天狼の最後
鳳凰の檻はこれで終了。エピローグはもう少し待ってください。
ダイムと義王、二人の間に訪れた突然の静寂。
満身創痍のダイムと傷一つ負っていない義王。どちらが優勢かは見るまでもなかった。
やがて義王の方から静寂を打ち破り、怒涛の勢いを込めた一刀が放たれた。
狙うはダイムの頭蓋。無形の位から必殺の一撃を繰り出すこの技の名前は、湖上流 新火という。
二本の刀が衝突し、火花を散らした。
鋼をも両断しかねない義王の一太刀をどうにかダイムは防ぎきった。
ダイムは目を閉じて全神経を真正面に向かって集中させて行く。そこから拳を握ったままの両手を突き出す。
これらは義王にとっては予想された反撃でしかなかったが、攻防の一撃に込められた力そのものは究めて予想外。
義王は奥歯を食いしばって何とか体制をその場に止めた。
「ジイサン、相撲は嫌いかい?」
ダイムはニヤリと笑った。そして、先の競り合いで勝ち得た優勢が失われる前に、ダイムは義王との距離を詰めて行く。
九怨湖上流の歩法、円周ならば相手の不得手とする方角に自分の優勢を保ったまま進む事が可能になる。勿論、義王が天夢剣を使うことを考慮しながらのことだった。
だが、義王にとってそれらの動きは予想の範疇内での出来事だった。
義王は雷蔵との交流の中で円周の短所に気がついていた。
円周の地面に楕円を描くような移動は厄介極まりないものだが、仕掛ける側の狙いがハッキリとしている場合は移動速度が目で追えないというほど速いというわけではない為に実に読みやすい歩行術であることだ。
後はダイムの手の動きさえ見ておけば先手を許すことはない。
義王に見切られていることを気がついても今のダイムには攻撃以外の選択肢は存在しない。
ダイムは近距離から眉間に向かって柄打ちを仕掛けた。
義王はこれに対してお約束の上段切り払いを放つ。刀同士が打ち合う音がその場に鳴り響く。
ダイムは払われた剣を痺れの収まらない方に瞬時に持ち替えて最悪の事態を回避した。
「あの世で雷蔵に一から教えてもらって来い。口先ばかりの青二才が」
今の見苦しい攻めを思い浮かべながら自嘲気味にそれも有りだな、と反省するダイム。
しかしそれでも攻撃を止めるわけにはいかない。義王の今使っている天夢剣の制限時間をゼロにするまではこうして攻撃を続けるしかないのだから。
もしもダイムが攻撃を止めれば先にダイムがやったように夢幻の世界に移動して、こちらが察知することができない場所で攻撃をしかけてくる。
つまり無意識のうちにダイムが敗北してしまう可能性が出てくるのだ。
こうなると夢幻の世界においても肉体を持ち得るようになってしまった現状が憎らく思えてくる。
ゆえにダイムは攻撃の手を緩めることなく義王と対峙せざるを得なくなっていた。味方につけると心強いが敵に回すと恐ろしい、とはこういうことか。
ダイムは打開策の見えてこない現状に対し歯噛みする。
一方の義王も自分の攻めてが時間と共に雑になっていることを反省していた。
九怨湖上流の奥義、天夢剣。近接戦では無敵の肉体を手に入れてしまった強みが、こういう形で自分の精神に悪影響を与えるとは思いもしなかったのだ。
そもそも生粋の武門である湖上の教えには先手という考え方はない。
こうも焦って勝利に執着するとは何たる不覚。
ほぼ最初に立っていた位置に戻される両者。
義王は片手持ちの前に剣を突き出した中段の構え。そしてダイムは痺れた方の腕を折って盾のようにして半身と剣を持った方の腕を隠すという九怨湖上流の逆十文字の構えで再び相対する。
義王の右手はいつでも猿手を打ち込めるように故意に自由にしてあった。もしもこの状態でダイムが柔の技でもしかけようならば猿手に阻まれ縦に一刀両断されてしまうだろう。
ダイムには一応、保険として間合いの外側から相手に攻撃を仕掛ける手段も存在する。
が、しかし。これこそが悪手中の悪手。間合いの外からの攻撃こそが義王天狼を相手にする場合はこれだけはやっていけないことの最たるものだった。
なぜならば義王天狼の持つ神渡り、猿手と並び褒め称えられる三神技の一つ、太極波の存在がダイムの決断を鈍らせる要因となっていたからである。
太極波とは義王が湖上流の大波という技を振るう際にその威力のあまりの凄まじさから名付けられた異名である。
義王が湖上流の免許皆伝の儀式の際に検分役であった湖上の先人たちの前で見せたこの技はいにしえの達人が稲妻を切ったという伝承のように一太刀で雷鳴を消したという信じられない記録が残っているらしい。
義王が実際にその技を使うところを見た雷蔵も同じように語っている。義王天狼の剣は雷を斬る、と。
そして、義王の挙動に変化が現れた。
彼のいかなる動きも見逃さぬといわんばかりの不動の姿勢が、気がつけば右かつぎの体勢からダイムの鼻梁目掛けて振り下ろしていたのだ。
一瞬ダイムの左目に違和感が生じる。
してやられた。
それは猿手と天夢剣の複合技だった。
まず天夢剣でダイムの意識を一瞬だけ見送らせて猿手を仕掛けるというはなれ技をやってのけたのである。
ダイムが天夢剣の使い手でなければ今の攻防で確実に左目を奪われていただろう。ダイムは剣先を返してこれを弾く。
だが、義王はこの瞬間こそ待っていたのだと嗤う。
ダイムは全身から冷や汗を流す。弾いたはずの剣が存在していない。
そもそも振り払ったはずの自分の刀は今も手の中に存在している。
両者が仕切り直してから今までの攻防の全てが贋物だったのだ。
「どうだ!これが真の天夢剣の使い道というものだ!」
続けざまに義王は猿手でダイムの左脇腹をこじ開けて肝臓、左肺、顎の左部分に剣の柄で三連撃を加える。
尋常ならざる速さと威力を持ったそれらの直撃を受けたダイムは思わず片膝をつく。これぞ必殺の勝機。
ダイム・コール、恐れるに足らずと義王は眉間に向かって刀を振り下ろす。
しかし、ダイムも負けてはいない。
気力で苦痛を封じ込め、朦朧とした意識を信念で現に引き止めて義王の放った必殺の一撃を受け止めた。
「天夢剣はどうしたっ!クソジジイッッ!!」
「往生際の悪さというものを知れ!餓鬼ッッ!!」
両雄一歩も譲らず。
ダイムは振り上げた剣を水平に構えがら空きになった腹に向かって斬りつける。
今度は義王が刃を返してダイムの剣を受け止める。再び火花を散らすダイムと義王の剣。
しかし、この時すでにダイムは既に奥の手を使い尽くしていた。
ここまで後生大事に取っておいた気力の最後の一絞りも今の攻防で使い果たしてしまったのである。
今のダイムは目が霞み、相手をまともに見ることすら出来ないでいた。
だが決して彼の闘志は消えることはなかった。
むしろ終わりが近づくにつれて燃え盛る内なる炎は力を増していったような気配さえあるのだ。
義王もまたダイムの勢いを当てられて闘志を燃やす。
己を相手にここまで食い下がられたのは果たしていつのことだろうか。否。考えるまでもない。彼は自分の戦歴に土をつけた男、九怨雷蔵の弟子なのだから。
「ぬるい。脇が空いているぞ」
義王は踏み込んでからの前蹴りを放ち、ダイムを大きく仰け反らせることに成功する。
今、追撃を受ければダイムはそれで終わってしまうだろう。しかし、いくら待っても義王は向かって来ない。
「おやさしいことで」
ダイムはふらつきながらも必死に体勢を立て直す。しかし、眼前に立ち尽くす義王の姿を見て愕然とした。一瞬、己のおめでたすぎる頭を叩き割ってやりたくなった。
「ここに来て、太極波かよ」
義王天狼の最大にして最強の技、太極波。
上段の構えから繰り出されるその技は音を斬り、光を斬り、因果すら斬るという伝説の奥義だった。
この技を前にした今ならばダイムのような凡骨の剣士にも確かに理解できることがある。
もはや自分に逃げ場など存在しない、と。ダイムは自ずから死を覚悟した。
「その通りだ。お前は実によくやった。お前の見るも哀れ、語るに足らぬ必死なぶら下がりに敬意を表して、我が最大の奥義を以って死を与えてやろう。光栄に思えよ、ダイム・コール」
「ここまで寂しい老人の相手をしてやったのにぶら下がりは無いだろ。妖怪失礼ジジイが」
ダイムは覚悟する。
必殺の奥義、太極波を破り自らが勝利することを。烈火のごとく燃え盛るむき出しの闘志を以って、己の魂に刻み込む。
そして、ゼロに限りなく近いが勝算もあった。
実は湖上流の教えにおいても、九怨湖上流の教えにおいても実は太極波という技は無敵ではなかったのだ。
太極波には天敵が存在することをダイムは綿貫勇治であったころに師匠の雷蔵から伝え聞いていた。
「大海より出でる大波は夕凪の小波に打ち消される。驕る天狼、野良犬に噛み殺されるってな。これが最後だ。義王天狼」
義王の上段の構え、一度動き出せば他の追従を許さぬという天蓋瀑布。
対して、ダイムは下段の構え、どんな動きも凌いで見せるという覚悟を表す左方小祓。
双方は剣の性質そのものが対極に位置する構えで相対した。
確実に迫る決着の刻限。
運命というものが存在するならば、それは果たしてどちらの剣士に味方するのか。
「その構えは小波か。どうやら己は最後までお前という人間を見誤っていたようだ。手習いの小僧ごときが実に小癪。死んでも後悔するなよ」
義王は心底からダイム・コールという男に感嘆の念を禁じえなかった。
流石は自分の生涯唯一の弟子、雷蔵の弟子だ。
夢想の領域に過ぎぬと言われ続けてきた大波・小波の術理をここに来て持ち出してくるとは。
若輩ながら見上げた根性の持ち主だ。義王は再び、自らの内で燻ぶる神気に火を灯す。
次に放たれるのはただの太極波ではない。
夢幻と現の両方を斬る天夢剣を纏う太極波、夢想真空太極波だ。この技は自分を殺した九怨春歌にさえ使ったことはない。
「これが最後の問答だ。ダイム・コール、お前が剣を取る理由は何だ?」
ダイム・コールは一度目を閉じて自らの決意を確認する。
彼がその瞬間に思い出したのは婚約者、師匠、師匠の妻。そして、かつて兄と慕った男の姿だった。
「惚れた女が俺を庇って殺された。一生守ると誓った、こいつとなら生涯添い遂げる堅く誓った唯一人の女をだ。それで、こんな俺の面倒を見てくれた師匠と師匠の奥さんもそいつに殺された。今俺が生きている理由だ?そんなもんは無い。今の俺は復讐の鬼。あいつを九怨春歌を叩っ斬るだけだ」
「剣士としては失格、だが男としては上々の返答だ。短い付き合いだったがこれも渡世の縁というものだ。お前の名前、決して忘れぬように心に刻んでおこう。湖上流、義王天狼。いざ参る」
安心しろ。勝つのは俺だ。そして負けて死ぬのはお前だ、義王天狼。
あえて口にはしない声無き意志の顕現が、さらにダイムの勝利への渇望を強くする。
それはまるで、今ここでこの男を斬っておかなければ明日の自分はないという心境だった。
「応ともよ。九怨湖上流ダイム・コール。いざ参る。来年のお盆にはお前用にぼたもち買っといてやるからよ。安心して死ねや」
「盆ならば夜船だろうよ」
最後の最後まで悪態をつく二人の男は、互いに決した意なるものを比べるべく決戦の場に立つ。
両雄の横顔に一切の余念は無い。
かくして義王の上段から雷神の怒涛の如き一刀が、ダイムの下段から天に挑まんとする伏虎の如き一刀が互いの意志を摘み取らんとばかりに解き放たれる。
勝つのは義王か、はたまたダイムか。勝ちを決めるのは練り上げられた技量でも生まれ持った資質のどちらでもない。
より強い意志を方なのだ。
この世のどこでもない場所で、雷光を斬る閃光と天の龍を喰らう猛き虎の牙が時空を超えた永遠なる瞬きのもとに交差する。空と空が、鍛えられた鉄と鉄が、幾星霜を経てぶつかりあう。
そして義王の放った夢想の世界と現実の世界の両方を切り裂く究極の魔剣は、ダイムの放った凡庸なれど武道の体現とも言うべき技によって跡形も無く打ち砕かれた。
思えば義王の作り出した完全な世界など最初からこの現世に存在しなかったのかもしれない。
決戦の勝者はダイム・コール。
彼は向かい合った当初より勝利を確信していた。
ものの役に立たぬはずの小波ならば、必ず義王の万物を切り裂く大波に勝つことが出来ることを、ダイムは向かい合った時から信じて疑わなかった。
もしも、義王が盤石の奥義を使わずに普通の技で挑んで来たならば絶対に勝てなかっただろう。
これはそういう戦いだったのだ。
今のダイムには再起した後に、立ち上がる気力すら失われていた。
これが体内に残る活力の源泉から湧き出た最後の一滴。否。むしろそうであるからこそ義王天狼に勝利することができたのである。
熱を失った体から漏れる呼吸の音、激しい心臓の動悸。
これら全ては万策をして勝ち得た勝利の産物である。
今だけは己の矮小ささえ誇らしかった。
案外、武の境地とはこういったせせこましいものなのかもしれない。
「武の本領を見落としたな、義王天狼。自分から進んで斬りに行くようなのは武道とは言わねえ。矛を以って矛を止めるのが武道、武の本領だ」
義王天狼は己の敗北を悟り、地面に片膝を落とす。
してやられた。
湖上の家で修行していた頃はあれほどまでに気をかけていたことを今の今まで失念していた。
大波は小波という技を比べあう事自体が土台意味の無い話だったのだ。
これらの二つの技が相対した時に、大波は技の性質上わざわざ小波という技の支配する圏内まで入り込んで行かなければならない技だったのだ。
どれほど完成された領域に達した技でも相手に斬られに行くような代物では本末転倒ではないか。
さらに説明するならば、義王がこの大技に天夢剣を交えてしまったことも失策だった。
天夢剣を交えて夢想の世界のダイムまで斬ろうとしたことで夢想の世界を察知することが出来るダイムにとって有利な状況が出来上がってしまったのである。
例えるなら「今からお前を斬るぞ」と大声で叫びながら万全の拵えした相手に突っ込むような愚挙。
使い慣れない天夢剣は蛇足の極み。
やはり天夢剣は自分にとって厄災だったか。義王はごく自然に苦笑していた。
「見事だ、ダイム・コール。本当に悔しいが今の戦いに限っては、お前の言葉こそが正しい。全くもって悔しいが己の負けだ。不本意の極みではあるがこうなってしまった以上は、お前の勝利を認めなければなるまい。悔しさでどうにかなってしまいそうだが」
義王はその場で目を閉じたまま鞘に愛刀を納める。
今回の敗北で、彼を頭の中にあった武の継承という悩みは失われてしまった。
なぜならば義王の剣は九怨雷蔵を介してダイム・コールという青年にしっかりと伝わっていたのだ。
加えて、かつての雷蔵に「大波は決して小波に勝つことができない。自ら敵に挑戦するような武人は最早武人ではないのだ」、と教えたのは他ならぬ義王自身である。
これを因果と言わずして何といおうか。
「おい、待て。イマ会話の中に三回も悔しいって言葉が入ってたぞ。……って、待て待て。何で生きてるッ!?」
実際、負けたはずの義王は全くの無傷だった。
義王は呆れ顔でダイムの刀を指差す。
何と彼の愛刀は最初の半分くらいの長さになっていたのだ。おそらくは最後の攻防が原因で折れてしまったのだろうが、これに気がつかぬダイムは鈍感と言わざるを得まい。
「そんな刀で何を斬ったつもりだったのだ、ダイム・コール。だらしない貴様のことだ。どうせロクに手入れもしていないのだろうよ」
そういうと義王はダイムのところまで歩いて行き、彼の手から折れた刀を取り上げた。
義王の予想通りの不出来な刀を見て、心底呆れながらも今度は義王は自分の持っていた刀をダイムに手渡す。
ダイムは呆気に取られながらも見事な原野と夕暮れ、そして椿という意匠が施された鞘に収まった刀を受け取る。
刀の知識には疎いダイムだったが手渡されたものが極上の逸品であるだけは理解していた。
「いいのか、これ。返せったって返さねえぞ」
「今生の別れだ。持って行け。代わりにこれは貰っていく。そもそもいっぱしの剣士を気取るならまず見栄えというものに気を配れ」
その時、義王は真正面を見据える。もしかするとこれがダイムの姿を始めて見たのかもしれなかった。
ボサボサの頭に鋭いというより単にやぶ睨みな目つき。容姿の出来もたたずまいも中身も若い頃の雷蔵には到底及ばない若者だった。
「へいへい、わかりましたよ。人生の大先輩サマ。ところで義王、春兄は九怨春香は今どこにいるんだ?」
「最後に会った時はたしか天竺に行くと言っていたな」
「天竺?」
それはダイムにとってはまるで心当たりのない地名だった。
都内にそういう名前の土地があったのだろうか。
もしかすると神奈川あたりにそういう場所があるのかもしれない。
ダイムはブツブツと独り言を呟く。その恐るべき独白の内容にあきれ返った義王は思わず声を荒らげた。
「外国だ!外国ッ!印度ッッ!!全く西遊記くらい知っているだろうに」
「知ってるよ、それくらい。アレだ、アレ。桃太郎が出てくるヤツだろ?」
ダイムのあまりの無知に義王は敗北したこと、剣を譲渡してしまったことに改めて後悔する。こんな馬鹿に自分は負けたのか、と。
「おそらく天竺とはお前や己の生まれ故郷である第三世界、この第二世界に存在する天竺のそれではないだろうよ。追いたければ勝手に追え。ただし心せよ。己が地獄の悪鬼ならば、九怨春歌はその悪鬼を喰らう羅刹だ。お前の如き愚鈍を絵に描いたような愚物が到底、勝てる相手とは思わぬが」
その言葉とは裏腹に義王は今一度、ダイムの姿を見てから安心した。
今ここにいるのは復讐心に囚われた一心不乱の餓鬼ではない。
九怨湖上流の信念を受け継ぐ一人の剣士だった。
その時、義王の屋敷が大きく揺れた。いつの間にか周囲の風景は元の部屋に戻っていた。
しかし、今度は振動が続く毎に空間が縮んでいる。ダイムは義王に向かって叫んだ。
「これはどういうことだ!説明しろ!」
「どうやら俺は奴等に見限られたらしいな」
義王にはいくつかの心当たりがあった。
まず胸の中で脈打っていたはずの鳳凰の魂が無くなっている。
そして、ダイムが持ち込んだ情報の数々が悪い予感を想起させる。
義王はダイムに互いの持つ情報を照らし合わせる為の再確認する。
「ダイム・コール。お前の知る話では俺はいつ死んだことになっているのだ?」
「あれは中3だから、六年くらい前だ」
義王の中でいくつかの疑問が解決した。間違いない。最初に義王の前に現れた九怨春歌は未来からやって来たのだ。
おそらくは九怨春歌の側近、獏という僧侶の格好をした男の使う術なのだろう。
自分のことを妖怪の化身と名乗っていた珍妙な男だったが、まさか本物の妖怪だったとは。
よく考えてみるとこの世界に来てから何度か経験した合戦の際に活躍した妖術の使い方も獏に習ったものだったのだ。
以前、獏から受けた講義によると妖怪は実体を持たぬがゆえに時間の干渉を受けにくいという話だった。その話が本当だとすれば過去や未来を行き来する事も不可能ではないのかもしれない。
義王は再び、空洞になってしまった胸に手を当てる。案外このからくりも最初から仕込まれていたことのなのかもしれない、と感じた。
さらにダイムから聞いた話が真実なら九怨春歌は両親と家族を殺害した後に義王の元に訪れたことになる。
待て。何か重大な事実を見落としている。
「九怨春歌が凶行をしでかした時に、何か覚えていないか。何でもいいから思い出してみろ」
ダイムは義王があまりに必死なので本当ならあまり思い出したくないのだが当時のことを少しだけ思い出すことにした。
あれはダイムが綿貫勇治であった頃、高校最後の部活動が終わった時に帰宅した時、当時の勇治は九怨の家に居候している身の上だった。
帰宅した勇治は必死の血相で家の奥にある土蔵の中で何かを探している春歌を見つけた。
あの普段はおとなしい義兄が鬼気迫る様相で取り乱している光景は忘れようにも忘れられない。
これが九怨春歌が両親と実の妹を斬殺する前日の出来事だった。本当ならばこういったことはあまり話たくなかったのだが、他に何も思いつかなかったのでダイムは義王にこの事を打ち明けることにした。
九怨家の土蔵。小箱。義王の中で全てが繋がった。
そして、義王はこの時に九怨春歌の恐るべき企みに気がついたのである。
以前、雷蔵が九怨家の正当な跡取りとなる時に義王は後見人の一人として継承の儀式に参加した。
儀式が終わった後に酒の席でその日に限って珍しく上機嫌だった九怨銅和との会話を思い出した。
「九怨の家にはいにしえの妖魔たちの王を封じた小箱が隠してある」
その時の義王は酒の席での冗談だと思って軽く聞き流してしまった。しかし、それから何十年か経過して雷蔵から例の小箱を届けられたことを思い出した。
書面には「新しい九怨の跡取りが出来次第、取りに行かせる」ようなことが書かれていたことはずだった。
もしかすると九怨の新しい後継者とはこのダイム・コールという青年のことだったのかもしれない。
つまり九怨春歌は雷蔵を殺害した際に彼が例の小箱を持っていないことを知り、それをわざわざ受け取りに来る為に時間を逆行させて自分に会いに来たのではないだろうか。
おそらくは、九怨春歌が雷蔵を殺した時には別の理由で自分は死んでいて小箱の所在がわからなくなっていたと考えるほうがこの場合、妥当なのだろう。
妖魔の王というものがどのような存在なのかは全く知らないが、あの九怨春歌が欲して止まぬようなものなのだからどうせロクなものではあるまい。
「ダイム・コール、よく聞け。お前はこれから九怨春歌のことを探すつもりなら九怨一族が天夢剣を作り出すきっかけとなった秘伝の小箱のことを覚えておけ。おそらくそれが全ての始まりに繋がるだろうよ」
「小箱だって?何でアンタがそんなことを知ってるんだ」
霞がかかったダイムの記憶に幼い頃の出来事が思い出される。あれは祖父母が死んですぐに九怨の家に引き取られた時の夏の頃、春歌と織羽と三人で古い蔵を探検しながら遊んでいた時に見つけた小箱。
あの時、箱に書かれている絵が綺麗だったので織羽が持ち出そうとした時に何かがあったはずだ。ダイムがいくら考えようともその部分だけはなぜか思い出せなかった。
あの金色の蝶が描かれた黒い小箱。今のダイムにもそれは思い出す事が出来る。だが、何かがあった後にひどく雷蔵に叱られた。だが、その叱られた時の説教の内容と理由だけはなぜか思い出すことはできない。だが、その時の事件がきっかけでダイムたちは蔵に近寄らなくなったはずだ。
その時、また建物全体が大きく揺れた。今度は部屋の中の至る所がヒビの入ったガラス板のようになっていた。
しばらくして亀裂の入った部分から何かが流れ出てくる。見覚えのある液体。あれは先程まで部屋の中を満たしていた幻影の血の池ではないだろうか。
「こっちに来い。逃げるぞ」
ダイムは義王に引かれるような形で部屋から脱出した。屋敷の廊下は長くなかったはずなのに今はぐにゃぐにゃに捻れ曲がった別の空間のようになっている。これは一体どういうことなのだろうか。
ダイムは一連の状況の変化について義王に説明を求めようとするが彼はまるで取り合うつもりはないようである。
この異形の廊下は歩いている際にもいちいち方向感覚を狂わされ、とても移動が困難になっていた。
前に進んでいるはずなのに気がつくと横を向いていたりするのだ。ダイムは無言で義王の後に続いた。
次にダイムの見た光景は信じれらないものだった。先程までの和風建築物とは打って変わって岩肌が剥き出しになった洞窟のようになっているのである。
上を見ればつららのような突起が垂れ下がっていて、さながら鍾乳洞の中に入り込んでしまったかのように錯覚する。
義王はダイムからぶん取った折れた刀を遠くに向けた。ダイムの目ではここからでは何が存在するか検討もつかない。
「ここでお別れだ、ダイム・コール。お前はここをまっすぐ走って出口を通って外に脱出しろ」
「月並みな質問だが、アンタはどうするんだ。そんな折れた武器で」
捻じ曲がった空間の奥にいくつもの不気味な目が映っている。
そして、その奥から口の中からボロボロの歯を覗かせた亡者たちが押し寄せて来ている。
ダイムは義王の身を案じてか自分の手の中にある義王から譲り受けた刀を見た。どうせ戦うならそんな折れた刀よりもこちらの刀を使うべきではないか、と考えたのだ。
この時のダイムには死闘を演じた義王に情けのようなものを感じるようになっていたのである。
たとえそれがこの世界において悪逆非道の限りを尽くした大罪人だったとしても、今のダイムには彼を見捨てることはできない。
「ここに残ってあれらの相手をする。心配するな。己はお前より格段に強い」
義王は笑った。義王とダイムは対等の立場で戦ったもの同士なのだ。泣き別れをするような間柄ではない。
互いの健やかな未来を念じて、笑って最後を見送るのが礼儀というものだ。
ダイムも笑ってから、義王天狼に背を向けて外を目指した。
自分はここで死ぬわけにはいかない。
生きて復讐を果たさなければあの時、自分を庇って死んだ九怨織羽の魂は報われないままになってしまう。
たとえ雷蔵や雷蔵の妻、そして織羽が復讐を望まないとしても生き残ったダイムはそれを果たさねばならない。
何よりもそれが生き残った者の使命だと考えた。
「その刀の銘は『星の灯り名残惜しき燎原に広がる克明の暁の椿』という」
「長い」
「暁の椿だ。せいぜい手入れしろ。さらばだ。ダイム・コール」
「じゃあな、義王天狼」
二人は互いに背を向け合い、その場で別れ別れとなった。
ダイムは出口を目指して走り出し、義王は折れた刀を亡者の群れに向ける。各々が自らに課した指名を全うする。
義王は次々と亡者たちを剣で屠る。
だが、いくら亡者たちは必殺の剣で切り裂かれても義王に群がるばかりだ。逆手に持った刀で亡者の先頭を切り裂く義王天狼。
両断された亡者に代わって次から次へと迫り来る亡者たち。これらは全て義王の殺した憐れな市井の娘たちだった。
だが、義王は一切手を緩めることはない。彼は自ら進んだ地獄の底で命が尽きるまで戦い続けることを選んだのだ。
「悪逆非道の限りを尽くして、今さら反省する気など毛頭無し。亡者どもよ、お前らの仇はここにいるぞ。殺したければ好きなだけ向かって来い!」
義王は両手を開けて、亡者の群れに飛び込む。
彼はダイムの為にも少しでも数を減らしておかねばならなかった。右から左まで並んだ亡者の首を次々に落とす。
その時、義王の足に頭だけになった亡者が齧りついた。しかし、義王は一向に気にしない。足が無くなろうが、腕を失おうが今は戦うだけなのだ。
次には数対の亡者に取り囲まれ義王は左の腕の肉を喰い千切られ、返す刀で亡者を腰のあたりから両断する。
亡者に右側からこめかみを引っ掛かれ視界の半分を奪われるが、義王は亡者を掴み地面に叩きつけた。
次々と奥から迫り来る亡者たち。
自分は今までにこの異邦で、どれほど多くの人間の命を奪ってきたのかと義王は苦笑する。
義王は両側から迫る亡者の頭を左右同時に放った猿手で握り潰す。
「遠き者は目を見張れ、近き者は耳を傾けよ。わが名は義王天狼。見紛う事なき地獄の悪鬼よ」
地獄の底からお前の復讐の結末を見届けやるぞ、ダイム・コール。
義王は亡者たちのどす黒い血で全身を染めて、さらに深く入り込んでいった。
彼はここを死地と定めていたのである。
ダイムは出口を走り続けた。
こうして走っている間にも地面や天井が常に変形している。
おそらくは義王の力の源である妖魔の魂が失われたためだろう。これは予め仕組まれていた事であり、最初から義王は信頼されていなかったのだ。
もしかすると、これも雷蔵に対する春歌の仕打ちなのかもしれない。これといった確証はないがなぜかダイムはそう考えていた。
やがて、光が見えてきた。
その頃には地面は何だかよくわからない液体で満たされた水溜りだらけになっていて靴もズボンも水浸しになっていた。
ダイムは最悪の気分になりながらさらに出口を目指す。あの光のある方角に自分の目指す場所がある。
ダイムがさらに駆け込もうとしたその時に異変が生じた。目の前の光が小さくなっているのである。
焦ったダイムは必死で加速する。
彼の本能が光が閉ざされてしまえば二度と元の世界には戻る事ができないことを確信していた為だった。
「こんなところで死んでたまるかよ!」
ダイムは叫びながらもさらに加速する。
骨を軋ませ、戦闘で受けた傷から血を滲ませながらも全力疾走する。
今、死ぬ事は決して許されない。
転びそうになりながら、ダイムは目の前の光に向かって走り続ける。
だが光は時間を経て小さくなる一方で、その輝きを失いつつある。
ダイムは我武者羅に光に向かった手を伸ばした。
「織羽ァァッ!」
ダイムは決死の思いで死んだ婚約者の名を叫んだ。
すると光の中から手が見えたような気がした。
ダイムは差し伸べられた手に向かって手を伸ばす。
その手はしっかりとダイムの握り締め、彼を光の世界まで引き上げた。
「織羽ッ!畜生ッッ!!織羽ッ!もう絶対に離さないッ!」
ダイムは両手で救いの主を抱きしめた。
これは九怨織羽に違いない。死んだ婚約者が死の世界から黄泉返り、自分を助けに来てくれたに違いないのだ。
ダイムは頬ずりして救いの主を熱く抱きしめる。
今度こそ彼女を守り通す。もう絶対に離さない、と誓った。
「何をするッ!!」
次の瞬間、ダイムは顔面に頭突きを喰らう。ダイムは一瞬の間、困惑する。しかし、婚約者の怒りには心当たりがあった。
あのビデオのことだろう。今度こそ謝らねば。
「織羽、悪い。あの腹筋姉ちゃんのエロビデオは師匠から押し付けられたもので、まあ俺は腹筋姉ちゃんが実際に好きなんだけど。もちろんお前のことも大好きだぜ」
だが、ダイムの前にいたのは怒りに震える彼の上司キリジョウの姿だった。分厚い眼鏡越しの冷たい視線がいつにも増して鋭い。
眼鏡をくいっと人差し指で上げながら彼は言った。
「君に同性愛の趣味があるだけではなく、そんな特殊な性的嗜好があるとは知らなかったよ。ダイム君。いや、ダイム・コール。今月の給与査定を期待していたまえ」
キリジョウはダイムの鯖折りみたいな熱い抱擁で乱れてしまったコートの襟を正しながら、さらに彼から距離を置いた。
いつも不機嫌そうな顔をしているキリジョウだったが、今に限ってはいつもの三倍増しといったところだろう。
「仕事に個人的な感傷は持ち込むなってこの前言ってませんでしたっけ。キリジョー先輩?」
「ああ言えばこう言う。君は本当に今時の若者だな。君もいっぱしの社会人を気取るなら処世術という言葉の意味をそろそろ理解した方が身のためだぞ。おっと失礼。処世術とは日本の言葉だからな。言っておくがウィキとはエロ単語の意味を検索する為の情報ツールではない。この際だからたまには別の使い方をしてみてはどうかな?」
ダイムとキリジョウは真っ向から睨み合った。
実はこの二人の年齢差は実のところ十歳くらいはある。
エリート意識の強いキリジョウと新人のダイムは出会った時から犬猿の仲だった。
当初からの計画ではダイムが義王の屋敷の前でキリジョウたち本隊が到着するまでに見張っている手筈だったのだ。最初にダイムが屋敷の中に潜入したのは彼の独断専行である。
「ダイム・コール捜査官。無事の帰還、ご苦労だった」
それまで二人の様子を遠くで見守っていた男が姿を現した。
オールバックに整えられた白髪交じりの短く刈られたブラウンの髪。強い意志を感じさせる太い眉、そして慈愛と知性とを宿した瞳。端正な顔には年齢相応のしわが出ている。
その人物の体躯は外見もがっしりしている上にけっこうな長身でグレーのスーツの上から転生管理局で支給されている青いラインが入ったダークグレーの上級職員用のコートを羽織っていた。
彼こそがダイムとキリジョウの上司カルビン・コール、その人である。
「いろいろ聞きたいことがあるが、その様子だと随分苦労したようだな。何か要望はあるかね?」
「とりあえず牛丼特盛り、味噌汁とコールスロー、卵つきでお願いします」
ダイムはありのままの希望を告げた後に、疲労のせいでその場で座り込んでしまった。
エピローグが終了したら、多分タイトルが変更になるはずはず。