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その日の夜、私は柚乃の家の庭先で眠っていた猫を連れ去った。
彼女の家はこの辺りでは有名な豪邸だったから、場所は分かっていた。目の前に立ちはだかる白い塀が、これから私が犯す罪の大きさに似て高かった。私はそれをよじ登る。途中、膝を擦りむいたけれど、なんとかこっそりと登りきることができた。
他人の家の庭に足を踏み入れるのに、動悸が止まらなかった。誰かに見られればそこで終わりだ。特に、柚乃の家族に見つかったらどうしようという恐怖で背中の汗がじんわりと滲んだ。いくら、「柚乃さんに戻ってきてもらうためなんです」なんて言ったところで、家族にとっては柚乃なんて娘はいないことになっているから、頭のおかしなやつだと思われるだけだ。アプリが指示するままに動いている私は、すでに「頭のおかしいやつ」には違いないけれど。
幸い、庭で眠っていた灰色の毛並みをした猫に腕を少し引っ掻かれたぐらいで、家の人には見つからずに済んだ。外から誰かに見られた可能性はなきにしもあらずだが、今のところ通報はされていないらしい。
猫を抱えたまま、夜道を駆けた。目的地はない。住宅街を抜け、とにかく山の方へと向かう。
生温かい猫の体温を感じながら進んでいたが、ずっしりとした重みですぐに息が上がった。丁寧に切りそろえられた毛並みが私の腕の中で風に当たって揺れている。猫が、「にい」と鳴く。にい、にい、にい。「降ろして欲しい」と訴えかけるようなその声は、私の足を何度も止めそうになった。彼(彼女かもしれない)を失った遠藤家のことが嫌でも頭に浮かぶ。その時感じる胸の痛みは、きっといま私が感じているものの数倍は激しいだろう。それ以上、家族のことは考えないようにして私は前へと突き進んだ。猫の爪が腕に食い込む度に「お願いだからもっと痛くして」と心から思った。




