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清くうららに、うつくしく。  作者: 吉野 諦一
第一章 失われた青春を取り戻せるか
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ふきのとう


「そう……あの子、顔を見せたのね」


 一階に降りると冬華の母が待っていた。進展がありましたと告げると、リビングに通されて紅茶と焼きたてのパンケーキを出された。冬華の母の口ぶりとこの準備具合からして、何か予兆があったのかもしれない。


 清潔感のあるリビングの壁には、いくつかの額縁が掛けられている。女流二級に昇級、つまりはプロ入りしたときの免状の他に、小学生時代に参加した大会の賞状が並んでいた。そのすぐ下のガラスケースには優勝トロフィーが何個も置かれている。どれも綺麗に手入れされており、光を反射してきらめいていた。


「女流棋士()()()頃から外見を気にする子だったわ。顔色が悪く見えるのが嫌で、高校に進学する前からお化粧の勉強をしてた。特に大事な棋戦の前には、何時間も早く現場に行ってメイクしたりとか」


「これまで会ってくれなかったのは、見た目を気にしていたからだと?」

「意外かもしれないけれど、それもひとつの理由なのよ。実はあの子、朝からこっそりお化粧してたんだから」


 素直に驚いた。それと同時に、いろんなことに納得がいった。


 冬華の母は頬を緩めて言う。


「あの子の白くなった髪を見て、俊くんはどう思った?」

「アナグマではなくシロクマだったんだな、と」

「どちらかというとハクビシンじゃないかしら」

「別にそこはこだわらなくてもいい気がします」

「大事なことだと思うわ」


 たぶんね、と冬華の母は付け加える。


「アナグマはクマよりもタヌキ寄りの生き物なの。昔から日本ではハクビシンとひとまとめにムジナと呼ばれていたくらいだし」

「詳しいんですね」

「勉強したのよ、あの子と一緒に。わざわざ動物園に観に行ったりもした」


 大切な思い出なんだろうな、と思う。


 冬華が動物好きだということは初めて聞いた。俺の記憶の中では将棋にばかり興味を傾けていた印象だったけれど、本当はそうでもなかったらしい。でなければ俺を連れて野山へ探検に出たりもしないか。


 俺は元の彼女にこだわっておきながら、その実彼女がどういう人物だったのかをよく知らなかった。ほんの一部分だけを見て、それを取り戻そうとするなんておこがましすぎる。


「お母さんは、今と昔で冬華が別人になったと思いますか?」


 我ながら奇妙な質問だった。でも冬華の母はすぐには答えず、その意図を読み取るかのようにじっと俺の目を見ていた。それから数秒経って、口を開く。


「わたしは母親だからね。あの子がどんなふうに変わったとしても、別人だとは思えないわ。でも、俊くんからはそう見えてしまうのも、よくわかる」

「俺は、元の彼女に戻ってほしいと思っています」

「今のあの子を否定してでも?」

「それは」


 返答に迷い、張り詰める空気。ほんの僅かに視線を横に逸らして、冬華の母は笑う。


「ごめんね、意地悪な質問だった。俊くんがどう思っていようと、あの子に良い影響を与えているのは間違いないのに」


 本当に、そうなのだろうか。


 俺が彼女を元に戻そうとすることは、正しさと程遠くはないのか。


 だが、それでもきっと、俺にはそうすることしかできない。かつての冬華を忘れることなんてできない。今の彼女がその地続きであるのなら、なおさらに。


「納得のいかなそうな顔してるわね」

「正直、このままでいいとは思えなくて」

「だったらこういうのはどうかしら」


 とんとん、と指先で机を軽く叩く。


「今の冬華と昔の冬華とが別人であるかどうかは、とりあえず保留としましょう。わたしたちの主観では、話し合ってもどうにもならないから。その代わりに、俊くんにはあの子の空白を埋めてほしい」

「空白、ですか」

「ええ。二年以上、あの子は引きこもったきり。その間に得られるはずだった思い出をあなたが補ってあげてほしい。もちろん無理強いしない範囲で、冬華の意思を尊重してね。それならまだ、難しく考える内容は減るんじゃないかしら」

「……なるほど」


 確かに、やるべきことが具体化したように思える。要は冬華をいろんなものと触れさせ、心の動く時間を増やしてやればいいということだ。外に連れ出すとか元に戻すとかよりも余程何をすればいいのか思いつきやすい。そして何より、冬華に行動を強制する必要もなくなる。


 長らく冬ごもりを続ける彼女に、心の揺れる春を届ける。奇しくもそれはこの一か月間にしてきたことと同じでもあった。都合の良い解釈ではあるけれど、つまり手段そのものも間違ってはいなかった、と暗にこの人は伝えたいのかもしれない。


 俺は背筋を伸ばし、首を縦に振る。


「やってみます」


 昔の冬華に戻るか戻らないかを決めるのは俺じゃない。


 最後に選び取るのは、冬華自身だ。



    *



 冬華との対面を果たした後も、毎日朝夕のラインは欠かさなかった。ひとつだけ変わった点はというと、文章の他に動画のURLを載せるようになったことだ。


 それを思いついたのは高校の同級生とラインでやり取りをしていたときだった。その同級生は動画をネットに投稿するのが趣味で、高校生の日常風景と銘打って校内でよく動画撮影をしていた。時折俺も手伝わされたが、その面白さはいまいちよくわからないのがほとんどだった。


 大学に進学しても相変わらず継続しているようで、今度は大学生の日常風景という題目でショートムービーを撮っているらしい。試しに視聴してほしいと動画のリンクを貼られ、なんとなく観てみたところ、笑いどころのよくわからないのはいつもどおりだったが、以前よりも演出が凝った仕上がりになっていた。


 なんでもそいつは大学で映像研究サークルに所属しているそうだ。まだ入ったばかりで勝手のわからない日々らしいが、充実感を得ているのはショートムービーに映り込む彼の姿からも見てとれた。


 サークル活動――大学に入る前は野球を続けるかどうかで迷っていたが、冬華の件があってからは完全に選択肢から消えていた。それは時間的な問題ではなくて、野球自体を続ける意味がないように思えたからだった。


 同級生が趣味を続けているのを知ったときにようやく思い出せるほど、俺の中で野球に対する興味が薄れていたという事実。あれだけ熱心に打ち込んだものに見向きもしないでいたことが、自分でも信じられない。


 ひょっとしたら冬華も同じではないかと考える。女流棋士にまでなった彼女も、何らかのきっかけがあって将棋に触れなくなった。いや、将棋どころか、外の世界に興味を持つこともできなくなってしまった。


 野球への関心だけをなくした俺でさえ、足場がひとつ崩れ落ちてしまったような不安を覚えている。それが冬華の場合、失ったもののほうが多いはず。その欠落感もまた、俺の想像ではきっと及ばない。


 だからこそ、なのだろうか。想像などではなくきちんとした実感として、俺は冬華を知らなければいけない気がした。


 そのためのヒントが、同級生の動画にはあった。正確には動画そのものではなく、その終わりに表示されたおすすめ動画。何の気もなく、再生ボタンをタップした。


 それはいわゆる癒し動画というやつで、愛嬌ある動物たちがちょこまかと走り回るのを撮影したものだった。それだけといえばそれだけなのだが、案外ずっと観ていられる。こんなことを思うと級友に申し訳ないけれど、彼の撮った同程度の長さの映像よりも体感視聴時間は格段に短かった。


 これだ、と直感する。俺は早速その動画をお気に入りに追加し、投稿者のチャンネルを登録した。それからひととおりの投稿動画を観て、冬華に紹介することを思いついた。


 ずっと、冬華が何に興味を示すかを考えていた。動物好きという点をどうにかして繋げられないかと思案していたのが、動画というアイデアで線になった。俺が気に入ったものを冬華にも薦めて、それを面白いとか可愛いとか、ポジティブな形で彼女の心を動かせられれば。それはとてもいい案だと思えた。


 だが、懸念がないわけではない。将棋と同様、冬華が動物に興味を持てなくなっていたら、いよいよ俺は彼女を別人だと思うしかなくなる。母親との大切な思い出さえ台無しにしてしまうなら、そう認めたほうが楽なくらいだ。試みるリスクとしては重い部類に入る。


 丸一日悩んだ結果、俺は思いついたその次の日に夕方のラインと併せて動画のURLを載せることにした。初めは海外の自然公園で飼育されているアライグマのきょうだいを撮った映像。草原を生き生きと駆ける二匹からは、愛らしさとともに自然界に生きる野生の逞しさが感じられた。


 反応があったのは一時間後。文章による返信は雨の日のあれきりだが、時々スタンプのみが送られてくることはあった。URLの下に表示された今回のそれは、笑顔だった。


 よかった、と俺は胸を撫で下ろす。


 ゆっくりでいい。こんなふうにひとつずつ、感情を積み重ねていこう。



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