているが、そもそも一緒に入ったりは全くしてないので何も変わってはいないのだが、そこがちょうど2人の釣り合うポイントだったらしい。
2人はゆっくりと握手を交わした。
俺は見たことがないが、国と国の代表が協議したときはあんな感じで話し合いが終わるのではないだろうか。
話し合いの結果、リリーさんが俺の部屋へ移り、ルミエリアさんは空いたリリーさんの部屋に入る、ということになった。なんでルミエリアさんが納得してくれたのかは分からない。ま、まあリリーさんがいいなら、俺的には全然問題ないか。
リリーさんが私物(本が9割だった)を動かしている間、先輩が俺をちょいちょいと手招きした。俺はたたた、と先輩に駆け寄る。
先輩は真顔で、腰に手を当てて俺をじろりと見下ろした。
『で?』
『「で?」とは……?』
『リリーとサヤって契約してたの? 教えなさいよ! 知ってたらリリーが屋敷にいる間もっと面白くできたのに……!』
『あの、契約ってどういうものなんでしたっけ……?』
お互いが相手のために生きる、みたいな意味だった気がするが……。いや分かるよ。なんか重そうだなぁとは思ってた。でもリリーさんはその後も態度が全然変わらなかったから、てっきり単なる目標みたいな意味なのかと……。
先輩は、出来の悪い生徒を見下ろす目で、俺をじろりと睨んだ。そして、肩を落とし、はーっと大きなため息をつく。
『分かった。説明してあげる』
『お願いします』
先輩は、コホン、と咳払いをして、まるで歌うような口調で話し出した。
『魂響ってのはね……簡単に言うと、
2人の心が、同じ方向に震えた時だけ結べる契りなの。
別に血の誓いでもなければ、力の交換でもない。
もっと静かで、もっと深くて……そうね。
“魂が触れた時に生まれる余韻”みたいなもの。
普通はさ、人は誰かと長く関わっても、
心の奥の一番静かな場所までは触れられない。
でも、魂響を交わす相手だけは違うの。
その人とだけは、自分の奥にある小さな灯火まで、
そっと響かせることができる。
これは運命なんかじゃない。
誰かに決められた筋書きでもない。
“選んだ結果、そうなる”ってだけの話。
けど……とても不思議なことにね。
あとから振り返ると、
まるで全部が最初から決まっていたみたいに自然なの。
たとえば、静かな夜、ふっと同じ星を見上げたときとか。
何も言わなくても気持ちが分かった瞬間とか。
そういう、小さな共鳴が積み重なって――
気づいたら魂が同じ音で震えている。
その震えを、世界では“魂響”って呼ぶ。
だから魂響は、
約束じゃなくて、願いの重なり。
義務じゃなくて、互いを大切に想う意思の形。
こう言うとこそばゆいけど、
魂響はね、
“2人で生きていこうと決めた心の音色”よ。
あれ? 聞いてる? ひょっとして詐欺られちゃった?』
『……いえ』
リリーさんと契約したあの時。俺は、「ここにいる理由をくれ」といった。そして、リリーさんが出してくれた答えが、これ。それを理解した瞬間、ぼっ、と頬が燃え上がるように熱くなった。
『あれ? なんで両手で顔覆ったの? なんで耳が真っ赤なの? え? 今さら? 今さら理解したとか? ねえ今どんな気持ち?』
先輩が俺の周りをぐるぐる回る気配がした。ただ、今、顔を見せると未来永劫からかわれる気しかしなかった。俺はしゃがんだまま、なんとか話を逸らそうと口を開く。
『先輩って誰かと契約してないんですか? お姉さんとか』
『今まで何人かに誘われたけどねー。あたし、誰か1人に縛られるのってキャラじゃないから』
『そういえばお姉さんってもうハモさんと契約してたんでしたっけ』
『基本的に契約できる相手は1人だけのはずなんだけど、あの人ってなんかそういうの無視しそうよねー』
話に乗ってくれた先輩は、軽い口調で話を元に戻した。
『ま、リリーならベッド要らないでしょ。ゾンビなんだから。その辺に椅子でも置いとけば?』
『でも、疲れたときはたまに寝ちゃうって先輩が……』
『…………あー。そんなこと言ったっけ?』
『私のベッドでリリーさんが寝ちゃうことがあるって話の時に、そう言ってました』
すると、なぜかフィー先輩は目をふいっと逸らした。そして、どこか言いづらそうに口を開いた。
『もし、さ。ゾンビはやっぱり眠らないとかリリーが言いだしたら?』
『それは気を遣っての嘘なので却下です。なので、これからは私が床に布団敷いて寝て、リリーさんにベッドで眠ってもらおうと思うんです。このあと話し合いします』
『そっちも見たい気がするけど……ま、それも野暮か』
少し考え込んでいたフィール先輩は、ふわりと浮き上がり、こちらを振り返って、ぱぁっと満面の笑みを浮かべた。まるで太陽みたいに輝く綺麗な笑顔だった。
『あー楽しかった! じゃ、リリーによろしく!』
『あ、いえ。またどうぞ……?』
そして、壁にずぶずぶと消えていこうとした先輩だったけれど、ふと思い直したように、顔だけをひょいと出してきた。
『そうそう。どっちがベッドで寝るかの話し合い、早くした方がいいと思うわ』
『そ、そうですか?』
俺の顔をじーっと見ていた先輩は、何か言いたそうな顔をした後、ぽりぽりと頬を掻いた。そして、壁の中へ身を翻す。
『もしどちらも譲らなかったらさ。大き目のベッドを買い直して2人で寝ることをお勧めするわ』
その言葉だけを残して、先輩は姿を消した。
いやいや。そんな、リリーさんがそんなに頷いてくれない未来がイメージできないというか……。
……ところが。
その後行われた俺とリリーさんの『どちらがベッドで寝るか』の話し合いは、深夜まで及んだ。
間違いなく俺がこれまで経験した中で、一番重たい話し合いの場だった。
――最終的な結論がどうなったかは、想像にお任せしたい。




