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清くうららに、うつくしく。  作者: 吉野 諦一
第一章 失われた青春を取り戻せるか
3/33

穴熊


 冬華を元に戻すための戦いは、開幕から前途多難だった。


 まず彼女の部屋に入って呼び掛けるところから。


「冬華、久しぶり。俺は俊だよ」


 無反応。


「ほら、近くに住んでた染井俊」


 無反応。


「聞こえてるんなら返事してくれよ」


 …………無反応。


 俺のことを忘れてしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。三年間という時間で忘れてしまえるほど、浅い関係ではなかったはずなのだ。それとも俺が一方的にそう思っていただけで、彼女にとっては多くいる他人のうちの一人でしかなかったのだろうか。


 本当に布団の塊と話している気分だった。反応のない物体に対して話しかける行為はとてつもなく不毛に感じる。こんなことを毎日続けていたら気が狂いそうだ。


 けれど、あの布団の中には冬華が居る。外界からの接触を拒む彼女に、ひたすら話しかける行為は不毛ではない。いつか必ず出てきてくれると、俺は確信しているからだ。


 俺の知っている綾崎冬華は、ひとところに留まるのを良しとしない人だった。親同士の仲が良く顔を合わせることも多かった幼少の頃は、探検と言っていろんなところへ連れていかれた。家の裏庭に始まり、近くの空き地、少し離れた公園まで二人で行くこともあった。


 ひとつ年下というだけで、冬華は俺を弟扱いした。俺が同級生の中でも一、二を争う身長の低さだったからというのもあるだろうが、とにかく子供扱いの激しい姉だった。


『シュン、今日はあっちにいこう』『シュンは川の向こう岸に咲いてる花を見たことがある?』『あそこの遊具はシュンにはまだ早いかなぁ』そう言って俺の手を引く彼女は、頼れる姉であると同時に、落ち着きのない妹のようでもあった。


 今思うと、冬華が何かと世話を焼きたがっていたのは、頼られる存在でありたいという気持ちの裏返しだったのかもしれない。みんなの前では明るく朗らかな一方で、陰では落ち込みやすい性格だったことも、俺は傍で見て知っていた。そしてそういう弱った姿を見られるのを、冬華はとても嫌がっていた。


 何でも自分で解決できるのは、頼られる存在であるための必要条件だ。冬華はそれを幼い頃から知っていて、実行に移していた。本当はそんなこと、子供の自分に求めてはいけなかった。それが中学生の身で大人と同等の扱いを受けるようになってしまったから、ますます無理をするようになってしまったのかもしれない。


 これらはすべて俺の推測だ。彼女の身に何が起こったのかは、彼女が語るまでわからない。外界を布団で隔てて閉じこもっている冬華が、自ずから話してくれるまで。


「俺は君の顔が見たいよ、冬華」


 カーテンの閉じた暗い部屋の中で、願うように口にする。


 冬華の記憶の中の俺は、彼女よりも背の低い姿のままなのだ。



   *



 大学での生活が始まるまでに冬華の顔を見ることは叶わなかった。布団の外から話しかけても返事はなく、反応があったかと思えばもぞもぞと揺れるだけだった。


 さすがに食事のときは布団から出るらしいが、俺はそんな場面で彼女と再会したくはなかった。彼女の意思で、きちんと納得したうえで顔を合わせたい。


 それすらも贅沢な望みであったと、俺は春休みの後半になって気づく。彼女の活動的な性質だけでなく、我慢強い性格も計算に入れるべきだった。幼なじみとしての冬華ではなく、女流棋士としての冬華を今の布団冬華に当てはめるべきなのだ。


「今日もありがとうね、俊くん」


 玄関先で靴を履いていると、後ろから冬華の母が話しかけてきた。


「それと、ごめんなさい。あの子、とても強情で」

「大丈夫です。長期戦になるのは覚悟してましたから」


 まだ俺と冬華が将棋で遊べるくらいに実力差がなかった頃、冬華が好んで指す囲いがあった。囲いとは自分の玉を守るために他の駒で作る城のようなもので、冬華はその中でも穴熊囲いがお気に入りだった。


 穴熊囲いは囲いの中でも一番守りが堅いといわれる囲いだ。玉を将棋盤の隅に移動させ、その周りを他の駒で埋める様子が穴熊に例えられる。その状態にするのに手数がかかる都合上、必然的に長期戦の構えになる。


 今の冬華はまさにその囲いさながらだった。外からの干渉にびくともせず、相手が力尽きるまで籠城し続ける。どうりで高校の友人や将棋の師匠が手出しできないわけだ。


「冬華のあの恰好、冬眠する熊みたいですね」

「だとしたらもうすぐ目覚めてくれるかしら」


 ふふ、と冬華の母は笑う。戻ってきて最初に会ったときより、かなり顔色が良くなったようにみえた。


 外の陽気も随分と暖かくなった。梅の花はとっくに咲いているし、桜も所によっては満開に近い。明日は大学の入学式で、その次の日からは大学生活に馴染むための行程が待っている。


 新しい季節が始まろうとしていた。けれど冬華は、まだ同じ日々を繰り返すだけだ。


「俺が、必ず冬華を外に連れ出します」


 靴紐を結び直して、はっきりと確かめるように言う。


「だから彼女に何か変化があったら、遠慮せず連絡をください」

「……ありがとう」


 俺は何度この人の涙を見なければならないのだろう。できることなら見たくないのに、誠実な言葉を選ぶたびに泣かせてしまう。そして一刻も早く立ち直らせてあげたいと気が逸る。


 焦ってはいけない。冬華を元に戻すには、段階的にゆっくりと復調させる必要がある。今のところそれは一歩も進んではいないが、進もうとする意志さえあればいつかは目標に辿り着けるはずだ。


「そうだ、連絡といえば」


 冬華の母が思い出したように携帯を取り出す。


「あの子のライン、俊くん知らなかったでしょう。紹介しておくから、友達登録してあげて」


 程なくしてポケットの中が震えた。紹介のメッセージが届いた通知だろう。俺は敢えて画面を確かめることをせず、自宅に帰ってから登録することにした。


 果たして意味があるかはわからないが、やれるアプローチは多いに越したことはない。もしかしたら彼女は画面上での会話に飢えているかもしれない。冬眠する熊だって、目覚めてすぐは腹ぺこなのだから。


 冬華の母に見送られ、自宅に戻る。俺が毎日綾崎邸に出入りしていることは両親も知っていて、帰ってきた俺に行き先を尋ねるようなことはしなかった。冬華のことも前々から知っていたらしいが、息子には伝えるまいと黙っていたという。俺は半分感謝する思いで、もう半分は恨めしい思いでその事実を聞いた。


 自分の知らないところで幼なじみが引きこもりになってしまった。それも二年以上前に。もし俺が当時のうちに知ってしまったら、野球に専念することなど不可能だったに違いない。両親はそれをわかっていて伝えなかった。正しい判断だと思う。


 だが、後から知ったところで同じだった。自分の前を歩き続けているとばかり思っていた冬華が、ずっと過去に立ち止まってしまっていたと聞いて、じゃあ俺が追っていた背中はなんだったんだと考えずにはいられなかった。そしてこれまでの道のりがひどく無意味だったんじゃないかと、虚しさに囚われそうにもなった。


 そうならなかったのは、野球に打ち込んだ三年間が無駄ではないと知っていたからだ。たとえ結果は出せなくても挑戦したことには意味があったのだと、冬華の母に言われるまでもなく理解している。


 だからこそ、冬華が布団の中に閉じこもった二年と三か月には終止符を打たなければいけない。押しつけかもしれないけれど、冬華にはこのままでいてほしくないのだ。


 自室に戻り、ポケットからスマホを取り出す。表示された通知のポップアップからラインを起動して、友達登録の画面に進む。


 現れたプロフィール。寝袋の中で寝息を立てている熊のデフォルメが、冬華のアイコンだった。



   *



 順風満帆とはいかなくても、新しい環境に慣れるのはそれほど難しいことではなかった。同学部、同学科の人とはそこそこに繋がりを持てたし、学生生活でわからないことがあれば質問できる先輩もできた。可もなく不可もなく、大学構内での時間は滑らかに過ぎていった。


 一方で頭の隅にはいつも冬華のことがあった。新しい物事に触れるたび、どこか申し訳ない気持ちがよぎる。俺が前に歩を進める実感を得るごとに、布団の底でうずくまる彼女を想起してしまう。そうして自己嫌悪に陥るまでがワンセットだった。


 俺はいつから人をそんなふうに見るようになってしまったのだろう。ましてや冬華を見下すような、不幸なものとして扱うような考え方をするなんて。


 自分自身に落胆しても、冬華を元に戻したいという気持ちは揺るがない。たとえ俺が冬華をどう思っていようが、彼女を外に連れ出すことができればそれでいい。いっそ嫌われるようなことをしてでも、彼女が昔の明るさを取り戻してくれるなら。


 だから俺は冬華に毎日ラインでメッセージを送った。朝の九時と、夕方の六時に。定型の挨拶のあと、必ず取り留めのない話題を添えた。


 ≫おはよう。外はとてもいい天気で、ちょっと暑い


 ≫こんばんは。今日の強風でかなり桜が散ってしまった。でも地面に落ちた花びらも、桃色の絨毯みたいで綺麗だ


 返事には最初から期待していなかった。ならばせめて外の世界の様子を伝えることで、興味を促すことができればと企てていた。だが、返信どころか読んでくれている気配すらない。延々と積み重なるメッセージの送信履歴をスクロールし、何が駄目だったのかと反省し、また次の文面を考える。これを繰り返すのが日常の一部になっていった。


 四月も下旬に差し掛かる頃、初めてメッセージに既読がついた。ただそれだけのことでも、俺にはたまらなく嬉しい出来事だった。今までは自己完結的でしかなかったものが、ようやく実を結んだ。いや、芽を出したといったほうが良いのかもしれない。幾らなんでも浮かれすぎだと、自分を戒める。


 既読がついたあとも毎日二回のルールは守った。変に急いて怯えさせるようなことはあってはならなかった。俺がメッセージを送っている相手は冬華であって冬華じゃない。あの布団の奥にこもるアナグマだ。


 冬華イコールアナグマの等式が、俺の中ではすっかり定着していた。手足の細長い少女の姿ではなく、ずんぐりむっくりとしたマスコットのような姿を思い浮かべて文面を作る。そうすると、自然と誤魔化すことなく春の便りを書くことができた。


 その日は初めて、いつものルールを破ってメッセージを送った。冬に逆戻りしたような、冷たい雨の昼下がりだった。


 ≫こんにちは。俺は冬華に会いたい


 三時間後、スマホが揺れた。


 ≫わたしもあいたい


 そこでようやく、俺と彼女との距離が途方もなく離れていることを知った。



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