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家に帰り着くと母親が「ちゃんと勉強したの?」と決まり文句をかけてきた。私はぶっきらぼうに「うん」と答えてさっさと二階に駆け上がる。母はそれ以上何も聞かなかった。結果を見れば分かるとでも言いたげに。定期テストの点数は、毎回両親に必ず報告しなければならない。前回より一点でも落ちていれば、そこから一時間の説教タイム。毎回お決まりの光景なので、今更ビビることはない。
部屋に入り、私は『Peace』で勉強した参考書の続きのページを開く。母が時々ちゃんと勉強をしているか覗きに来るはずだから、うかつにサボれないのだ。そう思ってペンを握ったのに、その日母は部屋にやって来なかった。
週末が明け、月曜日がやってきた。
この日私の心臓は朝から鳴りっぱなしだ。遠藤柚乃の猫をさらったのは先週の金曜日のこと。アプリの「代償」の意味を履き違えていなければ、今日学校に柚乃が現れるかもしれないのだ。
いつもの通学バスに揺られながら、窓に張り付く雨雫と向こう側の景色をぼんやりと眺めていた。余計なことは考えない。ここ数日間、ずっとそうして思考がおかしな方向へと向かないように注意してきた。高校2年生の私には、勉強や人間関係のこと、母のこと、アプリのこと、全部を一度に考えるには重すぎるのだ。
学校に着くと、バクバクと鳴る心臓を止められないまま、2年2組の教室の扉を開けた。
「おはよう、春山さん」
ドアを開けた瞬間、一人の女子生徒から声をかけられてビクッと肩が震えた。その人は紛れもなく遠藤柚乃だったのだ。アプリの言う通り、代償を支払ったことで消失した彼女が戻ってきたわけだ。
しかし、まさか戻ってきた初日に私に声をかけてくるなんて思ってもみなくて、目の前に現れた彼女を見て私は面食らう。
「お、おはよう」
「どうしたの? 元気ない?」
明らかに、彼女の様子が以前とは違っていた。まず、柚乃が私に自分から話しかけてくるなんてこれまでのことを考えるとありえないのだ。何かにつけて嫌味を言ったり無視したり、嫌がらせをしてくる彼女が挨拶なんて。
しかも、彼女の目を見ると真っ直ぐに私を見ていて、まったく悪意がなかった。普段なら瞳の奥に暗い夜の底が垣間見えるのに、今日の彼女の目は透き通っている。まるで、私をいじめていた彼女とは別人だ。




