プロローグ
他の世界に行く方法、というものが世の中にはいくつか存在するらしい。
例えば、枕の下に「飽きた」と書いた紙を置いて寝るだとか、エレベーターで特定の動作をすれば異世界に繋がる、だとか、死んだら他の世界に生まれ変わる、だとか。
ただ、俺はそういう話を聞くたび、いつも不思議だった。他の世界がある、というのはまあ構わないが。……言葉は、どうするんだろう。他の世界というからには、いかにも日本語が通じなさそうではないか。外国ですら言葉が通じないというのに。
幼い頃、その疑問を友人にぶつけてみたことがある。今思い返してもきゅっと胸が苦しくなる、苦い思い出だ。そういうことを口に出すと誰も幸せにならないと、機会があれば幼い俺には伝えたいと思ってるのだが、今のところそのチャンスは訪れていない。
ところで、ずっと俺が抱いていたその疑問は、ある時、意外な形で判明した。異世界には、日本語を解する者が少数ではあるが存在する。要は通訳がいるのだ。外国と同じである。……ひょっとしたら、幼い俺は、意外に的を射ていたのかもしれない。
そんなことを考えていると、どすんばきんと大広間の方でさっきまで盛大に響いていた戦闘音が止んだので、俺はひょっこりと柱の陰から顔を出した。後ろから、兵士の人達もそろそろと顔を出す。……うん、終わったみたいだ。
『あ、あんたは戦わないのか?』
『私、非戦闘員なので。私達って、勇者・勇者・勇者・通訳の4人組なんです』
『……バランス悪くない?』
『そうなんですけれど……私、そもそも館のお世話係だったというか。旅には無理やり連れてこられてる感じなんですよね』
すると、兵士の人は、そこでまた歯切れが悪くなった。何かまだ言いたいことがありそうな顔である。そして何やら迷った後で、俺の顔のあたりを指さした。
『通訳ってのは分かったけど。その……君の頭、さ』
『私の頭が、どうかしましたか?』
オウム返しして、とりあえず首をかしげる。するとその拍子に、俺が被ってるカボチャが少しだけずれたので、おっと、と直した。固定されていないのですぐにずれるのだ。それで、なんでしょう?
『……君、なんでカボチャなんて被ってるの?』
『気にしないでください。そもそも、私、何も被ってませんよ? こういう顔なんです』
『いやそれはさすがに無理がある』
俺、堀田雅也は、ちょっと変わったバイトをしている。内容はざっくり言うと、異世界に来る人間のお世話係と通訳だ。つまり、俺は異世界でバイトをしている、ということになる。……たぶん、ちょっと変わった、と言う資格はある、と思う。
……さて、このバイトが情報誌に載っていたとかではさすがになく、一番最初のきっかけは、結構な昔に遡る。
――そもそも、思い返してみると小さな頃から、俺は影が非常に薄い子だった。それも、人並外れて。全く自慢にならないけれど、小学校の遠足で高速道路のサービスエリアに置いて行かれたことすらある。
そして、そのうち特技ができた。置いて行かれても、それがどこでも1人で帰って来られる。なんとなく、帰るべき方向もわかる。環境が生んだ悲しい習性と言えよう。
「また今日も置いてかれた……。あと算数のテスト30点だった」
「ま、まずはよく帰ってきたね。えらいぞ。あと後半は運関係ないからね、勉強しようか」
そして、落ち込むたび、お姉さんが俺を励ましてくれたものだった。ここで出てくる「お姉さん」とは、別に血の繋がった姉というわけではなく、単に近所に住んでいる少し年上の女性だった。いつもポケットからおやつを出してくれる優しい女性で……と表現すると、俺が餌付けされているような感じになってしまうが。
お姉さんと会うのは、いつも山の中腹にある公園でだった。そこでたいてい、俺達はのんびりとお喋りをしたり、下の方に見える街の様子をぼーっと眺めたり、草むらに生えている四葉のクローバーの本数を数えたりして過ごした。
しかし、それに飽きと限界がやってくるのは早かった。景色はそう毎日変わるものではなかったし、公園内の四葉のクローバーは38本。そこで俺がそれ以外の余暇の過ごし方を模索すべく、図書館で借りてきた怖い話を読んだりしていると、お姉さんは興味深そうにしげしげと俺の手元を覗き込んできたものだった。
「へー、雅也くんはホラーが好きなの?」
「ホラーっていうか……普通じゃないものが気になる。怖いけど」
俺は「特別なもの」に憧れていたんだと思う。自分が持ってないものを見ると、俺も特別になれるような、そんな気がしていた。俺は本を開いたときの、独特の匂いが好きだった。特別な、世界の匂い。公園は、例えるなら、俺にとっての異世界の扉だったのだ。
そしてある日。ただでさえ後ろ向きな幼い俺がいつもより更に落ち込んでいた、そんな日だった。なぜ落ち込んでいたのか。それは、衝撃的な事実が発覚した日だったからだ。
いつもの公園で、お姉さんは、俺を見るなり眉を下げ、なんだか困ったような顔をした。彼女はしゃがみ込み、俯く俺の顔を、さらに下からそっと覗き込んだ。
「ねえ、どうした雅也くん? 君の心配を私が解決してあげようじゃないか」
「俺の才能って他にないのかなぁ」
「どしたの急に」
「だって人の能力には限りがあるってゆかちゃんが言ってた」
ゆかちゃんとは当時の幼馴染の名である。ちなみに小学校6年生の時、転校すると言って彼女は俺の傍を去った。いつも微笑んでいる、人形のように綺麗な子だった。
さて、この日発覚した驚愕の新事実。なんと、人の才能には限りがあるというのだ。そしてその限られた枠が「影が薄い」であることは、幼い俺には非常に大きな問題だった。
というのも、自分が天才でないことを当時の俺は既に理解していたので、下手をすれば影が薄い以外の才能がないという可能性に行き当たってしまったのだ。それを受け止めきれなかった俺は、いつも通りお姉さんの前にやってきたのだと、そう記憶している。
お姉さんは、そんな俺の隣に座り、困ったように苦笑いをした。
「才能ねえ。でも君のはすごいよ。私が言うのもなんだけど、ほぼ唯一無二だと思う」
「全然嬉しくない。影が薄くて道に迷わない以外の才能が欲しい」
だって、これから一生、高速のサービスエリアに置いて行かれる人生なんて、そんなのごめんだった。サービスエリアから下道に降りる階段はどこもやたらに狭くて急で、おまけにものすごく長いのだ。きっとそれは俺が大人になる頃にも変わらないに違いなかった。
「それも、君の立派な一部なんだと思うけどね。道に迷わないっていうのも勘が鋭いってことだと思うし、影が薄いのも、その能力、めちゃくちゃ欲しがる人いると思うよ。まあともかく……雅也くんは、それ以外の何かが欲しいわけだ」
「これからも影薄いのと道に迷わないのが個性なんだぁって思ったらさすがにめげる」
しかも幼い俺は、話しながら、さらに重要な事実に気づいてしまった。1+1=2。なんと、限りある才能の枠は既に2つ埋まってしまっているではないか。
「いや、その2つだけとは限らないでしょ」
「限るよ。そんな人間に居場所はないんだ……」
「急に悲観的だなぁ」
そっかー、でもそう思っちゃうかー、としばらく何かを考えていたお姉さんは、ふと何かを思いついたかのように、ぽん、と手を打った。
「君さ、人のお世話するの好きだったよね」
「え、うん。まあ……そう、なのかな?」
考えてみれば、このお姉さんと知り合ったのも、なぜか行き倒れてたところを案内してあげたのがきっかけだった気がする。確かに、困っている誰かを手伝うのは好きだった。
「君に、居場所と能力をあげよう。ちょうどいいや。いやさ、私も手伝ってくれる子が欲しかったんだよ。君ならあの環境でも生きていられると思うし」
特技。俺にとって、喉から手が出るくらいに欲しいもの。
「そうそう、能力だっけ。何でもあげるよ。昔に助けてもらったお礼もしてなかったしね。あと、影が薄いのもなくしたいんだっけ? それも任せといて。簡単だから」
「あっさりしすぎて怪しいよ……」
しかし、ここで幼い俺は理解した。これはいつもの暇つぶしなのだ。つまり、才能が貰えるなら何がいい、という会話。無人島に1つ持っていくなら、というあれみたいなやつ。
「空を飛ぶのでも、火を吐くのでもいい。火なんて吐いたら周りがえらいことになるけど」
それって才能かな?という疑問が頭に浮かんだものの。ふむむ、と俺は真剣に考えた。確かに、授業中に火を吐いたりしたらまずいことになりそうだ。空を飛ぶのは憧れるけど、いきなり力がなくなって落っこちたら、と考えるだけで身が震えた。やめた方がよさそう。
「なんでもできる魔法の力がほしい、とかはダメ?」
「だめだめ。欲張りすぎず、1つにしなさい」
実用的な力、がいい。誰かに化ける、とか? 例えばゆかちゃんの姿になれたら楽しいかもしれないし。でもその場合、ゆかちゃん(本物)に出会ってしまったら、俺達の友情には大きなひびが入りそうな気がした。……あ。そうだ、ゆかちゃんといえば。
俺は、この前交わした会話を思い出す。英語塾に行き始めた、と言っていくつか英語を話してくれたゆかちゃんはとっても大人で、かっこよく見えたっけ。英語がペラペラになる、とか、どう? いや、それだと珍しくないから、いっそ……。
「それにしようか。ちょうど通訳が欲しかったし」
「……え?」
俺が顔を上げると、お姉さんが、ニコニコしながらこちらを覗き込んでいた。
「じゃあ、17歳になったら手伝ってね。じゃあ、また。……そうそう、これあげるよ」
お姉さんは俺の手のひらに、ポンと、サイコロを2回り大きくしたみたいなやつを乗せてきた。そして、最後に、俺とお姉さんは指切りをした。しっとりとした、冷たい指だった。にしても、なんで17歳になったら、なんだろう……?
さて、その日以降、変わったことが2つある。
1つ目。俺は、どんな言葉も理解できるようになった。外国映画も字幕なしで見られるし、英語のテストで100点以外を取ったことはない。ニュースで特集されていた、海外の未解読の写本とやらをちらっと見たことがあったのだが、それも普通に読めた。これは怖かったので、誰にも言ったことはない。
2つ目。この日以降、お姉さんが公園に姿を現さなくなった。その後も、俺は気が向くと、たまに公園に立ち寄ることがあった。そのうちひょっこりと顔を出すのではないかと思ったからだ。しかし、お姉さんと会うことは、なかった。
俺は、ふとお姉さんを思い出した時などに、最後に渡された物を眺めることが多くなった。青っぽい、手のひらに乗るくらいの小さな木の箱だった。ひっくり返してみても、何に使うのかは分からない。ただ、眺めていると、不思議と心が落ち着いた。
そして、月日は流れ、俺が17歳になった日のこと。つまりは、11月11日。登校した俺はガラリと教室の扉を開け、大きな声を張り上げた。
「やあみんな、おはよう!」
教室の中には、挨拶を返してくれる人はいなかった。一瞬だけ目を向けてくれる人はいても、次の瞬間には、目の前に誰もいないみたいな顔をされる。率直に言ってすごく寂しい。俺の影の薄さは、年を経るほどに、ますます深刻度合いを増していた。
もし、例外なく全員に無視されているなら、とっくに高校に来なくなっていたと思う。その数少ない例外がクラスに入ってきたのを見つけ、俺は一目散に駆け寄った。
「おはよう! 由依!」
「おー、相変わらず元気だね」
ほら。登校してきた由依に挨拶すると、ちゃんと答えてくれた。由依は俺の小学校時代からの友人で、明るく染めた髪とピアスという外見から、周囲には怖がられているものの、こんななりでも神社の一人娘。俺とは馬が合い、よく話してくれている。
「そういや雅也さ、ごめん、今日ちょっとあたし用事があって。一緒に帰れないわ」
「……あ、うん、わかった」
一瞬間を開けてしまったけれど、不自然にならずに答えられたと思う。以前、1度だけ、由依には俺の誕生日を話したことがあった。だから、今日の放課後は、何か祝ってくれるかも、と淡い夢を抱いていたのだ。だってこれまで、祝ってくれそうな相手なんて、ずっといなかったから。いや、でも、当たり前。夢は叶わないのだから、夢なのだった。
家に帰って、叔母さんの食事を作った後、俺は早めにベッドに潜り込んだ。叔母さんは残業が多いから、帰宅がいつになるかは分からないのだ。
耳元で、ガサガサと紙が擦れる音がした。目を開けると、俺は、どこか見覚えのある公園のベンチの上で横になっていた。隣にはお姉さんがいて、膝の上に置いたノートに何か書き物をしている。起きたのに気づいたのか、お姉さんはニコリと笑って立ち上がった。
「久しぶり。いやー、月日が経つのは早いねえ。もう君も17歳なんだ」
「えっ? こ、ここ、どこですか?」
「ここ? 君の夢の中だけど」
ああだから不思議なシチュエーションなんだ、という納得。それにしても、ついに俺は祝ってくれそうな人のことを夢に見るまでになったらしい。お姉さんは、別れたあの日のままの姿で、優しく微笑んだ。
「それより雅也くん。あの約束、覚えてる?」
「約束って……あの、手伝ってくれとかいう……?」
「そうそれ。いや、君の影の薄さがマシになってたら別にいいかと思ってたんだが。余計ひどくなってるだろ? どうせ友達もいないんじゃない?」
お姉さんの言葉は、俺の心の柔らかい部分をぐさりと傷つけた。全くこの人は、夢とはいえ、久しぶりに会ったというのに、なんてことを言うんだ。
「友達ならいますよ。1人だけ」
「由依ちゃんだっけ。凄いねあの子。だって君、叔母さんにもほぼ無視されてるんだろ?」
「あの、俺、誕生日なんですよ? 祝ってとは言いませんけど、優しくしてくださいよ」
「祝わなくていいの?」
「祝ってほしいです……っ!」
由依とは地元は同じだが、多く話すようになったのは高校からである。隣の席になったことで喋るようになったのだ。明るく話しかけてくれた由依に、どれだけ救われたか。しかし、由依は神社の娘で、仕事の手伝いがあるとすぐ帰ってしまうのだ。「ごめん、今日は他の友達と帰ってて」と俺に両手を合わせる由依。あんなにまっすぐ由依のことを見られなかった日はなかった。
俺が苦い思い出に浸っていると、お姉さんがニコニコと笑った。
「雅也くん、君、17歳になったんだし、バイトしてみない? それがお祝いの代わり」
「……バイト……?」
「うん。お客さんのお手伝いをするバイト。つまり、私の仕事の補助をしてほしい」
……アルバイト、か。どうもお祝いって感じじゃないが……。
俺が悩んでいるのが分かったのか、お姉さんはさらに話を続けた。
「いちおうお給料は結構出すし、君にとっていいこともあると思うよ」
そう言って、ニッコリとお姉さんは微笑んだ。そして、パン、と音を立てて両手を合わせ、その場でくるりと回った。すっごく嬉しそうだ。
というか、バイトをするならまず叔母さんの許可を取らないといけない気が……。
「大丈夫だよ、許可はいらない。夢の中で働いてもらえればいいからね」
……ん? 今、なんて?
しかし、俺の諸々の懸念は、お姉さんの次の言葉で吹き飛んだ。
「そして、なんとなんと! 君の影の薄さをなくすことができるかもしれない」
「えええええっ⁉ ちょっとそれ詳しく聞かせてくださいよ!」
「ふふふー、嬉しそうだねえ。じゃあ契約成立ってことでいい?」
「……もちろんですっ!」
テンションがあっという間に爆上がりする俺。ただ、1つ見落としていた。以前も同じ流れで結局何の解決にもならなかったという重要なことを、俺はすっかり忘れていた。
「じゃあ、契約成立かな。……あ、そうだ。採用に当たって1つ条件があってね」
お姉さんは、足を止めて、こちらを振り返った。逆光になり、その表情は良く読み取れない。ただ、じっとこちらを見定めているような雰囲気が少し気になった。
「バイト中、不思議に思うことがひょっとしたらあるかもしれないが……」
なんだか嫌な前置きだなぁ、と思った。野生の勘というやつだろうか。