『境界の館』
俺が、ぜーはー、と肩を大きく揺らしていると、お姉さんは困ったように眉を下げた。そんな表情がよくできるものである。
「まあまあ、そんなに怒らないで。夢だから。君には、夢の中で働いてほしい」
「ゆ、夢の中で? どういうことなんですか?」
「いいだろう? 寝てる時なんて、死んでるようなものなんだし」
いや、その2つは全然違うもののような……。
「それにほら、給料も弾むよ。リリーが初対面で怖がらない相手って貴重なんだ。君しか頼れる人がいないんだ。それに君にもメリットがある。影の薄さもなくなるしさ」
「うーん……」
「君しかいない」、幼いころから、俺はこのお姉さんの台詞に弱かった。その後もしばらく考え、俺は渋々ながらに頷く。とんでもなく怪しいというマイナスと、影が薄いのがどうにかなるかもというプラスは絶妙に釣り合っていたが、そこにお姉さんの「君しかいない」が追加された結果、ギリギリで、本当にギリギリで、やる方にゆっくりと傾いた。
ともかく俺は、この不思議な館でバイトを始めることになったのだった。
「じゃ、質問は?」
「ありすぎて何から聞いていいのか。……あ、そうだ。別に、夢の中でこんな姿になってても、現実に影響はしないですよね……?」
「基本的には、しないよ」
「例外があんの⁉」
「まあまあまあ。落ち着きたまえ」
両手で、抑えて抑えて、みたいなポーズを取ったお姉さんは、笑顔で続けた。
「だって、君、現実でその姿に変わっちゃったら困るだろう? 性別も姿も違うし、戸籍もない。叔母さんや由依ちゃんもびっくりするだろうし」
「具体的に問題点を挙げられると怖すぎる……!」
というか、影響があるのかどうか聞いたのに、いつの間にか姿が変わることになってるんだが。「影響がある」って現実で姿が変わるのかよ。しかも話振りからしたら、永久に。ヤバすぎるだろ。
「で、基本的に、って言ったのは、今の君だと変わっちゃう条件を満たせないからさ」
「……条件を先に教えてもらえます? 全力で回避するんで」
「現実世界で夢の力を使うと危ないね」
「さっき通訳の能力は現実でも使えてるって言ったばっかりじゃねえか‼」
「その程度なら大丈夫。もう少し、現実を塗りつぶすくらいの大きな力じゃないと。で、そんな力は今の君にはないからさ。安心してくれていい」
今の、って部分に非常にきな臭さを感じたが、まあ今は大丈夫だってことか。よし、夢の力ってのが何なのかはさっぱりわからないが、絶対に使わないでおこう。
「まあ、また聞きたいことがあれば聞きたまえ。あ、給料なんだけど、1日2万円ね」
「高っ……! えっ、そんなにもらえるんですか?」
さっそく疑問。嬉しいけれど、絶対に裏がありそうな額に怖くなる。色んな方向性の怖さを提供してくるなこのバイト先。2万円と言ったら、俺のお年玉の2分の1くらいだ。2日に1回お年玉がもらえるってこと? 由依が聞いたらきっと騒ぎそうだ。
「勤務時間が長いからね。寝てる間、ずっと働くことになるし」
「えっと、思いっきり頑張ります」
「明日からよろしくね。あ、そうだそうだ。これ持って帰って」
お姉さんはそう言うと席を立ち、一抱えもある、平べったい板のようなものを持ってきた。卒業証書くらいの大きさで、デパートの商品みたいに綺麗な紙で包装されている。渡されたそれを、俺は表彰状みたいに両手で受け取った。ずっしりとした重みが手にかかる。
「なんですかこれ」
今日滅茶苦茶これ聞いてるな俺。で、でも、質問があったら受け付けるよって言ってくれたしいいと思う。全然質問に答えてくれてはない気がするけど。
「明日の夜、寝る前に包みを開けて覗き込んでみて」
え、で、なんだこれ。考え込んでいると、お姉さんは笑顔で両手をぱちんと合わせた。
「そうだ、君がどこから来たかはこっちの誰にも言わないでね。面倒なことになるから」
面倒なこと。……なんだろう。ちょっとだけ、嫌な予感。
「君を正式にここに来させるのは、本当なら上に許可を得ないといけないんだけど。その手続きが面倒なんだ。ま、お手伝いだから大丈夫」
気のせいだろうか。なんだかとっても違法な香りがした。
「それ本当に大丈夫なんですか?」
俺がそう尋ねると、お姉さんは満面の笑みで頷いた。何その爽やかな笑顔。初めて見た。あ、怪しい……!
「もちろんさ。……じゃあ無事に契約成立かな。明日からよろしく。……あ、そうそう。1つだけ、君の疑問に答えておこうか」
どれだろう。正直、疑問が多すぎてそう言われても特定できなかった。
「ここがどこか、って話」
「あ、ぜひ」
「それはね――」
お姉さんが指を俺の額に当てたあと、パン! といきなり顔の前で手を叩き、大きな音が鳴り響く。俺は一瞬びっくりして反射的に目を閉じてしまった。
そして再び目を開けると……俺は、自分の部屋のベッドにころんと横になっていた。
ばっと身を起こし、周りを見渡してみる。現実の、俺の、部屋だ。カーテンの隙間からは、明るい日差しが差し込んでいた。……もう、朝らしい。でも意味が分からない。さっきまで確かに……。あれは、夢? ……いや。
俺の腕の中には、お姉さんから貰った大きな包みがあった。俺は、どうやらこれを抱きしめて添い寝をしていたらしい。えっ……どこまでが、夢? お姉さんに会って、貰って帰ったのを忘れてるだけ? しかし、机の上には1万円札が2枚、揃えて置かれていた。怖い。
時計を見ると、もう朝の6時30分。全く眠った気がしない。カーテンをさっと開けると、明るい陽の光が飛び込んできて、思わず目を細めた。一日がまた、始まるらしい。
その時、俺以外に誰もいないはずなのに。お姉さんの声が部屋の中に響いた、気がした。それは、あの時最後にお姉さんが言った言葉だった。
「――ここはね。君が住む場所とは違う世界への入り口。言うならば『境界の館』だよ」
その日の夜9時過ぎ。俺は言われた通り、自分の部屋で例の包みを開けた。がさがさと包装紙を開けると、中には鏡が1つ。俺が映っている。……当たり前か。映っている俺は、なんだこれ、という顔をしていた。……で、これ、結局、なんなの?
困惑しながら眺めていると、鏡の中、映っている俺の背後から、突然にゅっとお姉さんが顔を出した。そして、鏡の中で、にこりと微笑んで口を開く。
「お、感心感心。ちゃんと今開けたね」
「おおおおおおおお姉さん⁉」
ぎょっとして思わず振り向いたけど、現実の俺の後ろには誰もいない。当たり前だ。そして、もう1度鏡に視線を戻すと、お姉さんの姿は消えていた。絶対さっき映ってたのに。とりあえず鏡を伏せ、そろそろと後ずさった。そのまま、枕を構えて事に備える。
そして、10分が経過したところで、俺は力を抜いた。……目の錯覚、だったのかな? いや、それも怖いか。なんだか声も聞こえた気がするし。夢でも見てたことにしておこう。
そのまま、もそもそとベッドに潜り込み。しばらく寝返りを打っていると、うとうととしてくる。その時、急に部屋が明るくなり、お姉さんの声がした。
「はい出勤完了。簡単だろう? 明日からは寝たらこちらに来られるよ。君の夢とこっちの世界を繋げたからね」
身を起こすと、そこは昨日訪れた館の応接室だった。昼間のさんさんとした日光が降り注ぐふかふかの絨毯の上に、いつの間にか俺は仰向けになっていた。おそるおそる胸のあたりを触ってみると、ふよんとした柔らかい手触りが返ってきた。思わず遠い目になる俺。
「じゃ、そのパジャマから着替えようか。お客さんが来るといけないからさ」
「……ちょっと待って‼」
昨日の比じゃなく大声を出してしまう。お姉さんは眉を片方上げた。何だそのリアクション。俺の方が非常識だ、みたいな反応は辞めてほしい。こっちだって限界はあるのだ。
お姉さんに詰め寄ろうとした俺は、ずり落ちたぶかぶかのパジャマのズボンの裾を踏んづけ、盛大にすっころんだ。俺は床に寝ころんだまま、足元までずり落ちたズボンと下着を掴んで急いで上げる。……くそう! 元の俺の体と比べてウエストが細すぎる……!
「なんで俺、ここにいるんですか⁉」
「そりゃバイトに採用されたからだよ。君、当たり前のこと聞くね」
「そうじゃなくて」
「ああ、なぜ人は働くのか、とかそういう話? そういう生産性のない話、嫌いなんだよ」
床でもぞもぞしながらズボンを押さえ、ようやく立ち上がった俺は、お姉さんを見上げ、思いっきり叫んだ。いつもと違ってお姉さんの顔が上にあるのが、慣れない。
「違います! こっちの世界って、ここはどこなんですか? 夢と繋げるって、どういう仕組み⁉ え、これも夢……?」
「いや、現実だけど。君、新幹線に乗る時も設計図見てからじゃないと乗らないタイプ? 生きにくそうだね」
「さすがにそれはしないですけど……! でも新幹線ほど流通してなくないですかこれ⁉」
「日給2万円。お年玉が2日で稼げるアルバイトだから、そりゃ妙なことくらいあるさ」
適当な返事をしていたお姉さんが、ニッコリと笑って俺の方を覗き込んだ。
「2日目なのに、もう怖いの? 約束したのに。あんまりわがまま言わない」
「……ごめんなさい」
なぜ俺は叱られてるんだろう。そしてなぜ謝っているんだろう。
『とりあえず着替えてきて。フィールに案内してもらえばいいから』
『フィールさんに?』
そのとき、ふっと真後ろから声がした。
『ほら、さっさとこっち来なさいよ』
ひえっとその場で飛び上がる俺。後ろをおそるおそる振り返ると、フィールさんが腰に手を当て、こちらを軽く睨んでいた。応接室にはお姉さんだけしかいなかったはずなのに。
『なによ、人の顔見て驚くとか失礼な子ね』
『す、すみません、いきなり出ていらしたので』
『じゃあ『ここにいます』って次から言ってあげるわよ』
『それはそれでなんだか申し訳ないです』
『もう、わがままな子……ほら、こっちだから。ついてきて』
そして、文字通り扉をすり抜け、フィールさんは去っていった。明らかに扉は閉じられたままなのに、すーっと音もなく扉に溶け込んで消えていった。……現実? これが?
……無理だ。このバイト、俺に向いてない。あと、あろうことかフィールさんにもわがまま認定されてしまい、俺の自我は色んな意味でぐらぐらと揺らいだ。思わず泣きそうになりながらお姉さんを見て、俺は扉をそっと指さした。
「お姉さん……あの人、今……扉をっ……げ、現実だって、言ったじゃないですか……!」
「気にしない気にしない。ほら、泣かないで。じゃあ、いっそ夢だって割り切れない?」
「無理です……っ!」
首を何度も振る俺を見てか、お姉さんはちょっと考え、ポンと手を叩いた。
「言ったじゃないか、スタッフはみんなちょっと変わってるって」
「ちょっと……?」
やばい。さっそく、俺、言葉の壁にぶつかってる気がする。
『ほら、ここが更衣室。そこにある服どれでも使っていいわ。……いや、もう全部変えちゃいなさい。明らかにサイズ合ってないから』
フィールさんの後を追って行くと、2階の更衣室に辿り着いた。部屋には棚と洋服掛けがいくつもあり、洋服店みたいにずらりと女物の服が並んでいる。
フィールさんが、呆れたような顔で、棚の方に向かって顎をしゃくった。彼女の態度の意味は分かる。だって、今の俺は隙あらばずり落ちそうなズボンを手で押さえながら歩いてるし。……いや、でも、さすがに女物を身に着けるのは抵抗がある……! それにそもそも、付け方が分からない。
『なーに? 付け方が分からないなら教えてあげるけど?』
ふふん、と挑戦的に笑ったフィールさんを俺はじっと見つめた。そして、仕事中ずっとズボンを押さえる面倒臭さと、恥ずかしさという心の負荷を天秤に掛けた。その天秤はしばらくぐらぐらと釣り合っていたが、やがて「まあ夢だしな……」という重りが追加されたことにより、次第に傾き出す。
『じゃあ、お願いしていいですか?』
『あれ? あなた、意外に順応性高いのね……つまんない……』
フィールさんは、なぜか残念そうな顔をしながらも、丁寧に教えてくれた。とりあえず、見よう見まねでごそごそとスカートその他を身に着ける俺。下着? 聞くな。恥ずかしいという感情は、一時的に捨てた。……いや、しかしなんか足元スースーする……。
『着終わった服はこっちのカゴね。溜まったら自分で洗うこと。ま、使うのはあなたくらいしかいないけど』
『あれ? フィールさんとリリーさんの服は……?』
『そもそもあたしら、服着ないし』
『えっ』
……えっ?




