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海月の日常  作者: 刹那翼
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 私は自分の席から見える校庭を俯瞰していた。先週は満開だった桜がピンクの晴れ化粧もなくなり、無様だな、と今の私は思っていた。言葉にできない、感情の闇が日常をじわじわと侵食している。

 一時間の授業がいつの間にか終わったようで、チャイムが鳴る。授業が終わると、授業の片付けをしながら、私に向かって担任の山木先生が手招きする。拒否する必要もないので、ゆっくりと私は席を立つ。私が傍に立つと、先生は他の人に聞こえない音量で話を始めた。

「……桜、お母さんの『同化』のことは知っている。今日は勉強に身に入らないようだが、大丈夫か?」

 普段よりも深刻そうに私に話している。怒っているのではなく、心の底から気遣ってくれている様子だ。

「すみません。母の記憶はないのに、ぼーっとしたい気分になってました。明日からの授業は気を付けます」

「別に気を付ける必要はないよ。ただ、心配事とかがあったら俺じゃなくても相談してくれよ」

「はい、ありがとうございます」

 私は先生の心遣いに少しの感謝と、呼ぶ必要ある?という懐疑心から来る皮肉を込めて、その言葉を口にし、席に戻り窓の外に視線を戻す。運動場に現れる男子生徒の影がいくつか見えた。そのエネルギーをどこか良いところに使えないの?と今日は感じた。

 なぜか今日は心に大きな穴が開いている気分がしている。普段は真摯に授業に取り組んでいる方だが、今日はぼんやりとグラウンドを眺め続けている。

 チャイムが鳴り、廊下などで遊んでいたクラスメイトがぞろぞろと入ってくる。チャイムが鳴り終わる頃には、みんな席に座っていた。

「起立。……礼」

 礼と言われたものの、そのまま席に座る生徒がまばらに見えた。そんなもんか、といつもの私が思わないようなことが胸の中を渦巻いていた。

「今日の授業は、『同化の原理』について、です」

 私に対する配慮はないのか、とは思わなかった。教えるように決められたことを忠実に先生は授業をしているだけだ、程度にしか思わなかった。

「『同化』とは、生物界における“死”を意味します。しかし、人間の『同化』は他の生物のように、形は残りません。人間の死は、まるで世界と同化するように溶けるのが特徴です。ナメクジに塩をかけたときのように、ものの数時間で体を構成していた物質が液体化します。その液体はすぐに蒸発する、という特徴もあります。この原理はいまだ解明されていません。

 そして、もう一つの重要な特徴として『同化』した人のことは記憶から消えるという特徴がありますね。電車の通勤中に隣に座っていた人のことも、大切な人との記憶も、何も残らないということです。

 人の記憶が残らないため、日記文学や書簡、建造物が歴史の主流になっていますね。人々の化石が残っていないため、いつ人類が誕生したのか、いつ戦争が起こりいつ文明が発達したのか、あまり定かにはなっていません。

 そのため、その反省を活かして、近現代から文字による保管の大切さが提唱されるようになりました。手紙や日記などが大切に保管される文化はそのためですね。

 ここまでは皆さんも常識として知っていることだと思います」

 黄色で書かれた文字を先生はチョークで指しながら説明しているようだが、いつものように盛り上がりもなく、平坦な授業が淡々と繰り広げられる。これは先生の声量があまり変わらないからもあるのだろう。

 先生は話すのを終え、板書に戻る。ぎこちなく、ゆっくりチョークのカッカッという音が教室にこだまする。先生の新人らしく文字のバランスが整っていない板書を黙々とクラスメイトはさらさらと書き写す音が聞こえる。

「なーんか、ヤマッキーの授業の後だと、地味に感じるよね。聞いてばっかだし」

 先生には聞こえない声量で、斜め前の、提出物ちゃんとやる型黒髪ギャルの今村さんが話しているのが耳に入る。しかし、見た目は部屋汚そうな体育だけ得意型と見せかけて意外と真面目、と個人的に話題の山本君が「俺に言うなよ、前向け前向け」と小声で促していた。今村さんの意見はわざわざ声に出すことではないが的を射ているなと思った。

「ここからが、高校生物の内容です。

 まず、水は凍らせると、氷になりますね。氷は水に浮きます。また、氷は水より体積が大きいのです。他の物質はそうはなりません。水だけの特徴です。

 これは物理学的な観点から見て、水の不思議な性質です。言い換えると、水は不思議な物質なのです。

 また、その水の特異性から水には記憶を保存する性質があるのではないか、という考えが現在の主流になっています。その考えと、先程説明した『同化』するときの人体の液体化が結び付けられています。

 つまり、記憶を保存する人体がなくなったため、その人に関する記憶が消えてしまうのではないか、という仮の結論が出ています。

 ただ、人の『同化』はクラゲも同様な死を迎えます。クラゲも死後、海と一体化するように水に変化します。このことが人間の『同化』と関連性があるのではないか、とクラゲの研究も進められています」

 水に関する説明は、珍しくテンションが高いように感じた。



 放課後になり、私の斜め後ろの席の村井さんに肩を叩かれる。今年初めて同じクラスになり、あまり会話もしたことがなかったので、少し面食らう。そして、目の前の女性はまるで作品の主人公のように、真っすぐでキラキラした瞳をしている。私の澱んでしまっている、今の心には相反するもので、長く関わるのは精神状態に芳しくないと思っていた。

「……山中さん、これ」

「何? ノート?」

 更に、私は面食らう。私にサインでも求めているのだろうか。それとも、提出物の返却? あ、私に提出物を職員室に持って行けと命令しているのか。

「うん、そうだよ。

 だって、珍しく授業ちゃんと受けてなかったから。もしかして、調子悪かったかなって。いつもちゃんと受けてるし、今日の部分抜けてたら、私なら困るなって」

 純粋な瞳に気圧される。しかし、荒んだ心も村井さんへの感謝でいっぱいだ。それは今の表情からは伝わらないだろう。

「……あ、ありがとう」

 私は村井さんのノートを自宅まで大切に手で持って帰った。鞄に入れたら、折れてしまいそうだから。

 帰りの電車の中で、横に座るカップルに不思議な視線を向けられたが、気にしない。

 電車の中で、パラパラとノートをめくる。村井さんがページの片隅にクラゲの絵を描いていた。そのクラゲはデフォルメされて可愛くなっていた。私は愛称として“くらげん”と呼ぶことにした。くらげんは吹き出しで「僕と関係性があるかも」と話していた。



「ただいまー」

 いつも朗らかな父の顔が少しやつれているような気がする。無理もない。

「おお、桜。おかえり。どうした、いいことでもあったのか」

 それほど、顔の筋肉が綻んでいただろうか。授業受けれなかったと言うと、心配されるので、良いところだけ切り取って言う。

「友達に優しくされた」

「そうか。それは良かったな。その友達にまたお礼言っておくんだぞ」

「うん、わかってる」

「それと、これ、母さんからだ。今日、荷物を整理していたら、母さんの机の引き出しから出てきたんだ。私のは、桜じゃなくて、もっとシンプルなものだったけどね」

 父親のふっくらした手に握られたのは、桜の花びらがデザインされた封筒だった。

「手紙……」

 今日の授業が頭に浮かぶ。大切な人からの、手紙。私は父から受け取り、ノートと同様に大切に握りしめる。

「父さんの分もあったが、読んでいない。まあ、心が落ち着いたら読むといい。

 さあ、もうご飯にしよう。もう十八時だ」

「お父さん、私、これ、今日読むよ。それと、お父さんはお母さんのこと覚えてる?」

 父は私の目をじーっと、真剣に見つめ、少し微笑んでから言った。

「記憶からは抜け落ちてしまったよ。ただ、今のどうしようもない、どこに向けたらいいのかわからない感情で、とても大切な人だったと思うよ。

 この世の摂理だけど、大切な人との出会いも、思い出も、母さんが桜を初めて抱いたときの顔も忘れてしまった自分がひたすらに悔しい。

 ただ、目の前に大切な人がお腹を空かせて帰ってきたんだ。さ、晩ご飯を食べよう」

 私は安堵した。今日一日も、私と同じ気持ちだったんだ。



 私は食卓にノートと手紙を置き、晩ご飯を食べた。

 そして、自室の勉強机に備え付けられていた、ピンクの椅子に座る。私は封筒が開かないように付けられていた、桜の花びらのシールをゆっくりはがす。その封筒を開くと、中には、ほんのりとピンクがかった便箋に文字が綴られていた。これが母の字。どこか私の字と似ていた。そして、私より綺麗だった。

「拝啓 桜様。

 こうして、あなたが手紙を読んでいるということは、きっと私はこの世にいないということでしょう。

 長くなると思うので、簡潔に書きます。あなたと過ごした日々は何にも変えられない宝です。

 あなたが生まれたとき、病室の窓から桜が見えました。とても美しい桜でした。あの桜のように、美しい心を持った人になってほしいという一心で、お父さんと相談して決めました。

 あなたを育てるのはとても大変でした。あなたの夜泣きで目を覚まし、睡眠不足で過ごす毎日だったことを、今も昨日のように覚えています。成長しても、負けず嫌いなあなたは男の子と喧嘩して、私はそれを何度も叱りました。それも昨日のように覚えています。

 高校生になり、立派になったあなたはもう手が掛からないので、どこか寂しいです。いつか結婚するのかな。でも、結婚しない選択も一つです。それはあなた自身が決めてください。ただし、後悔はしないこと。

 私は父さんと喧嘩はよくして、あなたにも止められることがありましたが、父さんを選んだことは何一つ後悔していません。あなたという大切な存在と出会えたから。

 たとえ家族が私を忘れてしまっても、私の頭の中はあなた達と過ごした、幸せな記憶でいっぱいです。

 頼りない父さんなので、これからも支えてあげてね。

 最後になりましたが、あなたの名前の由来をもう一つ。桜の花びらが散ってから、桜の木は夏に蕾を作るのだそうです。そこから、寒さを耐え抜いて、その力を開花の力に変化させるそうです。私がいなくなってから、きっと立ち止まる日も来るでしょう。でも、桜の木のようにエネルギーを貯めなおして、また、あなたの美しい笑顔を見せてください。

 敬具

 母より」

 もう覚えていない母からの手紙は愛で満ちていた。私はその手紙が見えなくなるほど、ずっと涙で視界がぼやけていた。



「これ、ありがとう。今度は私が助けるね」

 村井さんにノートを手渡す。はいと快い返事の後に、村井さんがまたじっと目を見つめてくる。太陽のような瞳だ。目を合わせるのが苦手な私は怯む。

「目、大丈夫?」

 私、そんなに泣きすぎたのか。私は顔に手をあて、少し微笑んでから窓の外に目を向ける。

「ちょっとね。」

 校庭には、桜の木がある。その木は今もピンク色の花びらが付いている。私の名前の由来の木が誇らしく立っている。きっと百年ほど前から、その美しさで多くの人々を魅了しているのだろう。私も、いつかきっと。

「私、あなたみたいに頑張るから。悲しさを乗り越えるよ」

 村井さんは不思議そうな顔を私に向ける。

「山中さん、何か言った?」

「ふふ、何も」

 目の前の新しくできた大切な人を大事にしよう。後悔しないように。

作者の後書きです。作品中に書くのはナンセンスだと思ったので、後書きで一つ紹介します。

フランスでの桜の花言葉は「私を忘れないで」です。

それは桜の母が自分のことを「私を忘れないで」と伝えているのか。手紙でも触れていた、桜の結婚相手に桜のことを「私を忘れないで」という亡き母からの将来の相手へのメッセージも込めて名付けられたのかもしれません。それは母のみぞ知る。作者も知らない。


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みなさんからのメッセージが自信と加速装置になります!

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