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辻堂家三代の罪、千代の恵

憐みのゆくえ4 残滓 一

 危なっかしい。池のほとりで踊る二歳の影。私を見つめる妻の心。

「大丈夫なの?。」

 でも、私は言う。

「問題ないさ。詩音は私がサポートするから。」

 私は、漂っている若葉の香りと一緒に、その時を味わった。

「じゃあ、私は?。」

 その時、詩音が私たち二人の会話を断ち切った。

「パパ!。見て、見て!。」

 若い妻の顔を見て微笑みながら、娘へ手を振って応えた。これが幸せというものか。いや、ここに加えられたものがあるから、微笑むことができるんだ。それって、妻からもらったものだったかな。娘からもらったものかな。違う、違う。それは目に見えないけど、以前から確かに私の周りに降り注いでいた愛、そして彼女たちへの愛。


 しかし、それはもう思い出に過ぎない。妻は壊れて出て行き、戻った娘は心の傷の中に閉じこもったまま。しかも、娘は私の子ではなかった。

 それでも……………。


 ………………………………


 椅子が飛んできた。継父のスナップを利かせて椅子は大きく回転。その椅子が私の鍋蓋に当たる。動体視力のお陰で右投げの回転を見て右へ、後ろへ。小さな部屋を逃げ回る。そうすると当たってもさほど痛くない。十二歳にもなれば、経験上からそんなこともわかる。

「おめえなんか親父でもなんでもねえや。馬の骨がヒモになっただけ。稼ぎもねえのにただ転がり込んできやがったくせに。」

 よくこんなフレーズが叫べたもんだ。

「馬の骨」

「ヒモが、転がり込んだ。」

 それは、図書館で読んだ小説のセリフ。それこそ、目の前の男を怒らせるには充分な悪口雑言。お袋の後ろに逃げ込んだが、次に信じられないことが起きていた。お袋は私を庇うどころか、継父の前にかしづかせた。

「宏、何隠れてんのさ。転がりんだんじゃなくて、お願いしてきてもらったんだよ。それを、言うに事欠いて。お父さんにあやまれ。」

「いやだ!。」

「それなら出て行け。」

 継父にそう言われてアパートの二階の部屋から叩き出されてしまった。


 暫く経つと鍵の音。開けてくれた、と思った。しかし、すぐに閉じられた。ドアの前には、小さい財布に汚い百円玉が一枚、それと一昨日から来ていた上着。ドアを叩いても入れてはくれなかった。


 しばらくドアの前で過ごした。夜はふけて、もう次の日の早朝。母親までもが本気だった。

「どこへ行けばいいんだろうか?。」

 そんな言葉を繰り返しながら、早朝から一日中歩き回った。すでに屋台のラーメン屋、おでん屋で百円は使い切っていた。川を渡り大谷田を越える。どう歩いて来たのか、小菅刑務所の近くまで来ていた。

 この近くのボロアパートに、ただ一人優しい叔父がいたはずなんだが。たしか病気だったから、もうこのあたりには居ないのかな。そう思いながら、荒川の土手を登ったり、北千住まで川を渡ったり。

 北千住駅の東側には、多くの寮やアパートがあった。そこを通り過ぎると、もう夜が近い。テレビか何かで知っていたフーテン族を真似ようと考え、アパートのゴミ捨て場から段ボールと新聞を集めてまわった。荒川の京成電車の橋梁の下までくると、地面に段ボールを広げて新聞紙にくるまった。


 次の日も再び荒川の河川敷に。もう限界だった。昼前には暖かい日の当たるベンチで寝てしまっていた。土手下の桜は咲き始めていたが、夕方になると風は冷たかった。

 昼前から隣のベンチにいる色黒のおじちゃんが、夕方になってもまだいた。なんでだろ。一人で何か食いながら、こっちをみてばかりいやがる。

「どいつもこいつも、私を睨みやがって。」

 夜になっても、まだおじちゃんがいた。私がベンチの上で丸くなっていると、大きな上着を被せてきた。

「うるせえな。」

 それを言った途端、おじちゃんの食べた団子の残り香に腹が反応して音を立てていた。

「腹、減っているのか。」

 おじちゃんは笑いながら問いかけてきた。

「うるせえ。」

 また、腹が鳴った。おじちゃんがもう1つの包みを出して渡してくれた。

「手はつけてねえから、食べな。」

 いやだね、と言おうとしたら、手が先に伸びていた。気がついたら全て食べ尽くし、包紙まで舐めていた。我ながら、その行為に恥ずかしさを覚えた。

「なんでえ、こんなまずいもの、よく食わすよな。」

 おじちゃんは何も言わずに歩き始めていた。少し進んだところで、また声をかけてきた。

「ついてこないのか?。腹減っているんだろ。」

 私はもう飛び出していた。食べ終わった包みを投げ捨ててから走っていったのだが、それを見たおじちゃんは立ち止まって変な顔。

「あの捨てた紙袋を持ってきてほしいね。あれは私のだよ。」

 私がベロベロに舐め尽くした袋を、なんで欲しがるんだろ。変な奴だ。しかし、彼はそれを新聞紙に大切にくるんでゴミ箱へ入れやがった。

「食べ物があるところに行きたいか?。」

「ああ。食わせてくれるのか。」

「長く歩くぞ。」

 どのくらい歩いただろうか。入り込んで行ったのは、板壁の掘っ建て小屋。蜂のように走り回る少年達。庭には、ブランコ、鉄棒、ジム。まるで定員超過の幼稚園のようなところだった。

「なんだよ、ここは。」

「とりあえず、ここで飯は食えるよ。」

 中から呼びかける声がした。

「あっ、園長だ。」

「ジジイが来た。」

 確かにそういっている。若白髪のためだろうか。他人事ながら、そんな失礼な呼び方はないだろうよ。おじちゃんは、構わずにその中へどんどん入っていく。

「社会福祉法人 風の子の家」

 看板にはそう書いてあった。連れてきてくれたおじちゃんは、ここの園長を兼務していた牧師。その後も時々見にきてくれていた。のちにクソ親たちの親権剥奪の際に、決定的な働きをしてくれたのも彼。彼は、山形汰欣タゴン。ゴンタではない、タゴンと言っていた。とても変わった名前。


「君の名前は?。」

「池山 宏。」

 おじちゃんは、そのままどこかへ電話を掛けた。受話器を置くと、変な顔をしていた。

「調べたら、今のお父さんの名字ではないね。」

「それは母親の名字。今の父親は権だよ。」

「お母さんとお父さんは結婚しているの?。」

「さあ?。一緒にいるから結婚しているんじゃないの。」

「そうか。」

 おじちゃんはさして驚くほども見せず、施設に仮入所させてくれた。身元や親の状況がはっきりしないためか、私の立場は暫く定まらなかった。親達は、厄介払いができたと思ったのか、捜索願もなく、探している気配もなかった。

 落ち着いてから、私はすぐに新設の中学校に通い始めた。息の詰まるほどいる子供達の数に耐えられなかった。すでに中一の一学期の中盤。しかし、不思議に授業は難しくはなかった。というより毎日聴くにはつまらなすぎた。先生達は煩い監視役だったが、それ以上に同じ歳の餓鬼達がうるさかった。同じ施設の奴らが多かったせいもあっただろうか。


 夏休みの暑いある日、おじちゃんは私に大事な話があるといって、私を連れ出した。おじちゃんは、着慣れていない一張羅のジャケットとズボン。どこへ行くのだろう。私も中学の制服を着せられた。

 電車に乗るのは初めて。私たちは、出札窓口からボール紙のような切符を受け取った。改札口では、猫背の駅員がけだるそうにカチカチと鋏を鳴らしていた。おじさんは私に切符を渡してさっさと改札の中へ入り込んだ。私もあわてて後を追う。伊勢崎線だが、乗ったのは夏日を浴びた銀の車両。

「今から『さいばんしょ』にいくんだよ。たぶん君のお母さんに会えるよ。」

 私は黙った。おふくろに再び会えると思ったが、それと同時にあの継父の顔を見なければならないのか、と顔が曇っていた。それを見たおじちゃんは、続けていった。

「妹にも会えるよ。」

「妹って誰だよ。」

「私が聞いた限りでは、『よしか』という名前だということだよ。彼女は小さい時から隠して貯金してきたようだね、裁判所の人がその貯金でリカちゃん人形を買ってくれたらしいよ。」

 お袋にも私以外の子供はおらず、継父にも連れ子なんていなかったはず?。私はぼんやり考えながら、南千住から地下へ潜っていく車窓を眺めていた。やがて、じっとりとしたトンネルの壁。冷房のない車内は蒸しできた。

 くねくねと地下を巡っていく電車は、やがて霞が関へ。車両からは、多くのスーツ姿の男たちが吐き出され、階段を駆け上がっていく。ホームもコンコースも殺風景。地上には広々とした官庁街。その日の朝、新宿駅で燃料貨物列車の爆発事故があったためか、官庁街の中を警察車両が忙しく行き来していた。スーツ姿の頭のよさそうな男女たち、タクシーや黒い車も慌ただしい。


 私たちは周りのそいつらとは違ってみすぼらしく見えた。おじちゃんはそんなことには構わずに、農林省を左に見ながら左に曲がり、私を日比谷公園の隣にある家庭裁判所に連れて行った。

 入り込んだ部屋には、調査官とか言う人を中心に、偉い人たち。その一角に座ったおじちゃんは、私に小さく話してくれた。親達の状況がわかってきたという。

「この部屋で待っていな。後で、君に説明してあげる。」

 そう言って、おじちゃんやほかの人達は部屋から出て行った。

 審判が終わったという知らせがあった。そのしばらく後に、おじちゃんが来てくれた。

「君の今のお父さんは、貴方のお母さんの知り合う前に別の人と結婚していたんだよ。離婚はせずに、奥さんが家出をしたあとで、君のお母さんのところに連れ子とともに来たらしい。しかし、君の今のお父さんは昼間も夜も働いていない。お母さんも子供たちを放っておいて、昼間は遊び夜は仕事から朝帰りの状況だという。この状況からすると、君は私のところにいることになるかもしれないね。妹さんもどこかへあずけられるそうだ。」

 こうして、毒親達の親権は停止された。私みたいに親から切り離された子供は、ここで十八まで過ごすことになっているらしい。


 一年後、あのおじちゃんはこの施設の園長を辞めていった。お花茶屋の伝道所へとか。私は平気な顔をしていたつもりだったが、不安を隠せていなかったらしく、おじちゃんから柄にもない慰めの言葉を受け取っていた。

「近くだから、すぐに会えるさ。」


 その時から、私は多分長い間寂しそうな顔をしていたんだろう。そんな寂しそうな私の顔を見たのか、おじちゃんによって妹の淑香よしかもこの施設へ移されて来た。

 淑香は、この施設に来た日に私に声をかけてきた。こんな妹がいたと言われれば、そんな気もした。お節介な奴。彼女は私を見つけた次の日から、私の部屋に毎日小さな花を持ってきた。そんな花をどこから取ってくるのか。私にとっては目障り。捨てないにしても廊下に出していた。

「淑香、また、無断で何やっているんだよ。」

 しかし、彼女は私を睨んで反論していた。

「だって、花があると心が落ち着くし、そこが居場所になるのに………。」

「そんなことについて議論してねえよ。」

「議論?。それってなぁに?。」

「議論を知らねえのかよ。」

 そういえば、ここの奴らは殆どが話の通じないことが多い。言葉も知らなければ、対話の進め方も知らないらしい。勝手気儘なお喋り。口よりも手。居場所のない私も殴り合いが絶えなかった。


 ………………………


 十四歳の夏。秋には就職試験。しかし、おじちゃんは高校へ行けと何度も言う。

 ある日、おじちゃんと一緒に港区の大病院へ。どこで調べて来たのか、実父に会えると言う。病室に寝ていたのは見知らぬ痩せた人。窓の外は高層ビルの谷間。細かい窓が散りばめられていた。

「宏、挨拶をしろよ。」

「こ、こんにちは。」

 声変わりし始めていた不細工な声でしか、挨拶できなかった。

「お前のお父さんだ。」

 おじちゃんからそう言われても、実感はなかった。

「宏くんか?。」

 掠れた声が聞こえて来た。それでも、私は黙っていた。

「会えたのか………。」

 私は答えなかった。この人はお袋と私を追い出した………。

「君のお母さんに、君も何もかも持っていかれ……捨てられたから……。でも、いつか君には会えると思って………。」

 捨てられた?。持っていかれた?。その言葉の意味は、十四歳の頭にも理解できた。しかし、お袋が言っていたこととは違う。

「会えた………。ありがとう………。」

 お袋は私に対しても、あの連れ合いに対しても、いつも誤魔化そうとすることがあった。

「お袋は嘘を言っていたんか?。」

 思わず、そう独り言のように呟いていた。お袋は、父親を捨て私も捨てた。目の前の痩せこけた病人は将来の自分か。

 ビルに反射した夏陽。病人の眼が鋭くなった。

「宏くん。この名前は私がつけたんだよ。大きな度量を期してね。」

 度量?。難しい言葉だ。私は施設育ちだよ。普通分からねえよ。

 病人は構わずに話し始めた。私の知らないことばかりだった。次の日もおじちゃんに頼んで病室へ行った。歴史、地理と政治、国語、数学…。毎日、聞いてノートを取って……。必死だった。彼も嬉しかったのか、私の顔を見つめている。

「宏くんには…この場で全てを伝えたい。」

 手を止めた。

「私は君の父親のはずだったが、何も出来ず死ぬ。」

 そんなことはわかっていた。時間が惜しかった。

「あの女に連れていかれてしまったから、多分、ろくなことを教えられていないだろうな。でも、君は頭が良い。……。今のうちに……。」

 彼は急に辛そうになって目をつぶった。ディスプレイ上の脈拍と呼吸。けたたましい警報音。駆け込んだ看護師が何かを連絡していた。

「クランケが発作です。」

 おじちゃんが私の手を引いて病室から出た。私はあまり良くない状況に涙を流していた。彼が父親だと実感したから。

「明日も来よう。この様子では、君は彼に何回も会っておくべきだ。」

 次の日も、次の日も、おじちゃんが一緒でなくても、父の病室へ通った。看護師さんたちも何も言わない。私は、わからないなりにノートへ。教えられることは難しいことばかり。社会構造や経済、不動産と都市開発、人の集まり、立地……。中学で聞いたことのないことばかり。

「これは生業なりわいに必要なことだ。」

 彼はそう言った。

生業なりわい?。何それ?。」

「もう死語なのかもな。金儲け、食べる食べるために稼ぐことさ。」

「そんなの、中学を出てから一生懸命働けば稼げるさ。」

「確かに稼げる。努力とも言う。しかし、理解力を与えられたものは、大きく稼ぐ。工夫ともいう。後はそれなりに社会へ還元する。そのためには、大学へも行くべきだな。」

「私はこのままじゃあ、あまり稼げないのか。」

「多分ね。しかし、1つ言えることは、私の伝えたことは実経験に裏打ちされたものだから、必ず君のタラントを活かす。最後には君の心に刻むことを語るつもりだ。」

「心に刻む?。それは儲かるのか?。」

「うーん。結局はそういうことになる。この点は今までの君だったら分からないことかもしれないな。でも、それを考えながらこれからは生きて欲しい。」

 そう言うと、私の父親は疲れ切ったのか、昏睡してしまった。


 ………………………


 次の日、おじちゃんが朝早く施設へ駆け込んできた。

「急げ。君のお父さんの容態が悪くなった。」

「えっ?。なんで。そうか、最後に、と言っていたのは今日のことだったのか。」

「何を言っている?。まだ最期だとは言っていないぞ。」

 おじちゃんは少し怒ったように返事をした。しかし、病室へ入ると、それはわかった。今日が峠⁈。峠ってなんだよ、超えていくのが峠だろ?。越えられないのかよ。それは峠なんかじゃねえよ。


 看護師はおじちゃんに問いかけていた。

「田山さんのご家族は?」

「彼一人です。」

「御子息さん?。では奥様は?。」

 おじちゃんが何かを言いかけたとき、私は大声を出していた。

「奥様だって?。そんなの居ねえよ。私には、母親は居ねえ。父親しかいねえよ。」

 その言葉が父に聞こえたのだろうか。彼はふと声を上げていた。

「宏くんか?。よく…来てくれた。これを……。」

 枕元にあった手垢のついた厚い本と、通帳があった。

「ここには…宏くんの日々の糧となる言葉がある。この世が始まる前から君のためにあった言葉が……。」

 おじちゃんは、アッと言いながらそれを手に取った。

「田山さん、あなた、これをどこで……。」

「隠しておいたものさ……。こんな惨めな男が救われちゃあいけないから。」

「そんなことはない。あなたが求めさえすれば、今すぐにでも。」

「そりゃ可能ならね。でも、こんなナメクジにかい?」

「どこのお御堂に通っているの?。」

「いや……。そんな資格はない。単にこの書物を読み倒していただけで……。」

「資格なんて、そんなもの……。わかった。宏、君の父親を頼む。私は少しばかり連絡することができた。」

 おじちゃんは何を慌てて出ていったのか?。父は小康状態を取り戻し、先ほどの書物を説明し出した。いや、彼が諳んじていた言葉を、私に覚えろと言いやがった。泉のように流れ出るフレーズ。参ったのは、その解説まで。その片鱗に触れながら、ノートに書き込んだ………。


 午後。おじちゃんは小さな水盤と白い布を持ってきていた、一緒に来たのは、私の施設のお偉いさん達。額への聖水滴、父なる神の愛、御子の恵み、聖霊の親しき交わり。それによって私には近づけない神聖な結界域が出来ていた。

「こんなナメクジが……。食事も機械もムダ遣い、捨てられるはずなのに。死んでしまえば世の中少しは良くなる……。」

「私の親父は捨てられたんじゃない。捨てられた幸せの欠片を拾い集めてきたんだ。」

 思わずそんな言葉が口から出ていた。母に捨てられた親父と私。残滓の孤独。捨てられた先の希望。

「田山さん……。貴方は……。」

 おじちゃんの言うことは、言葉になってない。代わりに私が言ってやる。

「親父、私の最高の親父。」

「君は……大学へ行け。山形さんに全ては預けてある……。」

 それを言った時、父は満足した表情をした。

「峠か……。越えてこそ新たになる……。」

 そのあと、彼は静かに昏睡してしまった。おじちゃんは、私に言った。

「彼は召される時を迎えている。此処に暫く居てあげなさい。」

 その夜、父は召された。後のことはあまり覚えていない。手元には、見知らぬ弁護士さんの名刺と父の手垢のついた厚い本があった。


 ………………………


 上野公園の都立高校。一年浪人してそこへ通いはじめた。私は国立選抜組、隣の理系クラスに一歳下の淑香。施設から行けたのは、私たち二人が最初だったらしい。


 外見の品の良さ。此処の生徒達は殴り合いとは無縁だった。その代わり、似非のスマートさと悪知恵、悪魔の合理性、攻撃的な態度。さほど親しくない友人たち。

 しかし、剣道場だけは私の居場所だった。部費が払えなかったために、部員では無かったが……。


 皆が帰った後の道場。私一人、黙想と練習とを繰り返していた。しかし、知らぬ間に淑香が入り込んでいた。

「お兄ちゃん、居眠り?。」

 確かにそう見えただろうし、実際に居眠りしていた。黙想なんて、単なる物真似。慌てて再開した練習。それも無様ぶざまだった。

「合気道の練習なの?。」

 空剣の練習のつもりだった。

「あのね、お兄ちゃんにはまだ無刀は早いわよ。」

「なんでそんなことが言えるんだよ。」

「だって、立ち居振る舞い礼法作法がめちゃめちゃだし、多分思索も単なる居眠りね。」

 全てが悟られていた。恥ずかしさで顔が火照る。淑香から赤い顔を背けたまま立ち去るしかなかった。

「お兄ちゃん、また居場所がなくなるわよ。」

 私は立ち止まったものの、俯いたまま、自分を見失っていた。

「教えてあげるよ。」

 淑香は俯く私の手を引っ張り、道場中央へ引き戻した。淑香の手の冷たさと柔らかさに戸惑い、私は顔から火が出るほどだった。

 防具をつけず、体操着のままに蹲踞。顔は相手へ。この時からだろうか、淑香の顔をまともに見ることができなくなっていた。

「構えがおかしいわ。」

「剣と心は一体よ。」

「邪念を捨てて。」

 彼女の視線は私の邪念を様々に引き出した。恐れ、誘惑、挙動不審。竹刀でうち叩かれても、邪念で生きる男から邪念が出て行くはずもなかった。

「邪念を捨てられない?。それなら、空剣絶洸を教えてあげる。」

 淑香はそう言った。邪念と葛藤の原因の彼女からそう言われても、戸惑うだけ。しかし、淑香の伝えた真髄は、私の混乱をそのまま俯瞰する視点であった。竹刀を持たぬ練習。空剣孤高の思索。未聞の空剣絶洸。私は淑香を見つめずに済む思索を好むようになった。


 ………………………


「宏、早く起きなよ。」

 師範となった淑香は、図々しく不遠慮。彼女の長い髪とうなじは、私の心を毎度毎度揺さぶる。

「なんでそんなに構うんだよ。」

「指導よ。それにお兄ちゃん、最近面白いんだもの。最近なぜか私のこと真っ直ぐに見られないでしょ?。」

 私は何時も顔を赤くしている。淑香から顔を背けている。淑香もそれに気づいていて面白がっていた。

「邪念?。違うよね。お兄ちゃんが何を感じているか、私知っているよ。」

「それなら私に構うなよ。害にしかならねえよ。」

「そんなことないよ。」

「なんでそんなことが言えるのさ。」

「他の人とは違うからかな。私のこと、見ていても安心できるっていうか………。」

「どういうこと?」

「男の子って、見ないようでいて隠れるようにして、覗いているのよね。それでいて、目があっても悪いことをしているとも思っていないの。オタクっぽい人だと、何考えているか分からないし。でも、お兄ちゃんは違うのよね。私を変な風に見てないし、何を考えているかよくわかるのよね。」

「そりゃお前は師範だし、妹だもの。」

「いいえ、血が繋がっていない男女よ。」

 淑香のこの言葉は当然なのだが、私は淑香を余計に意識する。

「お前、随分と綺麗になったからなあ。剣の実技の時さえも、まともに見られないっていうか、眩しいっていうのか、な。でも、お前は妹さ。」

 私は混乱をそのまま意識して、おしまいの言葉の「妹」をいつも強調していた。


 ………………………


 早朝にオリオンの見えるようになる頃、高校の冬営祭が催される。

 私はクラス焼きそば屋の掃除係。淑香はクラスの喫茶店のウェートレス。たまたま二人が暇な時に、淑香は私を引っ張って歩いた。

 この時期は、冬はおろか秋さえ始まったばかりりの初秋。厳寒の受験時期をはるかに臨むこの時期。ある者は備えることを意識し、ある者はあえて見ぬふりをした。それが学びと演舞のモザイクとなって、学園中に満ちていた。


「今なら見に行けるね。」

 お目当はミス上野公園。一芸に秀でる男、そして女を選ぶというものだった。淑香は舞台に立たされた。

 淑香の一芸は私との剣舞。淑香は「準ミス」に。私は「盛り立て役」だとさ。雰囲気に飲まれた私たち。私は淑香の姿に慣れないままに、盛り上がった男女たちの生徒たちの意識、思念、衝動に共鳴して上野へ繰り出していた。火照り顔の淑香に対して、私は蒼白の朴念仁だった。浮かれたままの私たちは、見知らぬ社の奥社へ。そこでは、神聖なはずの境内が男女の園になっていた。

 すでにその社は、主人を失った迷い神のように誑かしていた。火照った淑香。私は朴念仁。淑香の潤んだ瞳を見ないようにして、そのまま境内を出た。


 ………………………


 高校二年の終る三月、私は施設の規則によって退出することになった。身近な娘達、目のやり場のない空間、息の詰まる空間、抑えられなくなった衝動、大学受験……。限界だった。

 弁護士さんによれば、実の父親が残してくれていた会社が、長らく使っていなかった社長用の社宅を使わせてくれるということだった。第二次大戦の前に造成された葛飾同潤会住宅街の一角。濃茶の木塀の奥。長い間掃除しかされておらず、庭は荒れ放題だった。それでも、忘れられたはずの桃の木は枯草の中で芽吹いていた。


「ねえ、でていくの?。」

「規則だからね。」

「さびしくないの?。」

「また学校で会えるさ。」

「もっと一緒に居たい。」

「言う相手が違うだろう。お前は妹だ。」

 そう言って私は施設を出た。多分淑香は寂しかったのだろう。まもなくおじちゃんから、妹の淑香を一緒に住まわせられないか、と言われた。淑香の笑顔、おじちゃんには言えない衝動、男女の感情の増幅。嫌だという表向きの口実は見つからなかった。

 一ヶ月後には淑香が来た。心配は無用だった。大学受験、宿題と補修の嵐、互いのすれ違い、精神的な疲れ。二人の関係はそれなりに落ち着いていた。

 同潤会住宅の作りは戦前の住宅らしく、初夏の庭から広い縁側に上がり込んだところに、明かり窓と障子で仕切られた客間と居間。その奥にある広めな台所には、充分な大きさのステンレス流し台があった。

「ここって誰も使ってないの?。」

 台所は長い間使われてなかった。私はここに来てから共栄学園近くの商店街で朝昼夜の食事を済ましていたから、不自由していなかった。しかし、淑香は、ここへきた当日にそのことを知ってから余計にうるさくなった。


「昨日の昼は、学校に助六とトンカツの弁当を持ってきていたじゃないの?。」

「美味いよ。私は好きだな。」

「野菜は!。」

「嫌いだから食べないよ。」

「夜はどうしたの?。」

「パーコーラーメン。」

「ええ?。脂ばっかり。それなら、朝は?。」

「駅のうどん屋だよ。」

「果物もとらないの?。」

「嫌いだもの!。」

「私、今日から作る。」

「えっ?。」

 淑香は食器棚を開いた。そこには誰かが使い込み、綺麗に洗い上げてある食器類。鍋、パン、ガスグリル。しかし冷蔵庫は、中に少しばかりのミネラルウォーターがあるばかりで、空しくムイムイと謳っているばかりだった。

 淑香はしばらくそれらを眺めていた。来たばかりなのに、私を従えて駅前にて買い物。魚屋、八百屋、スーパー。値段を見ては移動。商品の山をひっくり返し、買い物カゴをいっぱいにした。

 帰宅後もまだ私は休ませてもらえなかった。

「ガスの元栓はどこなの?。」

「何それ?。電気のメートルを調べるの?。玄関の横に地面からひょこって出ていた。そこに何かあったっけな。なんか円盤がぐるぐる回っているやつ、かな?。」

「地面からなのに、クルクル?。電気のメートル?。それって、電力計のこと?。」

「そうかな。」

「数学が好きな人がそんなことを言っているの?。地面から電力計が出ているわけ?。まあありえないこともないけど。でも、なんで電気の単位が立方メートルなのよ?。都市ガスのことを聞いているのに。」

「だって、理科系じゃねえし、知らねえもの。」

 玄関を出て裏へ回ると、ガス管に取り付けられた容量計だった。

「ここって電気が通っているの?。これはガス管だとおもうわ。よかった!。多分近くに元栓があるわね。」

 淑香は埃を被った元栓を開け、手際良く鍋とフライパンを使い始めた。サーモンムニエル。ハムと野菜類のサラダ。厚焼き卵。私にとってはあまり馴染みのないものだった。

 彼女によれば高校の家庭科で仕込まれたというが、それだけでできるものでもなかった。やはり、それなりの強い興味があったのか、その後彼女は千葉県立の栄養科の大学へ進学することに。

 他方、私は寸時を惜しんで受験の準備を進めていた。理科はあまり振るわなかったが、数学と社会科目が比較的成績がよかったこともあって、西千葉の大学へ行くことができた。

 淑香の学生生活が授業とバイトで多忙を極めていたのと対照的に、私の学生生活は逆に暇のむだ使いに過ぎなかった。食事の準備以外の家事は、必然的に私の役目だった。もし、私が家事をこなしている彼女を目の当たりにしていれば、あるいは気づいたかもしれないことがあった。


 一年生の夏休み、前期の忙しさから二人は久しぶりにゆっくり過ごすことができた。この夜も、私の分担は、掃除、風呂の用意、食事の後片付けなど。夕食の片付けが終わり、私は経済学基礎の教科書を読み始めた頃だった。

「食事の用意ができたわよ。」

 私は自分の耳を疑った。淑香は少しのためらいもなく、先ほど食べたばかりの同じメニューを再び食卓へ並べていた。

「えっ、どうしたんだ、これは?。」

「夕食よ。」

「えっ。さっき食べたじゃないか。」

「えっ。」

 淑香は暫く固まっていた。そして、何かに気がついたように、いや、何かに取り憑かれたように、私の顔を見つめていた。やがておもむろに彼女はごめんなさい、と言いながら片付け始めた。これが最初だった。

 夏休みの終わりの夜、淑香は私の部屋に入り込んでいた。それは、私の学科の仲間達の飲み会が終わった後、家に戻ってみた時だった。普段私の部屋のドアは開け放ってあるはずだった。そのドアが閉められていた。恐る恐る部屋のドアを開けてみると、その私の部屋のベッドの上に、女物の服や下着類が脱ぎ捨てられ、だれかが眠り込んでいた。暗闇の中に見たことのない乱れ髪の白い肢体が浮かび上がっていた。

 驚いた私は、思わず部屋を出て自分の部屋であることを確認し、再び中へ入った。ベットの陰に隠れながら恐る恐るその姿をよく見ると、それは淑香だった。長い黒髪が顔を隠していたため、彼女であることがわからなかった。彼女も飲み会から帰宅した後だった。

「お、おい。どうしたんだよ。」

 淑香はなかなか起きてくれなかった。やっと目を開けた淑香は寝ぼけたまま視点が合わなかった。だんだんに目が定まったときだった。

「!!。」

 淑香は悲鳴をあげ、私の布団を体に巻きつけた。

「ここ私の部屋、ここ私のだから。な、わかるよな。な?。」

 淑香は全身を紅潮させ、顔は特に赤くなっていたが、やっとの事で声を低くしていた。

「あ、あれ。」

「なんでここにいるんだよ。」

 私は彼女が寝ぼけているのだと思っていた。しかし、この後の会話は私にとって衝撃的だった。

「私、部屋がわからなくなっちゃった。」

「自分の部屋へ帰れよ。」

「だから、自分の部屋がわからなくなっちゃったのよ。連れて行って。」

 下着や服を着せるのも、一騒ぎだった。彼女は下着や服への腕の通し方さえわからなくなっていた。私は、彼女の肌を見てはならないと背中を向けて、やっとのことで彼女に服を着せることができた。

 淑香にあてがっていた部屋は、この家の一番奥だった。玄関を入り、台所と風呂場を見ながら廊下を抜け、私の部屋を左に見ながら左へ曲がるところに階段があり、そこを上がって行くと彼女の部屋があるはずだった。

 次の日、おじちゃんに連絡を取った。

「おじちゃん、淑香が壊れた。」

「どうしたんだ?。」

「なんか、淑香が今までできていたことができなくなっているんだ。」

「何で?。」

 私は、半分泣きそうになっておじちゃんに訴えた。おじちゃんは、近くに勤めていたから、すぐにきてくれた。その足で精神神経科の医者に診てもらうと、淑香は尋常な病気ではなかった。医者はあと二年生きられるかどうか、と言った。今は記憶できず、論理的な考え方ができなくなっているだけだが、そのうち感情を失い、見えていても見えないようになって、死んでいくのだという。

 淑香は休学し、私も大学を休みがちになりながら治療を始めたが、正直にいうと打つ手はなかった。淑香の症状は急速に悪化し、私の声かけにも不機嫌というか、無表情な顔つきは変わらず、反応しなくなった。

 もっと丁寧な声かけなら、反応してくれるのかな。私はそう思って、私自身の言葉遣いを変えてみた。


「おはようございます。淑香さん、私だよ。」

「……。」


「朝ごはんを私と一緒に食べましょうね。」

「……。」


「こんにちは、淑香さん、もうすぐ昼ごはんだね。」


「こんばんわ。もうそろそろ着替えようか。」

 普段の生活の中にこの声かけだけが響くことだけが、二人の生きている証だった。


 ………


 ある日、おじちゃんは、淑香を連れて行ってしまった。

「今の彼女には、目には写っていても、もう認識できていないんだ。」

「でも、淑香は私の妹だから……。」

 私は彼女を最後まで看てあげたかった。それでもおじちゃんはこれ以上私に負担をかけまいと思って、彼女を引き取って行った。

「このままだと、君は壊れてしまう。現に今も壊れかかっているじゃないか。」

 確かに、私の態度はおかしくなっていた。何もないはずなのに泣き、だれも話しかけていないのに返事をしていた。しかし、私にとっては淑香の返事がないのは親しい相手を失った現実であり、聞こえなくても淑香が私に話しかけていたのが現実であり、私の全てが彼女への愛だった。

 人は死んだらいつ帰ってくるのか。天使のようになるとパウロは言っていた。それは、また同じように私を受け入れてくれるのか。愛してくれるのか。愛されてくれるのか。

 こうして、私は半分壊れてしまった。

 私は言った。

「愛は見えない?。ほら、淑香が見える。私には見える。」

 そう答えると、おじちゃんは、悲しい顔をするだけだった。


 ………………………


 私は大学を卒業して損保会社の不動産運用部門に就職した。以前から住んでいた家は、結婚とともに出た。新しい住まいはアパートだが、私を待ってくれている家族がいる。

 掃除を済ませた私の部屋は、再び使う人が来るまで無人となることを知っているかのように、静かだった。ただ、淑香のいた部屋はまるで今までだれも使ったことのないかのように、古びたままの壁と床が残されていた。

 あのとき以来、淑香のことを聞いても、おじちゃんは忘れてしまったのか、それとも触れずにいようと配慮しているためか、誰のことかと返事をするだけだった。そして、淑香のことを誰も、施設の人さえも、覚えている人はいなかった。彼女は私の記憶にのみ刻まれていた。いや、今や私だけが彼女の記憶の中に生きていた。そんな惨めな私をみて、おじちゃんは言った。

「愛とは何だろうね。見えないものに苦しむなんてね。」


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