そんなんじゃない
大学構外にある定食屋で昼食を摂っていると、見知った顔に声を掛けられた。
「よお、元気してる?」
深く刈り上げたツーブロックと、デニムのジャケット。グレーのギグバッグを背負った彼は蝦夷川といって、同じ学科で二つ上の先輩だ。
「元気ですよ。こんにちは」
「そりゃよかった」
空いた向かいの席に座り、荷物を壁に立て掛ける蝦夷川先輩。先約がいるかどうかを訊かないのは、俺がいつも独りで定食屋に来ていることを知っているからだ。
新学科生のオリエンテーションで知り合って以来、この先輩は何かと面倒をみてくれていた。食堂の雑多さが性に合わなかった俺に、穴場としてこの個人経営の定食屋を教えてくれたのも彼だった。
聞いた話では自他ともに認める博愛主義者だそうで、蝦夷川先輩の世話になっている後輩は他にもたくさんいるらしい。だから構内では常に誰かと絡んでいる彼と、こうして一対一で会話を交わすのはきまってこの場所だった。
注文を取りに来た店員に「いつもの」と告げつつ、先輩は運ばれてきたお冷を半分ほど一気に飲んだ。からからん、と氷が小気味の良い音を立てる。
「ふはー、今日はあっついね。春ももう終わりかな」
「まだ五月に入ったばかりですよ」
「そうだっけか」
適当なことを言いつつ、へらへらと笑う蝦夷川先輩。
人脈は広いが人望は薄い、というのがこの人の端的な特徴だった。誰にでもとにかく話し掛けたがる性質で学年学科問わず顔見知りは多いものの、気分屋で素直すぎる部分が彼の評価を下げている。
たとえば、蝦夷川先輩が喧嘩の仲裁に入った、などといった噂話は枚挙にいとまがない。有名人である分共通の話題として取り沙汰されやすい面はあるが、それを差し引いても彼には人間関係において加減というものがなかった。延々と知り合いを増やしては、知り合い同士の揉め事に積極的に巻き込まれる。そして両者から嫌われる、というのが彼の定型だった。
蝦夷川先輩を知っている人たちは皆、本質的に悪い人間ではないのだと口を揃える。だからこそ彼の周りは常に離れていく人間より近づく人間のほうが多い。離れていく人間は、彼の無邪気さに耐えられなくなって去る。たぶん、それだけのことなのだろう。
「ゴールデンウィーク、染井は誰と過ごすんだ?」
俺が食事を終えたのを見計らって、蝦夷川先輩は訊いてきた。
「家族と過ごします」
「大学生とは思えない過ごし方だな」
「別に大学生らしくありたいと思ったことはないですが」
「そう言うなよお、楽しいぞ? 大学生ごっこも」
「ごっこって」
そういう歯に衣着せぬ物言いをするから敵を作りやすいのでは。
運ばれてきた親子丼を、黙々とかき込んでいく先輩。食事中は食事に集中するという彼なりの生真面目さだが、傍から見れば変わり者に映るかもしれない。俺個人としては気が楽だった。
人には必ず二面性がある。周囲に見せたい面が表で、そうでない面が裏。裏表がないように見える人間は、表を見せるのが上手い人間なんだと俺は思う。裏があってもそれを見せないようにできる人は、人知れず努力をしているということだから信頼できる。蝦夷川先輩は両面が表のような人ではあるけれど、そう在ることを自分に強いているようでもあり、単純に嫌いにもなれなかった。
なんてことを考えているうちに、蝦夷川先輩も完食する。美味かった美味かったとつぶやきながら、爪楊枝を手に取った。
「さて、さっきの話の続きだが」
「ゴールデンウィークの過ごし方ですか?」
「おう。俺は学科の仲間と泊りがけの旅行にいくぜ」
「楽しそうですね。どこに行かれるんです?」
「レンタカーで山のキャンプ場に。運転は俺。三月に免許取ったから、このときのためにずっと練習してたんだよ」
「そうなんですね」
「全然興味ないのな、お前」
邪険にされているのに嬉しそうな顔をする蝦夷川先輩。不気味だ。
「最初に会ったときから気になってたんだけどさ、染井って付き合ってる子とかいるのか?」
「いきなりですね。というか、そんなこと気にしてたんですか」
「お前が興味ありそうな話題を振っただけだよ。で、どうなん」
「いませんよ」
「嘘つけ」
「正直に言いましたけど」
「恋人のいないやつが講義室でスマホ見ながら独りでにやにやするかよ」
「誰の話ですかそれ」
「お前だよ」
身に覚えはあった。ただ、それを目撃されているとは。
冬華のことは大学では誰にも話していない。明るい話題ではないし、知り合って一か月程度の相手に話しても引かれるのがオチだろうと思ったからだ。
目撃されていたのは、おそらくトーク履歴を見返していたときだ。あれはたまたま講義室に早く着いたときで、誰も居ないと思って油断していた。
「四月の初対面からそんな気配がしてたんだよな。高校からの恋人と遠距離とか、ありふれたパターンだ」
「そういうのじゃないですよ」
「じゃあ誰とやり取りしてたんだ? まさか家族ってわけでもないだろ」
じい、と俺の眉間を見る先輩。長い睫毛も相まって、彼の目には有無を言わさない迫力がある。
「……幼なじみです。この春に再会したんですよ」
「へえ。女の子?」
「そうですけど、先輩の想像しているのとは違うと思います」
「言ってみなきゃわかんねえだろうけどな」
くつくつと笑って、ようやく先輩は視線を俺の顔から外した。
「まあいいや。その先は、もっとお前が心を開いてからでいい」
見透かされているような感じだ。年上の余裕がそう見せるのか、俺が話したがらない理由までも知っているようなそぶりだった。
とはいっても、遠慮してもらったというのは本当だろう。彼の言うありふれたパターンのうちに俺の件が含まれているかどうかはわからないが、強引に聞き出そうとしないだけありがたい。
なんにせよ、この人は俺に何かと気を遣ってくれる。それを無下にしていられるような恩知らずにはなりたくない。彼への信頼だけじゃなく、俺自身がこの事情を明るい話題に変えていかなければ。
「いつか続きを話せるように、頑張ります」
「ああ。楽しみにしてるぜっ」
決め顔でウィンクまでする蝦夷川先輩。
恰好つけすぎでなければもっと人望もあるだろうに、とお節介なことを思った。
*
五月三日、ゴールデンウィークの初日。俺は初めて面と向かった冬華に出迎えられた。
「こ、こんにち、は?」
自信なさげに首を布団にうずめる冬華。未知の布団生物からは脱したが、表に出ている顔以外は依然布団に包まれたまま。暑くないのだろうか、とまずは気になった。
しばらく黙っていると冬華はさらに布団の奥へと首を引っ込めた。なるほど、いつでも布団形態に戻れるようにしているのか。いくら一度は顔を見せたからといって、常時見せっぱなしというわけにはいかないらしい。
「な、なにか言って……」
冬華の上ずった声で思考を止める。驚きのあまり俺は挨拶を返すことも忘れていた。
「こんにちは、冬華」
「う、うん、それでいいの」
またひょっこりと顔を出す。最初よりも頬が赤く、やはり暑いのではと心配になる。かといって布団を手放すように言うのもなんだか躊躇われて、結局彼女の意思に任せることになった。
「今日はすぐに顔を見れたからびっくりしたよ」
「そ、そっか。だめ、だった?」
「ううん。これからもそうしてくれると俺は嬉しい」
「わかっ、わかった」
もう長い間人と対話していないのか、何度も詰まりながら話す冬華。元は口数の多いほうだっただけに、喋るときに使う筋肉の衰えが顕著に影響を及ぼしているのかもしれない。
今はあまり彼女に話させないほうがいい。俺は冬華の居るベッドに背中を預け、持ってきていた鞄から黒のノートパソコンを取り出す。膝の上で起動していると、背後でもぞもぞと移動する気配がする。芋虫を想像した、と言ったら怒られるだろうか。
「なに、してるの?」
「動画を観ようと思って。画面は大きいほうがいいだろ?」
「ど、動画って、どうぶつの?」
「うん」
あらかじめデスクトップに置いてあったショートカットをダブルクリックして動画サイトに飛ぶ。サイト内に作ったフォルダを選択し、自動再生を開始した。
初めに再生されたのは南極の動物の生態を収めたドキュメンタリー風の動画だ。投稿しているのは欧州のテレビ局で、無料公開の上に動画のクオリティも高いとネットで評判のアカウントだった。
一面が真っ白な氷の世界を、白黒の集団が横切る。顔が黒くて腹が白い、ずんぐりとした体躯の鳥類――アデリーペンギンだ。一度彼らにズームアップしたあとで、穏やかなBGMが流れ始める。
それからは彼らの行進を様々な角度から捉えた字幕付きの映像が八分ほど続く構成だ。特に山場のない単調な動画だが、案外目を離すタイミングが難しく、つい最後まで観てしまう。その不思議な魅力を冬華にも共有したくて、俺はこの動画を保存していた。
こっそり冬華の反応を窺おうと首を動かす。肩越しに画面を見ていると思っていたが、冬華の息遣いがすぐそばに聞こえて、俺は咄嗟に硬直した。
バニラの甘い香りがする。甘いといってもほんの少し匂う程度で、至近距離に来なければ気づくこともなかっただろう。冬華の白い髪が揺れ動くたび、その香りは強さを増して意識の内側へと入ってくる。
一瞬、この髪が飴細工なのではないかと錯覚する。間近で見ると単純に白ではなく、ガラスのように透き通っているようにも見える。我ながら馬鹿みたいな幻覚だが、陽の光の当たらない場所でこもり続けた彼女ならあるいは――って、そんなわけあるか。
「シュン?」
呼ばれる声にはっと気がつく。動画は既に最後まで再生され、次の動画に移る前の広告が流れている。スキップボタンが表示されているのに押さない俺に、冬華は不安げな眼差しを向けていた。
「あ……ごめん。次の動画に行ってもいい?」
「うん。み、みせて」
声色からは冬華の感情を読み取れなかった。俺は広告動画をスキップした直後、今の動画の感想を聞くタイミングを逃したことに気づいた。だがそれよりも冬華が次の動画を観たがっていることのほうが重要だ。
そして次の動画が始まる。冬華が画面に釘付けになっている間、俺は彼女の絹糸のような髪に気を取られる。するといつの間にか動画が終わっていて、冬華の控えめな呼び声で察して次の動画に進む。
そんなループを五、六回ほど繰り返したあたりで、冬華が言った。
「シュンは、どうぶつが好きなの?」
俺は停止ボタンを押して少し考えたあと、答える。
「好きだよ。こうして動画を探すようになってから、だけど」
「なんでどうぶつなの?」
「それは、君が動物を好きだったって君のお母さんから聞いたから」
「……そう、だったんだ」
眉をきゅっと寄せて、外に繋がる扉を見つめる冬華。そのとき確かに、彼女はそこにある悲しみを見ていた。
冬華だって、なりたくてこうなったわけじゃないはずだ。張り詰めた糸が切れてしまって、替えの糸が見当たらなかった。誰もその糸をすぐに渡してあげられなかった。途切れたままの糸を張り直すのは、時間が経ってしまった今では困難なのかもしれない。
だとしたら、今の冬華にあった糸を用意することが本当に必要なことなのだと思う。悲しみをきちんと認識している彼女なら、新しい糸を張り直したあとでもちゃんとやっていけると、信じたい。
「わたし、お母さんにとって、め、めいわくな子に、なったのかな」
「そんなことない」
即座に否定する。それは考えなくてもわかることだった。
「君のお母さんは君がどんなふうになっても変わらないって言ってた。だから冬華は、冬華の思う自分でいればいいんだ」
元どおりの糸でなくてもいい。美しい糸を紡げなくてもいい。
冬華は、蚕のように繭に包まれたまま、一生を終えるのではないのだから。