カブトムシと猫とカマキリと。
そして、あと3日をゆっくり館で過ごせばいいや、と思っていた、そんな頃。館に久しぶりに次のお客さんがやってきた。
お客さんは、すらりとした、綺麗な30代前半くらいの女性だった。彼女の佇まいには不思議な色気があった。それは決してわざとらしいものではなく、無意識に漂っているようなもので、ふとした仕草、例えば髪を指先で耳にかける動きや、少しうつむいたときの伏し目がちな表情に、隠しきれず滲み出ている。……なんか、どこかで見たことがあるような気もする。「駄目だったか」と軽く呟き、お客さんは首を振った。
「お迎えありがとう。で、ここは?」
「違う世界に行く準備をする場所、だそうです」
「そ、わかった」
「……信じるんですか?」
「ま、あれで助かったとは思えないしね。ここ、つまりはあの世でしょ?」
この人、全然慌ててない。部屋に案内した後に話を聞いてみると、どうやら、車同士の事故でここにやって来たらしい。トラックと正面衝突したんだって。なんと彼女は女優だったらしく、演技とは、みたいな講習をさっそく俺はマンツーマンで受けることとなった。
「演じる内容を自分で信じることが大事なの。後は開き直りかな。そういう意味じゃあなたも得意そう。何か他の人に秘密にしたいこと、あるでしょ。あ、ほらほら今みたいな。人って聞かれたくないこと聞かれると一瞬だけ固まるのよね」
「……えー、私のこと以外で聞きたいことってありますか?」
「あたしってどうなるの?」
姿が変わって旅立つみたいです、と告げると、彼女は俯き、嬉しそうにほくそ笑んだ。やばい、このお客さんの喜びポイントが真剣にわからない……。
「なるなら身軽な動物がいいな。……猫とか。楽しそうだしさ。ね、ね、姿が変わるとあたしの中身ってどうなるのかな?」
最初のお客様だったおじいさんは鳥になった後も会釈してくれてたし、たぶん同じなままだよな……。俺がそれを伝えると、彼女は安心したように、大きなため息を1度ついた。
……さて、困った。俺には行かなきゃいけない場所があるというのに。いや、正直会うのはちょっと怖いなという気持ちもないわけじゃないのだが、俺様勇者を放置しておくのはさすがにまずい気がする。そこで俺はお姉さんに相談してみることにした。
「お姉さん、お客様が来ちゃいました。3日たったら俺様勇者さんのところに生きてるって報告に行きたいので、ちょっと外出していいですか? その間、お姉さんに代わりに通訳してほしくて……」
「えー、面倒だなぁ……いいよ。この客は3日で出そう。この前勇者が来たばっかりでお腹も減ってないし」
……面倒だから、3日で出そう。その言葉を頭の中で何度か繰り返した。えーっと、つまり……? 理解した瞬間、俺はお姉さんにすごい勢いで詰め寄った。
「出すかどうかって、お姉さんのお腹の空き具合で決まるんですか⁉ ていうかお客様が来たらお腹がいっぱいになるってどういうこと⁉」
「いや、客が慣れる必要があるのも別に嘘じゃないよ」
「必ず1週間って嘘ですよねこれ! 私も早く出してくださいよ!」
「いや君は本当。早く出すには君が弱すぎるんだよ。君、カブトムシの幼虫よりも環境変化に弱いんだから」
「どのくらいか分かりにくい……!」
何度頼んでも、お姉さんはただただ首を振るばかりだった。うーん……俺が出られないのは本当みたいだ。いやどういうことなんだ。
次の日、お客さんは、飼っていた猫の話をしてくれた。彼女が寝てる間に、決まって枕元に虫の死骸を置いていくらしい。カマキリ、バッタなどなど。そして決まって、猫が額にぽんと前脚を置いてくる感触で、目が覚めるという。なんだ最近、カブトムシとかカマキリとか。虫ばっかりじゃないか。
「……置いてくれるってことは、プレゼントでしょうか?」
「いや、あいつはあたしが獲物を捕れない未熟者だと思ってる節がある」
その後も立て板に水を流すように話していた彼女は、しばらくして、少し黙った後、ぽつりと呟いた。
「……ずっとお世話になってたマネージャーにさ。もっと、あの子のこと、ちゃんと頼んでおけばよかった」
でも今更無理だしね、と苦笑いし、彼女は腕を組んで天井を見上げる。確かに、無理、か。……いや。待てよ。俺なら、ひょっとして……。
「あの、お客様。お願いしたいことがあります」
俺が真剣な顔で向き直ると、お客さんは面白いものを見つけたときのフィール先輩みたいな顔をした。ほうほうそれでそれで、みたいな。
「あたしが頼まれる側なんだ? いいよ、お願いの1つくらい。面白そうだから」
「3つあります」
「意外に貪欲だったかぁ。……で、何してほしいの? サイン?」
「いえ、それは別に結構です」
俺が即座に首を振ると、お客さんはわざとらしくがっくりと肩を落とした。
「ナチュラルに拒否るのやめてくんないかな……お姉さん傷ついちゃう」
「マネージャーの方への手紙を書いてほしくて。あと、その人の連絡先教えてください」
「なになに、届けてくれるの? そういうサービスあり?」
結果は保証できませんがと頷くと、お客さんはちょっとそわそわし始めた。えー? とかあー、とか言いながら天井を見上げたり、腕組みしてみたり。……わかる。手紙っていざ書いてって言われると難しいよな。
「それで、3つ目のお願いは?」
「私がいきなり連絡取っても無視される可能性が高いと思うので、お2人の間で通じる秘密の合言葉的なものがあれば、教えてください」
そのまま、現実へ。仕事を始めたばかりだったので、まだ、時間は夜の10時を少し回ったあたりだ。お客様曰く、マネージャーはだいたい東京にいるらしいから……。会えるなら今すぐ向かって、電車がなくなればタクシーでも使おうっと。境界の館の日給2万円は、俺の金銭感覚を間違いなく歪めつつあった。
俺の携帯からマネージャーの人の携帯に電話を入れるも、不通。とりあえず、留守電にメッセージを吹き込む。手紙を預かってるので連絡を取りたいことを伝え、最後に、お客さんから教えてもらった合言葉を残しておく。『天橋立』。何の意味なのかは、最後まで教えてもらえなかった。
きっかり5分経った後、折り返しの着信があった。慌てた声のマネージャーさんにとりあえずアポを取り、東京の郊外の駅での待ち合わせの約束を取り付ける。1つ思いついたことがあり、道中、深夜営業している家電量販店で、デジカメを買った。
そして、日付が変わった午前0時過ぎ。俺は、無事にマネージャーさんと合流した。マネージャーさんはシンプルなフレームの眼鏡をかけた、真面目そうな女性だった。お客様と同年代くらいに見える。スーツスタイルに近いきっちりとした服装の彼女は、待ち合わせ場所で手を振る俺を、リアルに3度見くらいした。
「うわ可愛い……声から女の子とは思ってたけど……えっ? あの人こんな子供に手を出してたの? え、違う? ねえ、その目、カラコンじゃなく自前よね? どうなってるの?」
そのまま、マネージャーさんの車に案内され、俺はそのまま乗り込んだ。彼女は運転席に座り、きっちりとしたスーツの袖口を整えながら、眼鏡越しにこちらを見て微笑む。車内は清潔で、かすかに石鹸のような香りが漂っている。車がゆっくりと走り出すと、窓の外には流れる景色が映り込み、街の明るい光が車内にちらちらと差し込んできた。
「で、このままあの人の家に向かえばいいの? ……何の用? 手紙貰っちゃったから、いちおう案内はしてあげるけど」
「猫に、会いたいんです」
「……猫?」
その後も、俺とお客さんの関係をしつこいくらいに聞かれたけれど、SNSでたまたま知り合ったというので押し通した。嘘をつくなら、堂々と、自分でも信じて。
最初は半信半疑な顔だったマネージャーさんも、直筆の手紙を見て、知り合いだったことはどうやら信じてくれたらしかった。俺は手紙の中身は見ていないけれど、目を通したマネージャーさんは、何度か目元をぬぐった後、少しだけ、笑った。聞いてみると、もう10年以上の付き合いになるそうだ。
家のリビングに入ると、貫禄のある猫が1匹、ソファーの上にどーんと鎮座していた。俺が寄っていくと、一瞬だけ顔を上げたけれど、すぐにぷいと視線をそらされてしまう。
〈あの、あなたの飼い主が心配してましたよ。長い旅に出るので、これからこの人にあなたのお世話を頼むそうです〉
駄目元で話しかけてみると、なんと猫はちゃんと返事をしてくれた。
〈あいつどこ行ったの? トロくさいし、あたしが面倒見てあげないと。鼠も捕れやしないんだから〉
おお、お客さんはほぼ正確に理解していたらしい。びっくり。というか、俺って動物とも話せるんだ。ほんとチートだな……。
そばで見ていたマネージャーさんが、俺と猫に視線を何度も送った後、不思議そうに口を開く。
「あなた、さっきニャーニャー言ってたけど、何言ってたの?」
あ、そういう感じで聞こえるんだ。
「あなたの飼い主に届けたいから動画を撮らせて」と猫に頼んだところ、彼女は優雅な動作で片方の前足を持ち上げ、毛づくろいを始める。そしてしばらくのち、彼女は、俺が構えるデジカメに向かって、のんびりとあくびをした。かと思うと、俺の側までやってきて、前足でぺしぺしと俺の足を執拗に攻撃したり、しまいには、ソファーに座った俺の膝の上で丸くなり、優雅に瞼を閉じた。じわりとした温かさが、重みとともに広がっていく。
デジカメの小さな液晶画面に表示された録画時間の数字が、じりじりと進む。その赤い「REC」の文字とカウントアップする秒数を、俺はただじっと見つめていた。不思議そうな顔で、マネージャーさんが、俺と猫を見比べる。
「いつもはこんなじゃないんだけどなー。あなた、猫使い? ていうか、猫と遊んでるあなた、すごく画面映えするわね」
猫は、動画を一通り撮り終わると、さっと姿を消してしまった。かと思うと、しばらくして大きなカマキリをくわえて戻ってきた。コレクションだろうか。どこか自慢げな顔で床に置き、猫はこちらをじっと見上げる。
「確かに届けるね」と猫に笑って伝え、俺はそっと立ち上がった。……すると、その時、隣から強烈な視線を感じた。振り向くと、まじまじと俺の方を上から下まで見るマネージャーさん。「逸材ね……」と謎の呟きを零した後、あごに手を当てる。
「こんな時だけど、あなた、芸能界に興味「ないです」
「あら残念。……今日は、本当にありがとう。あなたが何者かは分からないけど、感謝してる。何かあったら連絡してね。力になるから」
館に舞い戻った俺は、手紙を無事に届けられたと報告した後。お客さんと一緒に、庭にカマキリを埋めた。何か呟き、お客さんは空を見上げる。
「やばい、なんかいっつも庭に埋めてたのを思い出したわ。あたしの家が100万年後に発掘されたらさ、カマキリの死骸ばっかり埋まってるから困惑させちゃうね」
「いいじゃないですか。そういう猫と、飼い主がいたって。伝わりますよ、きっと」
「あ、ちょっと泣きそう。責任取って」
「……では、お詫びにこれを。部屋に帰って見てください」
俺はそう言って、デジカメを渡す。
……その後、お客さんは1日部屋から出てこなかった。
そして、あっという間に、お客さんが来てから3日が経ち、旅立ちの時がやってきた。
「……そばにいて」
そう頼むお客さんの手が震えていたので、そっと握る。彼女の浮かべた泣き笑いのような表情を見て、俺は、彼女が実はちょっぴり怖がっていたことを知った。
「ね、ね、何か気がまぎれる話、してよ」
何か、俺が伝えられることは、ある……? その時、あの猫が言っていたことを思い出した。あの子は、お客さんが鼠を捕れないことを嘆いてたわけじゃない。あの時のニュアンスというか、雰囲気というか。あの子は、はっきりとは言わなかったけれど。お姉さんがリリーさんにやったみたいに、言葉をそのまま伝えるだけが、通訳じゃない。
「……鼠を捕るの、苦手ですか?」
「……は?」
「猫が。鼠も捕れないあなたのことが心配だから一緒に行きたかった、って」
「……そう」
「とてもかわいくて、賢い子でした」
「でしょ!!」
そう言って、顔を上げたお客さんが見せてくれたのは、これまでで一番いい笑顔だった。
「あたしが生まれ変わったら、あいつの寝床を山盛りのカマキリで埋めてやる!」
思わずそれを聞いて、笑ってしまう。鼠じゃないんだ、っていうのもあるけど。
「どしたの」
「なんだか、普通に成長を喜んでくれそうで……」
その後、彼女は狐に姿を変え、門から出て行った。器用にウインクをした後、金色の背中が波打ちながら坂を駆け下りていく。俺は見送った後、どっと重くなった肩を落とした。
……やっばい。この仕事、思った以上にヘビー。通訳関係ないところでしんどい。
「いや、親身になる必要はないんだよ。ここで過ごす間だけ、力になってあげればいい」
「そうかもしれませんけど……」
「ていうか君、けっこうやりたい放題やるね。普通、現実で会いに行ったりしないでしょ。ま、駄目とは言わないけどね」
ともかく、新しい出会いと別れを終え、俺は館を出られる日を無事に迎えた。お客さんのお見送りを終えた後、俺はお姉さんに連れられ、応接室にやってくる。
「さて、じゃあ勝手に行っていいよ、と言いたいところだが……君がまたすぐ死ぬと、体を組み直すのが面倒だなぁ」
「本人の前でそういう台詞言わないでくださいよ……」
「ということで、そのままだとすぐ殺されるから、顔を隠して行ってくれたまえ。どんな格好でもいいよ。前に言ってたみたいに、魔女っ娘の格好でもしてみる?」
お姉さんがガラリ、と棚を開けると、ドサドサと色々な衣装が雪崩を打って崩れ落ちてきた。あ、確かに魔女っぽい衣装もある。確かに、黒くてつばの広い大きな帽子を深く被ったら顔は隠れる……? いや、ちょっと無理がない……? 下から見られたら一発だし。うーん……。
俺はしばし考え込んだ。ここは、慎重すぎるほど慎重になった方がいいのではないか。それこそ、顔全部が隠れる、くらいの……。
そのとき、衣装の山の一角に、大きなカボチャがあるのが目に入った。ハロウィンとかでよくあるやつ。あ、でも目と口の部分が大きくくり抜かれてるから、顔が見えるか……。
「それにしようか。うん、君の能力との相性もちょうどいいと思うよ」
お姉さんが、カボチャを拾い、ぱたぱたと埃を払った。そのまま、ずいっとこちらに差し出してくる。思わず受け取る俺。
「で、でも丸見えじゃ……」
「君の能力をコントロールする練習になるからさ。被って、影が薄くなるように集中してみて」
「影が薄くなるように集中するって何⁉」
意味が分からなかったが、とりあえず被ってみた。そして……影が薄くなるように集中する? あれか、授業で目立たないように手を挙げるとき、みたいな? 存在自体を、隠す、感じで……。
「そうそう。ほら、見てごらん」
お姉さんが見せてくれた鏡の中には、カボチャを被った女の子がいた。そのカボチャは、目と口の形に鋭くくり抜かれ、不気味な笑みを形作っている。普通ならその切り抜かれた穴から、女の子の顔が覗くはずだが――そこには顔どころか、何も見えない。視界を遮っているのは、白い霧だった。
カボチャの中は奇妙なほど暗く、その暗闇の中で白い霧が渦を巻いている。霧はカボチャの内側でゆらゆらと揺れ動き、まるで生きているかのように、穴から漏れ出しそうで漏れ出さない。
彼女の体は普通の少女そのもので、細い手がカボチャをそっと支え、肩越しに微かに覗く素肌が、その存在を確かに生きた人間のものだと証明している。しかし、それでも頭部の異様さが全てを覆い隠していた。
……うん。いや、確かに顔は見えないけどさ。……これ、かえって怪しくない?