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「ううん、なんでもない」
「そう。それならいいんだけれど」
踵を返して他の友達の元へと戻っていく彼女を、呆気にとられながら見つめていた。柚乃の身に一体何が起こったのか。考えられるとすれば、『SHOSHITSU』アプリの影響で彼女が変わってしまったとしか言いようがない。
私は教室をざっと見回して、彼が教室に来ているかを確認した。クラスの中でアプリのことを知っている唯一の人間。神林は席につき、私を見つけると軽く手を挙げた。
「おはよう。あのさ、彼女のこと知ってる?」
私はさっそく神林に柚乃のことを尋ねた。
「彼女って、遠藤さんのこと? 知ってるも何も、クラスメイトじゃないか」
「そうだよね。変なこと聞いてごめん」
神林は訝しげに首を傾げる。そりゃそうだ。彼から見ればいま私はかなりおかしなことを口走っている。
頭上からキンコンカーンという予鈴が鳴り、私は自分の席に戻った。まだまだ聞きたいことは山ほどあるのだが、頭の整理が追いついていなかった。
担任の雪村先生がやってきて今日の連絡を話している間、ずっと上の空だった。
柚乃が消えて、戻ってきたこと。アプリの効果が本物であること。
それ自体はなんとか受け入れざるをえないということが分かった。およそ信じられない現実だけれど、実際起こっているのだから認めよう。
もう一つ疑問なのが、神林がどれだけ覚えているかということだ。彼には三日前に、アプリのことや柚乃のことを話している。その時点で彼は柚乃を覚えていなかった。でも、今日はしっかりと柚乃の存在を知っている。
となると、私が神林とアプリの話をしたこと自体、なかったことになっているのだろうか。
神林は覚えていないのだろうか。
アプリのことだけじゃなくて、私と屋上で肩を並べて話したことも。優しい手で背中を撫でてくれたことも……。
あの屋上のシーンを思い出しているうちになんとも言えない感情に襲われて、先生の話がまったく耳に入ってこなかった。夢があまりにもリアルだったせいで、目が覚めた後もしばらく夢の中の出来事に心を持っていかれている、そんな感じ。




