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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

女子校の先輩と列車に乗って異世界に行く話

作者: 平坂瑪瑙

「先輩、奇遇ですね」


 学校から家へと帰る途中、列車の待機列に先輩らしき人影を確認できたので、思わず駆け寄って声を掛けてしまいました。

 やたらと大きな手提げ鞄を持った先輩はいつものような無表情でこちらを振り向くと、微かに口を開きました。

 そして聞き慣れた、掠れていて気力の感じられない声が私の耳に辛うじて届いたのです。


「ああ、斎宮(いつき)君か。君は普段からこの路線を利用しているのかい?」


「はい。通学にはずっとここを使っています。先輩は、多分、そうではないですよね? 一度も見かけたことがありませんから」


 今年高校二年生となる私は全ての登校日に必ずこの駅を利用して登下校し、皆勤賞を獲得したのですが、しかしその間、通学中に先輩の姿を見かけることなどただの一度もなかったのです。


「そうだね。僕は三日前、初めてここに来た」


「なぜですか?」


「なぜだろう。ほんの気まぐれだったと思うのだけどね……そう、確か、あの日僕は疲れていたんだ。家でも学校でも、色々と……難しいことがあってね、逃げ込むようにしてこの環状線に乗り込んで、椅子に座り、ただ時間の過ぎるのを待っていた」


「……自分でよければ、相談に乗りますよ?」


 私は人の悩みを聞いてあげられるような器ではないのですが、しかしただ聞くだけでいいのであれば、それで先輩の気持ちが楽になるのであれば、壁よりはその役目を上手く果たせるはずです。


「ありがとう、気持ちは有り難く受け取っておくよ。しかし、僕の懊悩は既に解決したんだ」


「家の問題が解決したんですか?」


「いいや。問題はそのままだけど、単に僕が悩まなくなったんだよ。僕が苦しみさえしなければ、それが如何に煩雑で解決困難でも、そんなものは既に悩みではない。かくして懊悩は解決されたんだ」


「放り投げたんですか」


「いやいや、ちゃんとどうにかするさ。そんなことより、列車が来たよ」


 私は先輩の後ろに続いて車両の中へと入り、そして空いている席に座りました。


「この時間帯は人が少なくていいね。都心なのにすぐに座れちゃった」


「同感です。授業の長い日なんて退勤時刻と被ってしまって大変ですからね……私なんて特に家が遠いものですから、席を取れたらその日の終わりまで嬉しくなってしまいます。朝はどうしようもありませんが」


「斎宮君、痴漢されたことはある?」


「な、なんですか、藪から棒に」


「いやあ、満員列車で押し競饅頭しているのを想像したら不意に浮かんでしまってね。そういう話も、最近はとてもよく聞くし」


「……まあ、大抵の女性はそういう事を経験していると思いますよ。一々訴えるのも面倒、という考えが出てくる程度にはありふれている犯罪です。日本国民がこの列車などという交通手段を挙って利用している状況がどうにかならない限りは、なかなかなくならないんじゃないですかね」


「それで、斎宮君自身は?」


「ノーコメント。そもそも質問がセクハラですよ。ところで先輩はそういう猥褻行為に及んだことがあるんですか?」


「そう来るか。その質問はセクハラだね」


「ぼかす必要があるんですか?」


「無い。まあ僕はそんなに特殊な人間ではないからね、猥褻行為での補導歴なんて存在しないよ」


「含みのある言い方ですね」


「それは僕の悪癖だ。当然実際に手を染めたこともない」


「まあ、そうでしょうね……はあ、そういう輩さえいなければもう少し気分良く通学できるのですが」


「なるほど、頻繁に被害に遭ってるんだ」


「ノーコメント。セクハラです」


「斎宮君はかわいいからなあ」


「……ノーコメント」


 しばらくこうして先輩と他愛ない会話を続けていたのですが、ふと先輩の表情が少し硬くなりました。


「斎宮君。君はどの駅で降りるのかな?」


「さあ、どの駅でしょう」


「普段はどこで降りている?」


「四つ前の駅ですね」


 しれっと答えてみせます。


「そうか。まあそのくらいだろうね。一つ前の駅でこの線路を半周した。ここから先の駅が目的地なら、逆回りの列車に乗った方が早い」


「ふむ、確かにそうですね。失敗しました」


「僕と同じ駅で降りるつもりだった?」


 先輩は、私の好意に気付いてくれているのでしょうか。


「どうでしょう」


「斎宮君。もしかして君は……友達が少ない、とか?」


 どうやら気付いてなさそうです。


「暇なんだろう」


「先輩にだけは言われたくありませんね。忙しいとは言いませんが……そもそも降りる駅にしても、それは先輩にも当てはまるのでは? まさか、先輩も私と同じ駅で降りるつもりでしたか?」


「いや。……斎宮君、この環状線を一周したことはあるかな?」


「ありません。先輩、まさかあなたは、そんな小学生のような考えをもってずっとここに座っているんですか?」


「大体正解だね」


「……まあ、確かに、嬉々として列車に乗って都内を無駄にぐるぐると回っているような人間に悩みなんてなさそうですね。精々虫歯が痛いとか、そういったスケールの事がお似合いです」


「それで、斎宮君はそういうことをした経験があるかい?」


「……ありませんが」


「じゃあ今から試そう」


 そう言う先輩の顔は、相変わらず変化の乏しい表情でしたが、しかし、これまでに見たことがないほど愉快そうでした。


「何が起こるっていうんですか? そこまで言うからには、ただ二週目に入るわけではないのでしょう」


「その通り。まあ、僕達が始めにいた駅まではまだ少しかかる。もうしばらく雑談でもしていようじゃないか」


「セクハラ以外なら歓迎しますよ」


「気をつけよう」


 そうしてまた、今朝家を出るときに見た野良猫の話などをしていると、とうとうその時が、始めの駅に着く瞬間が迫ってきていました。


「そろそろだね」


 先輩がそう言うと、がたん、と、列車がひとつ大きく揺れました。

 普段列車に乗っていて感じることのない、直接肩を揺さぶられたかのような、異質な揺れでした。

 その後に脳がぐらりと揺れて、視界が歪みました。物の輪郭が青色や赤色にブレて、些かサイケデリックな様相を呈していました。


 そして、周りにはいつの間にか、先輩以外の人間は存在しませんでした。


 得体の知れない恐怖と言い様のない不安に襲われ、私は思わず先輩の方に身体を寄せてしまいましたが、しかし結果としてその先輩こそ私に最たる不安をもたらすものとなってしまっていました。

 この状況において、先輩は、この、表情筋の存在さえ疑われていた先輩は、確かに口元を吊り上げ、くく、と笑っていました。

 先輩との付き合いはかれこれ一年ほどになりますが、その一年間において、私が一度も見たことのない先輩でした。一瞬私がおかしくなったために見えている景色かと錯覚した程です。いえ、実際そうだったのかも知れませんが、とにかく私から見た先輩は笑っていました。


「先輩、どうされたのですか? 珍妙な表情ですが」


「言ってくれるね。まあもう少し大人しくしていてくれ」


 先輩の言葉が終わるや否や、突然列車の中にブザーの音が響き渡りました。人間に根源的な不快感と警戒心を与える、その一般的な目的を鑑みれば非常に効用の高いブザー音です。それはしっかりと私の精神を揺さぶり、軽度の錯乱状態にまで陥らせました。ブザーの指すところが避難勧告や警告であるのなら、こと私に対しては効用はカス以下だったと言えるでしょう。


「あれを見て」


 辛うじて先輩の指差す方を見ると、電光掲示板がありました。しかしそれも平時のものではなく、割れた液晶のような、プログラムがバグを吐いたような、そういう不安感を与えるビジュアルを擁していました。


『此処より先へ進んではならない』


 突如として、電光掲示板にそのような文章が浮かび上がりました。


「先輩、これはなんなんですか? 先輩は先へ進むんですか?」


「否、進まない。僕にこの警告を無視する度胸はなかったらしい。だから今日は、進むための実験をしに来たんだ」


「実験?」


「そうだよ。ちょっとしたら一度止まるから、そこで降りよう」


「わかりました」


 がたり、と音が鳴り、一転して驚くほど滑らかに列車は停止しました。

 手提げ鞄を持って悠々とドアへ歩く先輩に続き、私も外へ出ようとしたのですが、開いたドアの向こうがブラックホールが如き漆黒に染まっていたのです。狼狽える私を尻目に先輩はとぷんという音を立てて漆黒の中へ身体を潜らせました。私は覚悟を決め、歯をくいしばるとそれに続きました。

 私の身体の先が漆黒に触れると、吸い込まれるようにぬるりと、足が扉の先へと滑っていきました。


「先輩……ここは、なんなのですか」


 漆黒の先は南国のようでした。

 見慣れぬ木が、正確には映画などでは見慣れているのですが、そう、これは所謂椰子の木なのですが、それが海岸にいくらか生えており、いや、それ以前にまず、漆黒を抜け私の降り立った場所が海岸そのものだった事に驚きました。

 私の目に映るのはなぜか、白い砂が太陽光を浴びて綺麗に発色する理想のビーチなのです。


「先程からずっとではありますが、私は私の目がとても信じられません。これは一体なんでしょう。夢、ですか?」


「僕はそう考えてはいないけど、或いは夢なのかも知れないね」


「先輩はどうお考えなのですか?」


「地球のどこか」


「まあ、夢と断じるよりは現実的な仮定ですね」


 夢は現実ではないのですから、という遊び心を交えて述べましたが、しかしこの状況は夢と断じる方が簡単ではあるでしょう。


「或いは別の星かも」


「何も分からない、という事でよろしいですかね?」


「実際そんな感じだね」


「正直でよろしく思います。それで、先輩はここで何をするつもりなんですか? 実験とは一体?」


「これ、何だと思う?」


 そう言うと先輩は、私の前に変に膨れた手提げ袋を掲げて見せました。


「手提げ袋ですね」


「当然中身の話だよ」


「実験器具」


「半分正解」


 先輩が勿体ぶって袋から取り出したのは、空色のケージに入った可愛らしい猫でした。


「先輩、まさか」


「恐らくはそのまさかだ」


「じ、自分は反対させていただきたいです!」


「そうは言っても……手頃な動物がいなかったんだ。僕はどうしても、この列車のことを調べなくてはならない」


「し、しかし……ネコちゃんを犠牲にするなんて」


「猫のこと、ネコちゃんって言うんだね……まあいいや。反対されようと僕は強行させてもらうよ。それに犠牲とは言うが、100%殺すことになるわけじゃない。警告を無視して進んだ先が、例えばドッグランかもしれない。あり得ないとは思うが」


「まあ、それを否定できるほどの情報を私は持っていませんが……くっ、やるなら早くやってしまいましょう」


「次の列車が来ないと無理だよ」


「いつ頃になるんですか?」


「前と同じなら一時間後」


「一時間、ですか……」


「そう、一時間、だ。環状線の一周と同じ一時間。その間逆方向へ向かう列車が一本来るんだが、それは帰還用だ。それに乗って行けば元の場所に戻れる」


「……帰還用の列車、二本目は来るんですか?」


「来る。検証済みだ」


「列車を降りると毎回この場所に出るんですか?」


「違う。よく気付いたね」


「この時間帯なら、一時間に十四本の列車が駅に止まります。この場所に来る列車が一時間に一本なら、他の列車ではこの不可思議な現象は起きないか、或いは別の場所に連れて行かれるのだと考えました」


「僕がこの三日で試した限りでは、一度とて同じ場所に出ることはなかったね。同じ時刻に列車に乗っても、全く違う場所に出た。一週間、或いは一年といった周期があるのかもしれないが、まあ短期間で検証するのは不可能だ」


「同じ時刻に走っているからといって同じ車両とは限らないのでは?」


「盲点だった。僕は列車には詳しくないからね……今度調べてみて、それでわからなかったらマーキングして確かめてみよう」


「マーキングは……下手すると捕まりそうですね」


「上手くやるさ。既にバレないであろう方法を三つほど考えた」


 なぜか不自然に存在するベンチに座って列車を待つ間、話題は二転三転しましたが、一番心地よかったのは勉強を教えてもらう時間でした。先輩が隣に座り、私のノートを覗き込む時、靡く先輩の髪から先輩の香りが私の脳髄に染み渡り、そのあまりの多幸感に気を失いかけました。丁度来た列車の音が私の意識を引き止めなければ本当にその場で倒れていたかもしれません。


「来たね。このケージを車両内に置く」


 先輩はそう言うと、可愛らしい黒猫の入ったケージを紐で車両内の柱に括りつけました。

 ぷしゅー、という少しかわいらしい音を立て、海の上を滑るように発進した列車は、そのまま見えなくなっていきました。


「また一時間待つ」


「一時間後、帰ってくるのは同じ、ネコちゃんを乗せた列車なのですか?」


「その筈だよ。既に無機物──シャーペンで実験済みだ。シャーペンはなんともなかったが、生物ではどうなるのか……」


「もし」


「もし?」


「ネコちゃんが無事に帰って来たら、次はどうするんですか」


「次は……僕が行くつもりだよ」


「やめてください」


「なぜ?」


「先輩に、万が一があってほしくないんです」


「なぜ?」


「……なぜ、でしょうか」


 誤魔化してしまいました。

 そのまま、心のままに答えることもできたのに。


「まあ、列車が帰ってきてから考えようじゃないか」


「……そうしましょう」


 また同様に会話をして、そのまま一時間が過ぎ、列車がその姿を見せました。


 砂浜を抉るように走ってきた列車のドアがゆっくりと開きます。

 私と先輩は列車に近寄ると、その開くのを固唾を飲んで見守ります。


 ドアが開いて現れたのは、内側から食い破られたとおぼしきケージと、そして、およそ猫とは言えない姿になった、恐らくは先程のネコちゃんでした。


 長く伸びた胴。これだけならよいのです。変化したということを鑑みなければ、ダックスフントのようで可愛らしいとも思えます。


 大きな口。これだけならよいのです。まだよいのです。ヒトであっても時にチャームポイントになり得るでしょう。


 ですが私は、二つに増えた尾と頭だけは、看過することは出来ませんでした。


 ネコちゃんの頭は二つに増えて、それぞれが意思を持つように動いていました。眼玉と耳はそれぞれ四つ。大きなお口は計二つ。ペロリと出した舌も計二つ。


 それは全体像を見てしまえばどう捉えても悍しく、完全に異形と呼ぶべき姿をしていました。


「先輩」


 先輩は、ネコちゃんに向かって、いや、違う、列車に向かって歩き出していました。


 乗る気です。先輩は、このネコちゃんの容貌を見ても尚、あるいはこれを見たからこそ、列車に乗る気でいるのです。


「先輩、待ってください」


 私は咄嗟に先輩の手を強く握りました。

 力が入り、足が少し砂に沈みます。


「行かせてくれ」


「行ってはいけません」


「止めないでくれ」


「先輩、考え直してください」


「離してくれ。僕は、行くべきなんだ。行けば、きっと」


 先輩の表情は、悲愴とも激情とも取れる色に染まっていました。普段の、普段私たちに見せている先輩の姿からすれば、全く想像もつかない色でした。


「きっと、何ですか。解放されるんですか」


「……」


「問題は、なんとかするんじゃなかったんですか。既に悩みではなくなったんじゃなかったんですか」


「気付いていたのか」


「気付きます。先輩を知って一年になりますから。先輩が無理をしていることなんて、まだ悩み続けていることなんて、わかってしまいます。まだ、逃げ続けていたんでしょう。おかしくなってしまいたくて仕方がないんでしょう。その先に何があるのか、本当に考えているんですか」


「……君は、何も知らないくせに、僕に説教をするんだね。君の事は評価していたんだが、それでは他の人間と何も変わらない。僕が親に何をされているのかも知らないくせに」


「知りません。知りませんけど、私ももう逃げない事にします。こんなことを言っておいて私だけ逃げ続けるなんてフェアじゃないですし、そんなの抜きにしても、私の心はもう溢れそうなんです」


「何を言って────」


 私は思い切り先輩の手を引き、そして先輩を思い切り抱きしめました。


「先輩、好きです」


 ぎゅっと力を込めると、先輩の柔らかさと春を思わせる香りが返ってきて、またそのまま気をやりそうになってしまいますが、先輩のために、ひいては私自身の為に、精神に鞭を打って堪えました。


「先輩のことが、性的に、好きで好きで堪らないのです」


 ああ。言ってしまいました。とうとう。

 一年間、初めて会ったその日から、ずっと秘めていた想いを、とうとう。


「君は、本気で言っているのか」


「本気です。先輩の事が好きで好きで仕方ないからこそ、この列車に乗って欲しくないのです。私は先輩が好きなのです。この列車に乗ってしまえば、それは先輩ではなくなってしまうかもしれません。それはどうしても嫌なのです。私の事は受け入れてもらえなくても構いません。唾棄していただいて構いません。だからどうか、乗らないでください」


「君は、おかしいんじゃないのか」


「おかしいのかもしれません。普通、女が女にこんな事は言わないのでしょう。けれど、私はただ、好きになった人が女だったという、ただそれだけなんです。ただ、好きな人にあなたのまま存在していてほしいという、ただそれだけの想いなんです」


「違う。そこじゃない。もっと手前だ。僕の事を、こんな偏屈で卑屈で無愛想な僕を好きになる人間など」


「ここにいます。他の誰が何を言おうと、私はあなたの事が好きで仕方ないんです。先輩が偏屈で卑屈だというのは間違っていないのかもしれません。愛想も無いかもしれません。ですけど、先輩はとても優しい人です。表情も、わかりにくいだけで、実はその機微は人間味に溢れていることを知っています。先輩を知れた私は幸せ者です。先輩が何に悩んでいるのかは知りません。だから教えてください。私は先輩の力になりたいんです。先輩が救われる手助けをしたいんです」


 最早化け猫という言葉が相応しくなってしまったネコちゃんが、にゃあんと鳴いて列車から飛び降りました。

 列車が去っていきます。


 先輩は、また柄にもなく真っ赤に染まり涙に濡れた顔で、私のことを見据えていました。


「僕は……君に……甘えてもいいのか」


「好きなだけ甘えていいんです。ここには他に誰の目もありません」


 先輩は私に体重を預けると、赤子のようにわんわんと泣き出しました。

 私はまだ先輩の悩みを知りませんが、ただその泣く声を受け止め、先輩を抱きしめていました。

 壁よりは上手くその役目を果たしているつもりです。

 先輩はさらに大声を上げて泣き続けました。


 どのくらい経ったのでしょうか。

 先輩は声も枯れ、涙も枯れると、ぐずりと鼻を鳴らして、私に囁きかけました。


「家に帰りたくないんだ」


「……私の家に来ますか?」


 理由を聞きたいのも山々ですが、きっと話すのも辛いでしょうから、あえて聞かないでおくことにしました。

 話してしまった方が楽になる事も勿論あると思いますが、人それぞれです。先輩がどちらかは私にはわかりません。時間をかけて解決していくべき問題だと思いました。


「君の両親は?」


「私は家族には恵まれました。私が頼み込めば、事情を聞かずに泊めてくれると思います。経済的にも苦しくはないはずです」


「そうか。……お願いしても、いいかな」


「勿論です」


 私は先輩のその言葉を聞いて、先輩が抱える事情の重さというものをある程度想像することができました。

 先輩は、他人には穏やかな態度で優しく接するのですが、かなり厳しく自己を律しており、他人に頼ることを是としないのであります。

 その先輩が、他人の家に泊まるなどという、その家に大きく負担のかかる行為を選ぶなど、普通ならありえない話なのです。

 天秤にかけた時にそちらが持ち上がるほど、先輩は家に帰りたくないのであります。


「斎宮くん」


「はい、んっ」


 柔らかい何かが私の唇に触れました。


 突然の事に一瞬理解が追いつきませんでしたが、今起きた事象を整理すれば、先輩が私の顔に手を添え、くちづけ、接吻などと呼ばれる不埒な行為に及んだのだとわかりました。

 わかった途端に、私の顔に血が上るのを感じました。傍目にわかるほど紅潮していることでしょう。先輩の吐息が聞こえます。私の鼓動が高鳴るのも聞こえます。うまく呼吸ができません。全身の感覚が浮遊しています。

 多幸感。

 私は今、一つなりました。幸せというものの実質の理解をもって。


「せ、先輩」


「ああ、そうか、これが……愛か……」


 先輩は、私を強く抱いて、そう吐きました。


 先程の台詞。先輩は、これまで一般に人が経験する愛というものを知れずに生きてきたのかもしれません。私にはとても推し量ることはできません。

 ですが、その先輩の境遇に同情する気持ちと一緒に、それに感謝してしまう悪い私がいました。その境遇にあればこそ、先輩は特別に素敵で、私を許されない恋、秘密の花園へと落とすこと能ったのだと。

 その私に、私は一抹の気持ち悪さをおぼえましたが、表には出さず、先輩を強く抱き返しました。


 少しの時間が経って、先輩が私から離れました。


「救われたよ。本当に……ありがとう。そろそろ……帰りの列車が来る」


 そう言ってすぐに、列車の走る振動が私たちの立つ砂浜を揺らしました。


 私達はそれに乗り、他愛のない話に勤しみました。そして、今後の話。


 先輩は、先輩の家にある大事なものを持って、明日、私の家に来るそうです。私としては自殺行為に及ぶほど先輩を追い詰めていた家に帰したくなどなかったのですが、どうしても置いてはいけないものがあるらしいのです。さすがにそうまで言うところを引き止めることはできません。


 景色がおかしくなりました。行きの時にも見た光景。

 その後に、何事もなかったかのように、列車は都内の線路の上を走っていました。

 結局これはどういうものだったのでしょうか。私にはわかりません。


 先輩と別れ、私も家から最寄りの駅で降りて帰路につきます。明日から始まるであろう先輩との暮らしに胸を躍らせながら。





 翌日。



 先輩が死亡した、という報せを聞きました。



 信じられませんでした。事情を知っている教師を問い詰めました。


 詳しいことは分からないが、父親に殺されたらしい、とのことでした。



 信じられませんでした。信じたくありませんでした。



 放課になるのを待たずに、私は先輩の家に向かいました。場所は知っています。信じたくなかったのです。せめて私の目で確かめたかったのです。確かめたくもなかった。ですが、確かめなくてはならないと思ったのです。




 先輩を見つけました。


 白線の上で、血塗れで横たわる先輩を。



 殺人現場なのですから警察の姿などもあるかと考えていたのですが、人気(ひとけ)はなぜかまるでなく、ただ先輩だけがそこにありました。


 死因はよくわかりませんでした。刺殺、あるいは撲殺。顔に掛かった布を捲ると白い肌に殴られた痕、体には刺し傷と、青痣。


 体の中を、酸っぱいような何かが走り回りました。赤くて黒い気持ちが渦巻きました。


 何故。先輩がこうならなくてはならなかったのか。

 理不尽への憤り。


 そして後悔。


 何故私は、昨日先輩を帰してしまったのでしょうか。考えられたはずです。

 帰すべきではないと。どうあっても止めるべきだと。


 涙が溢れてきました。私が涙を流したのはいつ以来でしょうか。

 悔しさが、怒りが、絶望が、私の奥から涙を押し出してきています。




 私は近くに置かれていたとても大きな旅行鞄の中に先輩を詰め込みました。

 見ただけでは人が入っていると分からないはずです。私はそれを持ってその場を離れ、駅へと向かいました。


 私は力のある方ではなかったのですが、尋常を逸した心のなせるわざなのか、それを運ぶのに一切の苦労をしませんでした。



 環状線を走る列車に乗り、ただじっと、鞄を抱え続けました。

 じっと、ずっと。



 列車の様子が異様になったのがわかりました。

 以前先輩と見た景色。『此処より先へ進んではならない』という文字。

 列車が一度止まりました。この前は、ここで降りました。


 私は、列車を降りませんでした。


 ただ、じっと鞄の先輩を抱え続けました。


 列車が走り出しました。

 列車の中が、私の視界が歪んでいきました。


 私は、ただずっと先輩を抱いていました。


 ずっと。


 段々と意識が希薄になっていくのがわかります。


 もうものをかんがえるのもむずかしくなってきました。


 ただきもちだけはずっとありました。


 ずっと、せんぱいをだいていました。


 これからどうなるのかわかりませんが、ただせんぱいといっしょに────





 しばらくして、私は家からの最寄駅のホームで目を覚ましました。


 忙しなく列車を降りる人の姿はあれど、先輩の姿はどこにもありませんでした。私の体にも殆ど何の変化も感じられませんでしたが────お腹の中で、何かが少し動いたような様子が感じ取れました。


 ふと、私は、なにか、全てが解決されるかのような気分になり、お腹を、お腹の中の何かを、ただ撫でていました。


 この中にはきっと。

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