逃走と闘争
収まっていた右腕の痛みが、再び脈を打ち始めた。
目の前に、その痛みの元凶がいたから。
化け物、いや、『アノン』は笑いながらこちらを見ている。
だが、襲ってこない。私が逃げ回るさまが見たいのだろうか。
あとこの瞬間、神崎さんがとった行動について一つの可能性が見えた。
彼女は俺を餌にして、こいつをおびき出そうとしたのではないかと。
彼女はアノンとやらを駆除する立場の人間だ。なら、この状況下であれを退治しようと出てくるはずなのだが……。
これも一つの仮説にすぎない。彼女がこの状況を知らない可能性も十分ある。
何とか、逃げる手立てを考える必要があった。
だが、冷静にそんなことを考えられる状況ではなかった。
今襲われたら、確実に死ぬ。
その事実で手足の震えは止まらず、まともに走れる気は全くしなかった。
そもそも、走ってこれから逃げられる可能性もないと判断していた。
そこから、何も考えられなくなった。
今どうするべきなのか、どうやったら逃げられるのか。
いい案どころか、選択肢すら思い浮かばない。
だが、この場から逃げることだけは忘れないようにしていた。
それを頭に保つので精一杯だった。
ザッ……
足を擦る音が聞こえた。
ザッザッザッ……
次第にその音が連続して聞こえてきた。
現実に戻ると、化け物が歩いてこちらに向かってきているのが見えた。
ゆっくりと、音の間隔が早くなっているのが分かる。
その距離がどんどんと縮まっていく。
笑いながら、アノンが歩みを早める。
すでに鈍かった私の思考は完全に動かなくなった。
気づけば、目の前まで迫っている。
そのままの勢いで、アノンがとびかかる。
その腕は、私の頭を狙っていた。
目の前に、アノンが迫ってくる。
その瞬間、私は頭を下げた。
そして、そのまま前に走り出す。
目の前には、見慣れた道路が続いている。
震えていた足で、いつの間にか走り出していた。
私は、考えもせずに、アノンの攻撃をかわしていた。
後ろで何か大きな音がした。玄関にアノンがぶつかったのだろうか。
振り返りもせず、そのまま走り続けた。
何とか、今一瞬助かったのだ。
だが、まだ逃げられてはいない。
私は足が速いほうだと自負しているが、あんな化け物に通用するとは思っていない。
とにかくこの一本道から離れて、わき道に入ろう。
こんな見通しのいいところで、隠れながら逃げるのは無理だ。
とりあえず、そこの家の隙間に……。
その逃げ道に向いていた視線は、一瞬で地面に向かった。
さっきまで感じていた風も、なくなっていた。
私は、捕まったのだ。後ろから追ってきたアノンに。
頭の上に何かがのっている感覚。アノンは、足で私の頭を押さえつけているのだ。
コンクリートにひびが入っているのが見える。
頭が横に向いた。左頬から圧を感じる。
視界は、コンクリートから住宅街に移った。
左端に、足の指のようなものが見える。
その時、アノンが私の顔を覗きに来た。
笑った顔が、左側から徐々に見え始める。
その顔は恐怖を感じさせる笑みで満ちていた。
私の顔に、おそらく生気はなかっただろう。
私の頭蓋骨は粉々と言ってもいいはず。
頭だけでなく、体も動かない。痛みすらない。
恐怖も、もうない。
前よりも強く、自らの死を受け入れていた。
今日、何したっけ。
化け物に襲われて……。あっ、それは3日前か。
で、よくわからない女性に助けられて、アノンとか言われて。
死ぬかもだとか助かるだとか。
そのあとにあのクソバカが来て、彼女ができたとか勘違いされて。
命の恩人に締め出されて。
また化け物に襲われてる。
……。散々だな、最近の私。
そして、今日も母はいない。
ふと現実に戻ると、化け物が笑うように吠えているのが分かった。
空に向かって、オオカミのように吠えているのだろうか。
それを聞きながら、自分の中で、何かが湧き出していた。
「…… 何笑ってんだ、お前」
無意識に声が漏れていた。それを聞いて、化け物の笑い声が止んだ。
「お前、俺に何してんだよ」
徐々に自分の声が大きくなっていく。
「俺の日常を見事に壊しやがって 今日俺がどれだけイラついたと思ってるんだ」
自分の日常が大事だと思ったことはない。ただ適当な理由がほしいだけだった。
「それが全部遊びってか こっちが笑いてぇよ……」
今度は自分が笑い始めていた。
「ふざけんなよ」
自分が出したとは思えない程、その声には威圧感があった。
頭にかかる圧力がなくなってきた。
アノンは足をさげ、徐々に離れていった。
「別にいいよなぁ お前はこんなことしたんだ」
ボロボロのはずの体で、自分は立ち上がった。
「俺がお前に何しようが なぁ?」
乱雑にまかれていた右腕の包帯がほどけた。
「今更言い訳とかしないよなぁ そんな口あるか知らねぇが」
アノンは後ずさりをし始めた。
「あ? 逃げるのか? そんなことしていいと思ってるのか?」
自分は一歩前に出る。
「俺を遊び殺すんじゃなかったのか? あぁ⁉」
シュルシュルと音をたてながら、包帯が落ちていく。
包帯が取れた右腕は、赤黒く輝いていた。
赤い鱗のようなもので、腕が覆われていた。
指先は鋭く、5本の刃物が掌に付いている様だった。
人間のものというにはほど遠い見た目のそれは……
まるで、化け物だった。
「やってみろよ やり返してやるからよぉ‼」
その異形な右腕をぶら下げて、俺は言い放っていた。
化け物がとびかかってきた。
その顔は、必死の表情だった。
初めて自分がやられる側に立ったのだろうか。
俺には、その顔を眺めていられるぐらい、時間が遅く感じられた。
最早、待つような感覚であった。
そして、やっとそいつが目の前に来たから、
ちょうど、野球で投げられたボールをバットで打ち返すように……。
俺は、その化け物を右腕で振り下ろした。
コンクリートでできた一本道が、大きく割れた。
その破片が宙に舞って、あたりに散らばった。
その中で"化け物"は、ただ茫然と眺めていた。
目の前で動かなくなった、化け物を。