仇し春の露、取調の煙
いつから俺は煙草を吸い始めたんだったか。ふとその疑問が浮かんだ。その疑問をしばし胸に抱えるが、煙草に火をつけ、その煙を大きく吸い込み、自分への問いと共に宙に消え去った。
現場に入る前に車を向かわせながら一服するのが、いつしか俺のルーティンになっていた。
「慶次さん、そろそろやめたらどうすか、煙草。だいぶ煙たいっすよ」
一昨年同僚になったばかりの中野が助手席から口を出してくる。就任当時は世話を焼いたが、今では右腕と言っていいほど、要領よく仕事をこなしている。若く生意気な奴は嫌いだ。こいつも口の利き方も悪く、若く生意気だ。が、嫌いにはなれない。
「うるせえ、若いの。コーヒー飲んで目覚めたろ。早く働け」
「うぃーす」
俺と中野は他愛ない会話をしながら、手袋を両手にはめる。そして、ブラックライトを持ち直す。どうやら、横で中野も仕事のスイッチが入ったようだ。仕事の表情に変わり、ルーティンの深呼吸をしている。
まだ宵空も明けない頃、俺達は立入禁止のテープが張り巡らされた駐車場に足を踏み入れる。すでに、写真を撮っている捜査関係者が数人いた。彼らに自分の身分証明書を見せる。
「これが『同化』現場か」
今から約三時間前の深夜一時頃、取り壊し予定地になっている立体駐車場から女性の叫び声が聞こえたと通報があった。周囲の監視カメラを確認したところ、黒いフードをかぶった、背の高い人間が入っているのが見えた。背の高さから、男性と推測される。その後数時間して、被害者と思われる女性が入ってきていた。
ブラックライトであたりを照らすと、荒んだコンクリートに変色している部分が多く見られた。
「赤黒い跡が残っていることから、血が蒸発した後だろう。争った解析はあり。他殺でしかないだろうな。
『同化』後の体液はほぼ蒸発済み、か。まあ、当たり前だが、『同化』後から数時間は経っているな。これはDNA鑑定は無理だな。
ちなみに、『同化』した人の名前はわかっているのか?」
人間が『同化』してしまった後、人体は形を留めきれず、液体化する。その液体は数時間で気化してしまう。DNA鑑定ができるのは、この数時間だけになってしまう。そのため、証拠や犯人が特定されないことも少なくない。犯人も死んでしまい、すべてが闇の中に葬られることもある。
しかし、我々は逃がすつもりはない。この世界の不条理に抗い、この世界の規則に身を隠す犯人を白日の下に晒す。そして、罪を償わせる。それが我々の仕事だからだ。
「監視カメラの映像と顔認証システムにかけています。おそらく、この市に住んでいる踏野舞、二十七歳未婚女性だと考えられます。高卒で、高校までの交友関係は現在調査中です。職業も調べましたが、資料を調べても出てきませんでした。フリーターもしくは、夜の稼業をしているのではないかと考えています」
中野が調査内容を淡々と答える。俺もそうだろうな、と思う。経験上、仕事不明・未婚となると、なかなか関係する人物を見つけにくい。
「家族構成は?」
中野は質問に答えるために、ペラペラと分厚い資料をめくる。
「調べたところ、結婚はされていないようです。また、両親とも『同化』しているようですね。兄弟姉妹は他都道府県に住んでいて、疎遠になっていると考えられます。そのことから、家族からの情報はあまり期待できないでしょうね」
「じゃ、まあ、男女間の恨み妬みか何かだろうな」
「証拠もないのに、何がわかるんすか」
今まで仕事モードだった中野がほんのりと笑みを浮かべる。
「経験だよ」
俺は中野に左手の薬指を動かして見せる。それに対して、中野は失笑する。
「何言ってんすか。結婚してないでしょう?」
「朝の報道に間に合うか?」
俺の質問に、中野は不敵な笑みを浮かべる。
「もう既に手配してます」
流石、俺の右腕。手慣れてきたな。
「一回戻って、履歴を調査するぞ」
「了解っす」
現場を出る頃には夜明け時になっていた。ボロボロになったコンクリートの隙間から生えた雑草の露が暁に照らされ、虹色に反射していた。俺はそれを見て、煙草を取り出す。煙草の煙が周囲に舞い、虹色の輝きが褪せる。
俺は署に戻ると仮眠をとって、朝六時に起床した。資料が散乱した部屋のテレビの電源を点ける。
『プツッ……市で『同化』事件がありました。被害女性は、二十七歳の女性。今日未明ごろ、駐車場から叫び声がしたという通報があり、……』
「ちょうど、この事件の内容ですね。これで、関係者が連絡くれればいいんですけどね」
まだ寝起きで伸びをしている俺に目が覚めきっている中野が話しかけてくる。
「……っくぅ、あぁ。
まあ、ないだろうな」
事件が起こった直後、報道方法は二種類に分けられる。
犯人の身元が判明されていれば、報道せずに捕まってから報道というのが一種。これは犯人に逃げられないようにするため。
しかし、どうしても犯人の情報が欲しいが、被害者や監視カメラの情報から得られるものが少ない場合、犯人に逃げられてでも、少しでも情報を掴むために報道という方法。犯人が『同化』してしまう可能性もあるため、あまりこの手は使いたくないが、今回は深夜で映像分析がしづらいという点や身辺調査が難しいという点を踏まえれば苦肉の策だ。
「まずは、学校の調査だな。この女性の最終学歴は?」
「どうやら高卒……らしいっすね。地元の公立高校に入学して、三年間在籍になっているんでストレートで卒業してますね。聞き込みしますか?」
「一刻も早くするべきだな。情報が少なければ中学校と小学校も調査するぞ。アポとってるか?」
「はい、既に。ただ、パトカーによる来校は控えてくれ、とのことです。まあ、できるだけ生徒を刺激したくないでしょうからね」
俺は子どもが嫌いだが、行くしかない。俺は自分の車のキーを机の中から取り出し、ジャケットのポケットにつっこむ。
高校に到着したのは三十分後のことだった。玄関に入ったものの、場所が分からず、中野と地図を眺めていたところだった。
「あの……何かお困りですか?」
おそらく警察が学校にいることに困惑しながら、清廉な女生徒が話しかけてくる。その眼差しは真っ直ぐで曇りなかった。俺はその女生徒から視線を外し、中野に任せることにした。
「ああ、すみません。職員室がどこにあるのかわからなくて」
「職員室なら、二階にあります。ここの階段を上がって左手に曲がった周辺にあります」
ジェスチャーを交えながら、丁寧に説明してくれる。普段から心優しい子なのだろう。名札を見ると、村井という名前だとわかった。
「ありがとう、助かった」
俺は目を合わせず、村井という少女に礼を言い、職員室に向かった。その生徒が言うように、職員室はすぐに見つかった。まさか二階にあるとは。中野は三回ノックしてから、職員室のドアを開ける。
「失礼します。事件で連絡させていただいた、刑事の星野と中野です。担当者の方はいらっしゃいますか?」
職員室から顔を出したのは少々なよっとして見える、眼鏡をかけた男性教師だった。名札によると板谷というらしい。
「え、ああ。少し……お待ちください」
なよっとした見た目に反して、仕事は早いようだ。すぐに生徒指導の教員の守谷先生が出てきて、会議室に案内された。俺と中野は促され、ふかっとしたソファに腰掛ける。
「踏野舞という生徒についての情報ですよね。生徒指導記録を探しておきました」
生徒指導記録は学校に在籍していた生徒に関する記録を残したものである。どのような生徒だったか、どのような生徒指導を受けたことがあるのか、といった内容が記されている。
「九年前に卒業している生徒で、成績は平々凡々としていますね。遅刻や欠席も特に多くなく、どこにでもいるような生徒だと思います。
ただ……」
含みのある沈黙に俺と中野は「ただ?」と聞き返す。
「高校二年生のときに、同級生の男子生徒にストーカーをされていたという記述があります。当時踏野と付き合っていた男子生徒がそれに激怒し、乱闘騒ぎになった、と」
「そのストーカーをしていた男子生徒の情報は?」
「烏野拓海という、成績優秀でトップクラスだった生徒です。目立たない子だと、そのときの担任教師の見解が書かれています。
この他に大きな事件は起こしていないようですが、この件で一週間の停学処分になったと書かれています」
俺は嫌な予想が頭によぎる。踏野と烏野の生徒指導記録の複製を一部もらい、俺たちは学校を後にした。
「……良い結末にはならなそうだな」
「そっすね……煙たいっすよ、慶次さん」
それから約一ヶ月後、烏野拓海という男性について調べていたときのことだった。ほとんど証拠が揃ってきたときだった。
案の定、烏野拓海が犯人だと判明した。烏野本人が自首してきたのだ、一冊のノートを持って。その真面目そうな男は「自分がやった」と言ったとき震えていたそうだ。
俺と中野は取調室に入り、烏野から事情を訊き取る。
「この映像に映ってる男に頼んだのか?」
監視カメラの映像を烏野に見せる。烏野はゆっくりと頷く。
「……俺が、委託した、と思います。……信じたくないですが、ほぼ確定だと思います。
一年前から徐々に俺の通帳からお金が消えていたんです。大学生活のときにバイトで貯めていたのにおかしいと思ったんです。それで、不思議に思って調べてみたら、自分の部屋から契約書が出てきて……。
それで、一冊のノートを見つけたんです。高校生の頃からの恨みや最近踏野と揉めた件について事細かに記されていました。
……高校生のときに、俺はどうやら踏野と揉めていたんです。
俺は何で踏野の恨みを買ったのかはわからないですが、俺は踏野に嵌められた。校舎裏に踏野に呼び出され、その写真を別の人物が撮り、クラス中にばら撒いた。おそらく協力していたのでしょう。俺はたちまち立場を追いやられた。そして、踏野の彼氏に暴行を加えられた。俺は偽造の証拠写真があるから、言い返すことはできなかった。高校生活は棒に振られましたが、当時の俺は我慢して見返してやろうと決意したようでした。
しかし、大学を卒業して仕事に就いたときでした。俺と踏野は偶然電車で出くわしました。それだけなら良かったんです。
踏野は高校のときのことは反省していると言い出したんです。過去の俺はその言葉を鵜呑みにしてしまいました。踏野が詐欺師とは知らずに。
それから何回か電車で同じになり、踏野は改心したように感じたらしく、心を許してしまったそうです。俺は踏野に相談を聞いてほしいと言われたそうです。そうして、二人で居酒屋に行き、俺がトイレに行った隙に睡眠薬を飲まされた。踏野は俺の指を胸に当て、指紋をつけた。痴漢と見せかけるために。
それを餌に、俺は毎月大金を払わされ、払わなければ犯罪者だぞ、と脅されたようです。
通帳の金が尽きようとしていたとき、俺はネットで『同化』請負人を見つけました。この人に踏野を『同化』してもらえば、生活が楽になると思った。
これが一部始終です」
涙ながらに語られた、長く重い独白が終わった。
長い静寂が訪れた。俺の背後でパソコンに記録を打ち込む中野も相当きているらしい。タイピング音が徐々にゆっくりになって、重々しく聞こえた。
「……それで動機を思い出したってわけか。
心当たりがあるなら、結構だ。犯人の中には、「忘れて、心当たりもありません。」とかシラを切る奴もいるからな。ま、事実が頭から抜け落ちてるんだろうけどな。
……どうして、自首しようと思ったんだ」
俺はどうしても目の前の男に自分を重ねずにはいられなかった。世界の何もかもが灰色になってしまった俺。そして、一人の女性に人生を狂わされた烏野。
「……わかりません。ただ、俺は怖いんです。また、誰かの人生を奪うんじゃないかと不安になって……。
……でも、『別人』の自分が犯した罪も自分が償うべきだと思ったんです。そうしたら、少しでも自分を疑わなくて済むかなと思いました」
俺にはこの男の気持ちは一生かかっても理解できないだろう。記憶を失う前の自分の罪を償いたいという気持ち。俺は想像さえできなかった。
「……そうか。
あんたはこれから裁判と精神鑑定にかけられることになる。『同化』させてしまったものの罪は重い。それは既に覚悟の上だろう。
……ただ、その前に一人の人間として、あんたに言っておきたい」
「……はい」
まるで今裁判が行われているかのように、目の前の項垂れた人物が、重く弱々しい返事をする。
俺にはその男が気持ちはわからなかったが、欲している言葉はわかった。
「お前まで、罪を犯してどうする!? きっと今の表情を見てると、あんたは善良な奴だったはずとわかる!!
……まだきっとやり直せる。俺はずっと待ってるからな」
絶望に霞んだ黒い目が、少し輝きを取り戻したように見えた。そう、思いたかった。
「刑事さん……あんたみたいな人ともっと早く出会っていたかった。あなたとの約束を希望に生きていきます。
……ありがとう、ございました」
俺はわかっていた。多分あいつもわかっていたはずだ。二度と俺達が会うことはない。この世界にそんな希望はない。
だが、男が発した「ありがとう」という言葉が反芻する。その男が取調室を出るや否や俺は頭を抱え、自分の髪をくしゃくしゃにした。
俺は浜辺に出かけ、古びたベンチに腰掛ける。上を見ると、俺には眩しすぎる星がきらめいていた。俺は煙草に火をつける。
しかし、俺は煙草を吸わなかった。煙で星が隠れた、それだけで満足だった。
光を見ると、この世には希望があるのではないか、と思ってしまう。俺はかつて希望を信じていた。夢に見た仕事、新婚生活、新たな家族を迎えたこともあった。
しかし、妻は娘の養育費を自己満足に費やしていたことがわかった。俺は裁判にかけ、娘の親権を手に入れた。
仕事に明け暮れていた俺は娘の気持ちにも気付いてやれなかった。良い父親でもなかった。娘は孤独ゆえに逃避行に及んだ。
俺が煙草を吸い始めたのはその頃だったのだと、この一件を機に思い出した。
きっと俺が『同化』しても、娘には何の影響もないだろう。記憶から無くなった、とも思わないはずだ。それぐらい、俺は親として子に干渉していなかった。
過去回想にふけっていると、人が歩いてくる音が聞こえる。徐々に近づいてくるなり、話しかけられた。
「慶次さん。こんなところにいたんですね。
これで『同化魔』も芋づる式で……」
俺の表情を見て中野は沈黙する。俺は今どんな表情をしていたのだろうか。知る由もない。
「なぁ、中野。この世界に価値なんてあると思うか?」
「……正直、わかりません。俺もまだまだ下っ端ですけど、この仕事してると、価値なんてないのかなー、なんて思うことがあります。今日の一件もそうでした。この世に存在しても、いつかは忘れ去られてしまう。つまるところ、善行を積んでも悪行を積んでも同じことなのかな、とか思ってしまいます。
……でも、慶次さん。少なくとも、あなたが生きる価値はあると思います。それだけは確かです」
その黒い目は夜に灯る電灯の光を一筋に受け、爛々と白く輝いていた。嘘偽りなき目。
「……そうか」
俺はこいつと同じ年齢のとき、希望に満ちていたんだろうな。俺のように誰かとの関わりの中で、こいつは世間に絶望するのだろうか。
ただ、その期待の新星は俺に輝きを見出してくれていた。煙のように濁り切った俺に。
「慶次さん、もしかして泣いてます?」
「ッ、煙草で咽せただけだ」
そうだ。煙草が原因で涙が出てきただけだ。そう心に訴えかけながら、俺は煙草を口に咥え直す。しかし、それはすっかり短くなってしまっていた。俺はベンチに備え付けられている灰皿スタンドに煙草をねじこむ。
ふと夜空を見上げる。星が薄っすらと光を放つ。
「……たまには、希望を信じるのも良いのかもれないな」
視線を落とすと、海に月影が揺らいでいた。
それから数ヶ月後のことだった。
「この前の事件の委託先の人物がわかりました!」
中野が珍しく大声を上げる。
「本当か、でかした。これ以上、被害者を増やさないためにも、今から動くぞ」
犯人の現在地は水族館だった。そこに包囲網を敷く。何がなんでも罪を償わせる。
この短編のタイトルは「仇野の露鳥辺野の煙」という言葉からきています。意味は露も煙も儚く消えてしまうように、人生も儚いものという意味です。
私自身、作品を執筆するとき曲の歌詞からインスピレーションを受けることが多いです。この作品は『花火』にインスピレーションを受けて執筆しました。