104
「……俺はそんなたいそうな人間じゃないさ。それに俺も、日和と一緒で良かったよ。真面目だしさ、穂花みたいなんだったら話まとまんなさそうだし」
穂花という名前が彼の口から出てきたことで、ぐらりと視界が揺れた気がした。もちろん気のせいだ。そんなことは起こらない。私が彼を見る目が変わってしまっただけなのだ。
穂花、穂花、穂花。
頭の中を支配する彼女の気配に、胸が打ち砕かれそうになる。小さな針で何度も心臓を刺され続けると、大きな穴が空く。それが勘違いだろうとなんだろうと、痛みだけは本物だった。
「ねえ」
「どうした?」
あの日と同じように、西日が教室に差し込んでいた。でも、潮の匂いはしない。海風も吹かない。
「私たち、このままの関係でいられるよね」
「このままの関係って?」
「クラスメイト。私は永遠のこと、大切な友達だと思ってる」
「そりゃ……もちろん」
私が突然訳のわからないことを口走り始めて、彼は明らかに困惑しているようだった。その顔を、必死に記憶に焼き付ける。私が好きなあなたの顔を、忘れないようにと刻み付ける。
「ありがとう。じゃあまた明日ね」
ぽかんと口を開けたまま固まってる彼を教室に残したまま、私はカバンを持って歩き出した。振り返りたい気持ちを必死に抑えながら、振り返らずに進んでいく。
とっくに限界には達していた。
見て見ぬ振りをして、傷つかないように逃げていたのは自分だった。穂花の気持ちを優先したいという偽善的な理由を並べ立てて気づかないフリをして。
歩きながら、目尻から溢れそうになる涙がこぼれないように拭った。校舎を出るとポツポツと雨が降り出した。傘を持ってきていない私は、濡れながら早く家に帰ることだけを考えた。デジャヴだ。梅雨の時期に濡れながらバスに乗って帰り熱を出した日のことを思い出す。あの日から一歩も歩き出せていない。成長していない。あの時も神林と話した後で学校を飛び出していた。でもあの時と違うのは、もうすぐ彼への苦しい感情を失ってしまうということだ。
なんとか土砂降りにならないうちにバスに乗り込んだ。一番後ろの席が埋まっていて、一番前の一人掛けの椅子に座った。
カバンからスマホを取り出して、『SHOSHITSU』アプリを開く。
ずっと不思議だった。なぜ『SHOSHITSU』は私のスマホに現れたんだろうと。
でもようやくその理由を理解した。私には、消失させなければならないものがあったのだ。失わなければこの先上手く生きていくことができないものが。
『あなたが消したいものを、入力してください』
震える右手の指を左手で押さえながら、入力画面に切り替える。
そうしてこれまでずっと自分を苦しめてきた感情をゆっくりと打ち込んだ。
『消したいものは、神林永遠への恋心』
失わなければ戻ってこない心の平穏がある。
取り戻せない日常がある。
これで明日から、私は永遠への恋情を忘れられるのだ。
彼と普通に接して穏やかに過ごすことができる。穂花の恋を心から応援することができる。
『了承しました。では、明日から“神林永遠への恋心”が消えた世界をお楽しみください——』
涙が頬を伝った。車窓の外で、空が私のために泣いてくれているようだった。
朝目が覚めると、心にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われた。昨晩スマホを握ったまま眠ってしまったようで、起きた瞬間右手が強張っていた。
いつものと変わらない朝ではあった。でも、決定的に変わってしまっていた。目を閉じて、まず最初に神林の顔を思い浮かべる。いち、に、さんと目を閉じて数字を唱えてみたが、なんの感情も湧き出てこない。同時に穂花の手をとる彼を想像してみたけど、心はずいぶんと凪いでいた。
「成功だ……」
嬉しい、という感覚にはならなかった。でも、ほっとしたのは事実だ。私は見事彼への恋心を手放すことができたのだ。やった、やったよ。
「お母さんおはよう!」
朝ごはんを食べに一階に降りるといつもより元気な様子の娘に、母は「えっ」
と驚いているようだった。
「今日学校で勉強してくるからちょっと遅くなるかも」
「そ、そう。頑張って」
「あと、この間はごめんなさい。文化祭の実行委員も期末テストも両方頑張る
から」
自分でも驚くくらい素直に、母への謝罪の気持ちがすっと溢れ出ていた。心の枷がなくなったことで、これまでむしゃくしゃしていた母への反抗心が急に萎んでしまったらしかった。
「え、ええ……」
面食らったままの母を尻目に用意された朝ごはんを食べる。いくら私の気持ち
が変化したからといって、母の気持ちまで突然切り替わるはずはない。今はゆっくりと解決の時を待たなければ。
しかし少なくとも、母の表情が以前よりも柔らかくなっていることに気がついた。私の気持ちが少し変化するだけで、周りの人間にもこれほど影響が出るのか。知らなかった。『SHOSHITSU』アプリが教えてくれたのだ。
「いってきます」
朝ごはんを食べ終わり支度も終えたところで家を出た。「いってらっしゃい」という母の声を背中で受け止めて私は学校へと向かった。




