表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
清くうららに、うつくしく。  作者: 吉野 諦一
第一章 失われた青春を取り戻せるか
4/33

がんばるから


 週末、実家から自転車で十五分ほどのところにある市立図書館へ向かった。住宅地の景観に溶け込んだ薄鼠色の建物は、子供の頃と変わらない出で立ちでそこに在った。


 入り口脇の駐輪場に自転車を停め、自動ドアをくぐる。館の外壁は一部がガラス張りで、ぐるりと囲むように広葉樹が植えられている。隙間から差す木漏れ日が、フローリングの床に陰影の模様を作り出していた。


 ロビーには二組ほどの母子と、くたびれた顔をしたスーツの男性がひとり。どこか見覚えのある組み合わせに、意識するまでもなく記憶との照合が始まる。


『あやさきとうかです。よろしくね』


 あれはまだ小学校にも通っていない頃だったか。図書館で催される読み聞かせ会で俺たちは知り合った。


『あなたはおなまえ、なんていうの?』

『そめいしゅん』

『じゃあ、シュンくんってよぶね』


 そのまんまだな、と思った。苗字よりも下の名前で呼ばれることのほうが圧倒的に多かった頃の話だ。


『わたしのことは、とうかおねえちゃんってよんでね』


 俺はそれに頷いたのだったか、どうだったか。いきなり話しかけてきた女の子をお姉ちゃんなんて呼べる子供だったかどうかまでは記憶にない。


 その反面、初めて会ったときの彼女の笑顔は鮮明に覚えているのだから不思議なものだ。


 思い出の想起を一旦止めて、館内の受付カウンターで利用者カードを発行してもらう。高校進学前に持っていた白色のカードが型落ちになっていることは、母から事前に知らされていた。新しく手渡された橙色の長方形をワイシャツの胸ポケットに入れて、ゲートを抜けた。


 この図書館に足を運んだのは、単なる懐古の情からだった。調べものをするなら大学図書館のほうが蔵書が豊富だし、インターネット検索ならいつでもできる。地方の公立図書館を利用する理由といえば、アクセスのしやすさと思い入れの有無だろう。


 俺と冬華はここで出会った。その当時のことを思い出しながら、背の低い棚の隙間を歩く。


 昔から配置が変わらないのか、目的の本棚には迷いなく辿り着いた。そこには児童向けの易しい本が並んでいるが、端のほうに数冊だけ将棋の本が置いてあった。


 冬華はまだ未就学児のうちからそれらの本を読んでいた。初心者用の、ふりがなだらけの入門書が、のちに女流棋士になる彼女の原点だった。


 その中の一冊を本棚から抜き取る。開いた最初の数ページは漫画で、そこから先は図説とキャラクターの絵が交互に出てくる形式をとっている。しかし章が進むにつれてキャラクターの登場回数は減り始め、後半になるとほとんどが将棋の盤面解説と文字で埋め尽くされるようになっていた。


 おそらくこの本は取っ掛かりこそ入門書の体だが、全部読み終える頃には将棋というゲームにどっぷりと浸かるように作られている。一気読みするような代物ではなく、子供の成長に合わせてゆっくりと読み進めていくための本。将棋に興味のある児童が、何年もかけて読破する前提の本だ。


 それを小学校に入る前から何周も読み返していたのだから、やはり綾崎冬華は神童だったということなのだろう。書かれている内容をすべて理解していたかはともかく、隣の絵本や漫画には見向きもせずにありったけの熱量を将棋に注ぎ込んでいた。


 冬華はスタートから早かったのだ。俺が憧れ始めた頃には、彼女はもう遠くに行っていた。


 もしも初めて出会ったあのときに、俺も彼女と同じ分だけこの本を読んでいたら。そんな可能性の欠片もない想像を膨らませたところで、何の得にもなりはしなかった。


 入門書を本棚に戻し、さらに記憶を掘り起こす。冬華が女流棋士になったと話題が広がったとき、この図書館内で特設コーナーが置かれていたらしい。将棋に関する書籍の特集だったというが、噂を聞いただけで実際に確かめたことはなかった。


 たくさんの人が、冬華に期待を寄せていた。それを重荷に感じ、冬華はああなってしまったのだろうか。応えたいという気持ちが人一倍強かったであろう彼女は、誰かに本心を漏らすことができないでいたのだろうか。


 今では誰にも心を開かなくなった冬華。初対面のときの、あの花開くような笑顔を見ることは、もうないのかもしれない。


 俺はあの頃の冬華を取り戻したい。だが、その先にまた重荷を背負う彼女の姿があってはならない。あの道の延長線上にしか彼女の進む道がないのなら、そんな場所には戻らなくたっていい。


 矛盾している、と自分でも思う。冬華が元どおりになることが、必ずしも彼女を笑顔にするとは限らないと気づいていた。彼女のためなら嫌われてもいいと意気込んでおきながら、それだけの代償を支払う価値を自分の行動に見出せずにいる。


 俺はまだ迷っているのだろう。でなければ、冬華に会いに行くべき週末を図書館での懐古に費やしたりはしない。いざ顔を合わせたときにどんな言葉で始めればいいのかわからないから、初めて出会ったこの場所で手がかりを探そうとしている。だが結果的に、この行動はひとつの事実を浮き彫りにしただけだった。


 それは、二人の間に距離を生んでいたのは、俺のほうだということ。


 その証左は、彼女からのあのメッセージ。咄嗟に、こう思ってしまったのだ。


 俺が会いたいのは、今の冬華じゃない――と。



   *



 それでも俺は、冬華に会わなくてはならない。


 図書館から戻ったその足で綾崎邸に向かう。何も指針を決められないままでいたが、今日会うのをやめて次に引き延ばしたとして、状況が好転するとも思えなかった。


 冬華の部屋へと続く階段を上る、足取りは重い。野球部の苦手な先輩から呼び出しを受けたときのような感情が、腹の底をきしきしと痛ませる。上りきり、埃ひとつない廊下の床を眺めて、一度だけ大きく息を吐いた。


 冬華の部屋の前に立ち、扉をノックする。「冬華、俊が来たよ」呼び掛けても当然反応はなく、二十秒ほど待機してからノブをひねった。


 部屋の中は相変わらずだ。テント状に膨らんだ布団の内側に冬華が居て、その外側は質素な本棚やクローゼットなどが並んでいる。それも遮光カーテンの隙間から僅かに入り込む光でおぼろげに見えるだけ。


 冬華の世界は、布団の中に収まってしまった。俺はそのことを受け入れられず、今の彼女を認められないでいる。


「こんにちは。冬華」


 ぎこちない挨拶。まるで知らない人と話しているかのよう。


「この前はありがとう。返事をくれて、嬉しかった」


 自分でも嫌になるほど、大嘘だった。


「今すぐじゃなくてもいいから、いつか顔を見て話せるといいな」


 ――誰なんだ、お前は。


 俺は綾崎冬華に会いたい。ただしそれはかつて憧れた冬華であり、こんな無様に落ちぶれた彼女ではない。それがどうしようもない本心だった。


 あの頃の冬華を返してほしい。そう告げることができれば、どんなに単純だったか。俺にはこのアナグマのような彼女が、冬華を奪った盗人のようにも思えた。それがどれだけ自分本位な濡れ衣であるか、わかっていても、なお。


「ごめんな」


 俺は言った。


「三年以上連絡も何も寄越さなかったくせに、今更幼なじみ面するのは無理があるよな。冬華も戸惑ってるだろうし、顔を見せてくれないのも仕方ないと思う。君はなんにも悪くない。悪いのは俺のほうだ」


 別人のようになったのは冬華だけじゃない。俺だって三年前とは大きく変わった。その変化を、成長と呼んでくれる人がいる。だから俺は、三年前の自分も現在の自分も肯定することができる。


 けれど冬華は違う。彼女は数年前に閉じこもり、そのまま停滞した。人格をグラデーションのように変化させていくはずの期間を、狭い布団の中で過ごしてしまった。


 それをよりにもよって俺が肯定するなんて、嘘だ。


「君は俺に会わないほうがいいんだ。だって俺は、かつての君を取り戻そうとしているんだから。君にとってそれは、一番避けたいことなんだろう?」


 耐えられなくて壊れてしまった彼女を、元の形に修復して送り出す。そんな残酷なことをしようとしている俺の言うことなんて、冬華は聞くべきじゃない。会いたいなんて思わないほうがいい。


 俺は自覚する。冬華にとって、俺は有害であると。


 どこまでいっても恣意的に、冬華が縋る思いで組み上げた囲いを破壊するために行動しているということを。


「でも、これだけは知っていてほしいんだ。俺はこの街を離れていた三年間で、綾崎冬華を忘れたことなんて一度もない。俺は君に憧れていたからこそ、こうして君を連れ出したいと思っている。その目的を果たすためなら、どんなふうに思われたっていい。たとえ敵みたいに嫌われたとしても、構わない」


 甘い言葉だった。穴の奥で眠る熊を誘い出すための、甘美な蜜。


 もぞり、と布団が縦に動く。ベッドからほんの少しだけ浮き上がった布団の隙間から、蚊の鳴くような声が漏れ聞こえる。


「――シュンは、大人になったんだね」


 三年ぶりに聞く声は、あの朗らかな彼女のものとは思えないほど乾いていて。


 なのに抗えないくらいの懐かしさが、震えと一緒に背筋を伝う。


「わたしのこと、考えていてくれて、ありがとう」


 あからさまな息継ぎの間と、一言ごとに振り絞るような声色が、聞いているだけで不安を喚ぶ。布団の中はただやり過ごすだけなら充分な酸素濃度だろうが、言葉を発し続けるにはあまりにも薄い。


 それでも俺には、その声を遮ることなんてできるはずがなかった。


「だけど、いいの。わたしが、シュンを嫌わずにいられるように、がんばるから」


 衣擦れの音とともに布団が捲り上がる。その端に包まれる形で、ヒトの上半身が現れた。


 俺は息を呑む。


「がんばって、みせるから」


 長く伸びた冬華の髪は、降り積もる雪のように真っ白く染まっていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ