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清くうららに、うつくしく。  作者: 吉野 諦一
第一章 失われた青春を取り戻せるか
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ミリオンダラー・ベイビー


 ≫昨日、運転免許を取ったよ


 この文面を送ったのが八月末。夏休みをまだ数週間残したうえでの取得で、俺は少し浮かれていた。得意になっていたともいえる。


 号外として当日の内に冬華に伝えたい衝動に駆られながらも、浮かれているのを丸出しにするのもなんだか気恥ずかしく、結局翌朝の定例時刻で伝えることにした。


 ≫すごい。よかったね


 冬華の返信が来る回数は目に見えて増えていた。一、二文で漢字変換のない淡泊な文面でも、彼女がきちんと考えて言葉を選んでいると知っている。その嬉しさに慣れたと思ったことは一度もなかった。


 でも、そろそろ次のステップに進むべきだという焦りもある。


 今のこのささやかな嬉しさを大切にするのもいいけれど、いつまでも進展がないのはよくない。文通は俺に心を開いてもらうためだけにやっているのではなく、外の世界へと目を向けてもらわなければその意味も半減する。


 もっと直接的に働きかけていくべきだろうか。急かしてはいけないと思いながら、逆に停滞を促してしまってはいなかっただろうか。引きこもりを更生させる専門家に頼ることも考えなければならないのだろうか。


 そんなことを考えながらも、俺は冬華に会いに行く。毎日連絡を取っているから実感がないけれど、かれこれ一か月ぶりの対面だ。どんなふうに会話していたかを思い出しながら、綾崎邸のインターホンを鳴らした。


 ところがいくら待っても応答がない。もう一度鳴らしても誰も出てこない。この時間は冬華の母も在宅のはずなのだけれど、ひょっとしたら急な予定で外出しているのかもしれなかった。


 出直そう――そう思い踵を返そうとしたとき、聞き逃してしまいそうなほど小さな音を立てて玄関の戸が開いた。


 開けたのは冬華だった。無地のシャツに膝丈のフレアスカートを穿いた姿は、清潔な彼女の印象にとても合っている。少なくとも寝間着姿よりは健康的にみえた。だがその顔は蒼白で、健康とは真逆の様相だ。


「しゅ、シュン……たすけて……」


 慌てて駆け寄ると、冬華は戸に身体を寄せてその場にへたり込んだ。息は荒く、肩を上下させて額には汗が滲んでいる。


 何が起きているのか咄嗟には理解できなかった。冬華が無理をしているのは明らかだったけれど、それにしたって無理をしすぎだ。


 冬華に肩を貸して廊下まで運ぶが、足腰に力が入らないのかほとんど引きずる形になる。壁へもたれかかるように座らせたものの、すぐに姿勢を崩して床へと仰向けに転がった。そしてそのまま動かなくなった。


「冬華……?」


 死んだのかと思った。冗談にもならない。


 台所まで上がり、透明なコップに水を汲む。それを持って廊下に戻り、冬華の上体を起こしてから口に水を含ませる。それを嚥下させては少量注ぐのを繰り返すと、ほんの少しだが顔色に赤みが混じっていった。


 体調を持ち直したのをみて、ようやく何が起こったのかを推察する余裕が生まれる。ひょっとすれば冬華は、俺を出迎えるためにここまでの無茶をしたのではないか。外出できる恰好に着替え、外界との接点である玄関にまで出てくるという無茶を。


 だが、俺のためなんてのは自惚れだ。己にそう言い聞かせる。現実的に考えて、玄関先に出るのはこれが初めてではないのだろう。俺が知らないだけで部屋の外には出られるようだったし、冷静に考えれば玄関の戸を開くこと自体のハードルはそう高くもないはず。


 真相は、すぐに冬華の口から明かされた。


「外に行く練習、してたの。お母さんの、居ないときだけ、だけど」

「……どうして居ないときに?」

「だって、つらそうな顔するから。わたしががんばると、いつも」


 目を閉じ、眉間に小さな皺を寄せて冬華は言う。


「お母さんは、わたしに何も言わない。がんばってとも、がんばらないでとも言わない。なのにわたしがよそ行きの服に着替えたり、玄関の前に立ったりすると、泣きそうな目でこっちを見るの。そうしたら、わたしはどうしたらいいのか、わからなくなる」


 冬華の感じている視線の意味が、俺には確かな質感をもって理解できる。冬華の母が何も言わないのは、言えないのは、これ以上冬華が傷つくのを見たくないからだ。


 傷つくくらいなら変わらなくていい――それが冬華の母の本音だろう。冬華をこのまま、あの部屋の中で大切に匿っていれば綺麗な白のままにしておけると、盲目的に信じ込もうとしている。


 でもそれは不可能だ。腫れ物扱いされればされるほど、冬華は繊細な傷をいくつも負っていく。純白はいつか、見るも無残な血の滲んだ色になる。


 そのことを冬華の母が理解していないわけもない。理解したうえで、彼女は言ったのだ。


『あの子の髪はね、何色にも染まらないの。あの子が染めようとしないから』


 それも今ではただの願望だったとわかる。


 染まらないことを望んでいるのは、娘ではなく母親のほうだった。


「冬華は間違ってない」


 断じる。間違っている人なんて、ここには誰もいない。


「子の頑張りを否定する親なんているもんか。冬華のお母さんは君が大事すぎるからこそ、何も言えなくなっているだけなんだよ」

「ほんとうに?」

「ほんとう」


 敢えて強く頷く。何事にも例外があることを、少しだけ悲しく思いながら。


「心の中では、ずっと君のことを応援してる。泣きそうな目をするのは、君が無茶をしないよう、目を逸らさずに見守っているからなんだ」

「でも瞬きくらい、しててほしいよ」

「うん。まったくだ」


 当たり前すぎて笑みがこぼれる。どんなに大切なものでも、見つめ続けていれば目が乾いてしまう。時にはまぶたを閉じてやることも必要だと、赤ん坊でも知っている。


「安心させてあげなきゃ。わたしが、お母さんを」

「そうだな。そうしてあげられたらとてもいい」

「お母さんだけじゃない。シュンだって、安心させたいよ」


 そのとき、冬華の瞳に宿った青い灯火ともしびを見た。もちろんこれは比喩だけれど、俺は確かにそれを見た。だからこそ胸がいっぱいになって、言葉に詰まる。


 ずっと思っていた。俺は冬華に無理を強いていると。


 玄関での彼女を見たとき、ここまで追い詰めてしまったのは自分ではないかと責めた。後から付け加えた自惚れなんて表現は事実に即していなくて、本当は自分のせいだと思うことに目を背けるための常套句に過ぎなかった。


 だが同時に、彼女の強さからも目を背けていた。引きこもっていてもなお失われなかった、期待に応えようという強固な意志を俺は見逃していた。


 俺に促されるまでもなく、冬華は自分で選び取っていたのだ。


「わたしは、シュンと一緒に、動物園に行きたい」


 まだ覚束ない脚に力を込めて、冬華は立ち上がる。


「そのためなら、わたしはもっと頑張れるって、気づいたの」



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