鳳凰転生 その2
まだまだ続くよ!
「雷蔵殿、そして雷蔵殿の父上様。どうかその切腹を待って戴きたい」
義王は予想通りの光景に己の至らなさに嘆きながらも語気を強めて親子の動向を牽制する。
銅和は目に溜めた涙をさっと腕で振り払い、平生の厳しい態度を取り戻していた。
佇まいからして尋常ならざるこの男は何者なのだ。九怨家には泥棒が盗みに入って持って行くような値打ちのあるものなどないというのに。
義王はさらに一歩前進して、頭を降ろす。
平伏するまでもない話なのだが、こんな夜更けに妙な胸騒ぎがするという理由で他人様の家を訪れたのだからまず頭を下げて自己紹介するくらいは当然だろう。
実際、このような重大な場面に自分のような部外者がいきなり割り込んで来たのだから斬られても仕方のないことなのだ。
「私は昼間に雷蔵殿と手合わせをした湖上典朗というものです」
銅和は目の前の人物を凝視した。
まず、噂に違わぬ正々堂々とした偉丈夫ぶりに驚いた。
次に一体どのような用件でこのようなあばら家にまで訪ねて来たのか。それが気になった。
当時の一般常識で考えれば格上の湖上の御曹司が、格下の九怨家まで尋ねて来るなど考えられないことだったのである。まして、このような英傑のような風貌を持つ男が昼間の出来事を不服に思って何かしらの文句を言いにここまで来るとは考えられないことだった。
「雷蔵殿の父上様、昼間の手稽古の話ですが雷蔵殿には何ら落ち度はありません。よって彼が切腹するのは筋違いというものです」
普段の銅和ならば部外者は黙っていろ、と一喝するところだったが相手が湖上典朗ともなればそうはいなかない。
時代が流れたとはいえ九怨流に剣を伝えたのは湖上流なのだから。たとえどれほど九怨流が落ちぶれようとも、かつて受けた恩を忘れるような真似をするべきではない。
銅和は沈黙という形で突然の来訪者にこの件では一切関わるなという態度を示す。しかし、それで黙っている義王ではない。
「もしも彼が何らかの責任を負って切腹するというのならば私は決して部外者ではありません。なぜならば私が剣士としての度量なるものが至らなかった故に今回のような結果になってしまったのですから。ここで雷蔵殿に切腹されてしまったら私は先の件で失った名誉を回復する機会すら奪われてしまうことになる。そうなってしまえば私は剣士としての未来は閉ざされてしまうでしょうに」
銅和は困惑していた。
天下の名門である湖上の御曹司がなぜこれほどまでに雷蔵に気をかけるのか、その理由がわからなかったのである。
仮にこの先何十年もの間、雷蔵が修行をしても湖上典朗に太刀打ちできるとは考えられぬというのに。
運命というものは一体、今度は自分に何をさせようとしているのだ。銅和の目は伏せられたままだ。
「雷蔵殿が切腹するというのなら剣士の責務として雷蔵殿に負けた私も切腹します。それが道理というものでしょう」
この言葉には流石の九怨銅和でも耳を疑うような話に驚きを隠せなかった。
そして、側で父と義王の様子を窺っていた雷蔵も父と同じ心境になっていた。
そもそも湖上典朗がなぜそこまでする必要があるのかまるでわからなかったのである。
「まずは自己紹介から先にさせていただきましょう。私は九怨銅和、雷蔵の父親です。それで湖上様。何ゆえに息子の雷蔵ごときの為に頭を下げられるのか、その理由を説明していただけませんか?」
「一つは私自身の名誉の為に。もう一つは雷蔵殿のおかげで永らく私の中にあった悩みを解決することが出来たからです」
前半は最初から考えていたことだったが、後半は話しているうちに思いついたことだった。
もしかすると雷蔵と出会って彼に敗北しなければそう考えることは一生なかったのだろう。即興の思いつきながらも義王は雷蔵に感謝していた。
「名誉云々はわかりますが湖上様のお悩みとはどのようなものですか。都合が悪くなければ是非とも教えてください」
「これは私が以前から考えていたことなのですが、剣の道を諦めようかと思っていたのです」
「それはどうしてですか。湖上先生っ!」
義王のあまりにも衝撃的な告白に驚いた雷蔵が思いがけず言葉を発した。
「私は君との試合の中で悟ってしまったのだ。今の私の中には若かりしころの情熱は失われ、妄執の中で闇雲に剣を振るっているにすぎないという事実に」
それは思いつきながらも義王が己の中に見出した真実だった。
愛する家族を失った心の空白を埋める為だけに剣の修行を続けることがどれほど空しいことかを、今の九怨親子の姿を見て切実に思い知らされたのである。ここが湖上典朗の剣士としての引き際だと。
「そこで雷蔵殿。これは私からの提案なのだが。私が湖上の道場で学んだ技の一部を是非、君に継承してもらいたいのだがどうだろうが」
「私が湖上流の技をですか?」
九怨銅和は息子と湖上典朗のやり取りを静かに見守っていた。
最早、彼は如何なることにも動じない。ほぼ同世代の湖上典朗は九怨雷蔵という未来の可能性を必死に生かそうと努力しているのだ。
ここで因習がどうとか、九怨の矜持はどうなるとか、そういった余計な口を挟むべきではないと考えた末であった。今は自分の息子を信じよう。
「むしろ君にこそ私の修行の集大成を受け継いで欲しい。私は既に家族とは絶縁の身の上。そして、君は湖上に縁のある九怨一族の長男だ。不都合はなかろう」
義王、湖上典朗は家族と絶縁状態にあった。病気がちの女を妻に迎えるべきではない、という実父の一言から彼は家を出た。
そして、妻と息子を失った時に彼は実家に戻るように父親に説得された。その時、彼は血族の全てと縁を切ってしまったのだ。
彼が今でも湖上を名乗っているのは行きがかり上の話であり、絶縁したことには後悔はしていない。
「しかし、それはあまりにもおそれ多いお話です」
雷蔵にとっても耳を疑うような良い話だった。
しかし、雷蔵のような若輩者でも湖上の奥義の一部を受け継ぐ剣士としての価値が果たして自分にあるのかと聞かれればはっきりと答えることは出来ないのだ。
雷蔵は意を決して、この申し出を断わろうと考えた。
自分の器はそこまで立派なものではない。九怨雷蔵は若くして己の器量なるものを熟知していたからである。
「雷蔵殿、この通りだ。私は君に敗北し剣士としての未来を無くしてしまったのだ。この上、君にこの申し出を断わられてしまってはそれこそ切腹する以外に道はないではないか」
最後に苦笑しながら義王は雷蔵を説得した。
命の恩人である湖上典朗を切腹させるわけにはいかない。
そう考えた雷蔵は土下座をして、その申し出を受ける事にした。
以降、雷蔵と湖上典朗の師弟の契りを見届けた後に九怨銅和は隠居を決めて、次の日から九怨湖上流の当主の座を雷蔵に譲った。
それから雷蔵は数年の間、湖上典朗の道場に通い湖上流の奥義のいくつかを継承した。
その後、雷蔵が湖上の技を継承したことを見届けた湖上典朗は実家から渡されたいくつかの兵法の教本を返還し、正式に剣の道から身を引いた。
彼は自分の名前を捨て、絵画の恩師である扇一朗から貰った雅号である義王天狼と名乗ったのもこの頃からの話である。
以上が、義王と天夢剣の最初の係わり合いである。そして、時代は流れて義王は二度目の天夢剣との出会いを果たすことになる。それは義王の宿命の相手、九怨春歌との出会いだった。
当時の義王は七十歳。健康を害し、年の初めくらいから体が思うように動かなくなっていた。
義王は体の自由がきかなくなってからは人目を避けて以前に暮らしていた田舎で生活するようになっていた。
今となってはこの雷蔵と共に修行をした土地が一番居心地の良い場所になっていたのである。
彼は雷蔵に手紙を出そうかと考えていたこともあったが心配させるのも悪いので書いた手紙は全て焼いて捨てていた。
そんな時に義王の家に突然の客が現れた。一人は女。もう一人は時代劇にでも出てきそうな僧侶の格好をした偉丈夫だった。
どちらにも心当たりがないので門前払いするつもりだった義王だが、相手が九怨雷蔵の息子だと名乗ったので家に入れてやることにした。
思えば、これが間違いのはじまりだったのかもしれない。
やはり義王天狼は九怨春歌と関わるべきではなかったのだ。
「どうもはじめまして。九怨雷蔵の息子、九怨春歌と申します」
義王の元を訪れた来客二人のうち、女の着物を着た方がそう名乗ってきた。
義王は訝しげに目の前の着物姿の女もどきを観察した。花芳しき春の小川のように流麗な黒髪。それらを彩る艶やかな髪飾り。憂いを含んだ大きな瞳。ふと気を緩めれば心を奪われてしまいそうなきめ細やかな造りの美しい小顔。
義王が何度見返しても女性にしか見えなかった。
「はじめまして、九怨春歌君。私が義王天狼だ。それでそちらの御仁は如何なる人物か教えてもらいたいのだが」
時代劇からそのまま出て来たような虚無僧のような格好をした男は九怨春歌の後ろで正座していた。
こちらもは目でわかるほどの偉丈夫だった。着物から覗かせる鋼のごとき筋骨は僧侶というよりも僧兵を思わせる。
この二人に何らかの害意があるとは思えないが万が一ということもあるのだ。
「彼はええと、獏ですよ。ホラ。動物園にいるほうじゃなくて、夢を食べるほうの獏。ねえ?」
何が「ねえ」なのだろうか。義王は自分の目の前に現れた雷蔵の息子を名乗る九怨春歌という人物に底知れぬ不信感を抱いた。
「獏だ。よろしく頼む」
自らを獏と名乗る男は義王や春歌の意を介するわけでもなく普通に挨拶をしてきた。
この男はよほど神経が太いか、ただの馬鹿か。
義王は知らずのうちにこの招かれざる客たちに向かって殺気を放っていた。
実のところ義王はこの時に相手が七十の老人だと思って馬鹿にしているのだろうか、と考えていたのだ。
「それで私にどのような用事があって尋ねて来たというのだ。説明していただきたいのだが」
もしかすると雷蔵の身に何かあったのか、或いは雷蔵が老齢の域に達した自分を心配して彼らを使いとして寄越したのか。
いやまさかこの二人を伝令役に選んだ雷蔵の意図はどんなものなのだろうか。
義王は困惑しながらも九怨春歌に来訪の理由を聞いた。
「実は僕、以前から義王先生に興味を持っておりまして。だってねえ、貴方はあの石頭の親父が真の武人と絶賛する義王天狼先生ですから。剣士の端くれとしては是非一度お相手してもらいたいなあ、なんて思っていまして」
「私は剣を捨てた身の上だが、やはりそのような話は願ってもないほどに光栄な話に違いあるまい。だが生憎この体だ。もうまとも立って歩くことさえ出来んのだよ。すまないな、春歌君。遠いところからわざわざ尋ねて来てくれたのだろうが今の私では君の相手をすることは不可能だろう」
殊更に咳き込むような真似をして春歌を追い返そうとしたが、春歌も獏も動じる様子はない。
それどころか春歌は前にもまして人を弄ぶような微笑を見せる。
義王はこれが本当にあの堅物の雷蔵の息子なのだろうか、と今さらながらに思案する。
獏の方は目を閉じたままでこちらの様子には最初から感心が無いようだった。
春歌は一段と妖しい笑みを浮かべて義王に接近した。
普段なら押しのけるか、遠ざかるかしていたはずだが何故かその時に限ってそうすることは出来なかったのだ。
「義王先生。夢想の世界に身を移す天夢剣ならば、全盛期の力を振るって僕と戦うことが出来るじゃありませんか。使えるんでしょ?天夢剣を」
「雷蔵がそう言ったのか?」
義王は驚愕を隠せぬままに口を開いていた。
過去に雷蔵との剣術交流をしていた頃にその話をした記憶は無い。というより口が裂けてもそんな恥ずかしい話は打ち明けられない。
雷蔵の天夢剣に敗れた悔しさのあまり、義王天狼が密かに天夢剣を体得していたという事実など話せるわけがない。
しかし、雷蔵は他はともかくそういうことには鋭い推察力を発揮する男なのだ。
「いいえ。違います。これは僕の勘です」
義王は恥辱と怒りから閉じた口の端をぎっと引き結んだ。
この無礼な若者は何者なのだ。
いきなり現れて、人を試すような真似をして。本当にこいつはあの九怨雷蔵の息子なのか。
この時の義王は九怨春歌とその連れ合いを今すぐにでも家から叩き出してやりたい気分だったが何故かそうはならなかった。
それは自分の目の前に現れた妖しい青年の底知れない器量に魅了されていたからに違いあるまい。義王当人もそれだけは認めざるを得ない事実だった。
「待て、九怨春歌。九怨一族と無関係の義王何某が、なぜ天夢剣を体得できるのだ。あれは我らが忌まわしき裏切り者、九怨天山の直系の子孫にしか現れぬ鬼相のはず」
今まで黙っていた獏が口を開いた。獏の言う通りに、天夢剣の資質は九怨天山という呪術師の系譜にしか現れない特殊な力だ。その九怨天山なる男が湖上の総帥に剣を習って完成させたのが、九怨湖上流なる流派だった。
しかし、これは湖上一門が九怨家と断絶した際に門外不出の情報になったはずなのだ。
この男は一体、何者なのだ。義王は沈黙したまま二人の動向を見守った。
この時すでに何かとんでもないことに自分が巻き込まれていることにも気がつきながら。
「僕のひいおじいさんの何代か前にね九怨と湖上の家は交流があったんだよ。これは家の蔵に残っていた書物で知った話なんだけど、義王先生のお母様が湖上の傍流の出身でね。実はうちの血を流れていたという話なのさ」
義王は歯噛みした。そんな話が九怨家の土蔵に眠っていたなど義王も知らなかったのだ。
義王の母が湖上の家に嫁ぐ際に実家との縁の一切を断ち切ることを条件に出されていた。
父と祖父からはお前の母親の実家は遠回しに縁起の悪い血筋と説明されていたのだが、そのような事実があったとは。
「なるほど。だが邪剣妖剣の類として遠ざけてきた天夢剣の血筋をどうして取り込むようなことをしたのだ?」
「それはね、獏。おそらく天夢剣の凄絶な効用をみすみす手放すことが出来なかったからじゃないのかな。事実、義王先生が実家を離れてからというものの湖上流の名声は地に落ちる一方で……」
義王の中で何かが爆ぜた。これ以上の家族への侮辱は許さぬと。
床を拳で殴りつけ、怒り心頭を発したのだった。
「そこまでにしてもらおうか。九怨春歌とやら。貴様は何の恨みがあって我らの一族をそうまでに愚弄する」
「あれれ?おかしいな。義王先生の奥さんが亡くなった原因だって元はといえば先生のお父さんとお母さんの責任じゃありませんか。体の弱い奥さんは義王先生に胸を張って実家に戻って欲しいとそう考えたからあんな無茶までしてねえ」
義王は自らの内面に生じた憤怒の全てを心中の奥深くに潜む武の精神で押さえ込んでそこから対峙する敵への闘争心として克己する。
義王天狼はこの時、九怨春歌を己の不倶戴天の強敵として認識し、武人としての再起を果たしたのだ。
たとえここで我が身が朽ちようとも決してこの男だけは許さぬと。
九怨春歌は是幸いと快進の笑みを浮かべる。全盛期の義王天狼を倒すことだけが、この男の最初からの目論見だったのだ。
逆に獏の方は九怨春歌のふるまいに心底、呆れていた。
そもそも獏と九怨春歌は義王と決闘ごっこをする為にここへ訪れたのではない。正統な理由があって義王を仲間に引き込む為に義王のもとに現れたのだ。
どこまで九怨春歌の酔狂につき合えばよいのか。獏は鎮痛の思いでその場を見守った。
「己との決闘が望みか。小僧」
そこにいたのはただ自らの死を待つ老人ではない。かつて父・雷蔵から聞いていた通りの最強の剣士、義王天狼。
「
義王先生、お体の方は大丈夫ですか。実はいいおくすりを用意しておりましてね。寿命を縮める代わりに全盛期の力を取り戻すようなやつなんですが」
「要らぬ」
思わず飛び退いてしまうような闘志を発する義王天狼。
相変わらず正座をしたままだが今の彼には不意をつかれるような隙は存在しない。九怨春歌は考えた。
両者がこのまま睨み合ったまま精神の凌ぎ合いを続けるのも悪くはないが、もしかすると今すぐにでも義王は限界を迎えて死んでしまうかもしれない。
しばらく考えた後に九怨春歌は提案する。
「それでは外に出て決着をつけましょう。義王先生。出来れば湖上流の流儀で」
「よかろう」
古来から伝わる湖上流の決闘とは、決闘場の中央にお互いの武器を置いた後にその場所から大人の足で十歩くらいの距離を開けてから決闘を開始する。
相手より先に自分の武器を取り上げることが肝要であった。
通常ならば敵より先に武器を取り上げて降伏を迫るか、両者ともに武器を持った状態で一足一刀の間合いから戦うかのどちらかである。こ
れは日本国内で武道が盛んだったころに考案された決闘法であり、当時の武術家たちは常在戦場という理論をどういう形で実践するかという考え方から生まれた方法だった。
だが決闘そのものが法律で廃止され、時代の流れのせいで武道がスポーツの下位に位置するようになった現在では廃れてしまった決闘方法だった。
九怨春歌がこの決闘方法で挑む理由は即ち完全なる決着、どちらかの死を望んでいるからに違いないだろう。
義王はかねてからの憎悪よりも人生最後の試合が禁忌の決闘によるものであることを喜んだ。腸が煮えくり返るような挑発だった。だが、流石は雷蔵の息子。心得ている。
生死の境へと追い立てられ尚も沸々と滾る武門の血こそ義王天狼の本性だった。
彼は敵に背を向けて決闘開始の場まで引き下がる。己の背後を斬れるものなら斬ってみろ、と言わんばかりだった。
一方の九怨春歌は凄艶な笑みを浮かべながら義王の背を見送る。もしも、彼が一片の迷いなど見せようものならすぐに両断する心構えだった。
九怨春歌は遅れて地面に大小の得物を置いてから開始場所まで歩いて行った。
「九怨湖上流に二刀を操る奥義があったとは知らなかったぞ。九怨春歌」
「僕の親父はこういうのが大嫌いでしてね。これは親父への嫌がらせですよ」
義王は返答せずに鼻で笑って返した。このような場所に大小を持ち込むのだから、こちらを失望させるような腕前ではあるまい。義王は既に決闘の準備を終えていた。
対して九怨春歌も自分の武器から十分に離れた場所まで移動している。そもそもこの戦いに開始の合図など存在しない。準備が終わった後が決闘のはじまりなのだから。
義王は一呼吸置いてから、神渡りの歩法で愛刀のもとに向かう。
この歩法は人間の正しい姿勢は横たわった状態にあるものとして認識し、逆に背骨を反らせて立ち上がっている状態こそが不自然なものであると認識するところから始まる。
つまり不自然な状態から自然な状態に移行することで目的の場所まで無理なく進むことが神渡りと呼ばれる歩行術の奥義なのだ。
一見すると屈みながら前に向かって摺り足で前に進んでいるような感じだろうか。
対して九怨春歌は円周という九怨湖上流独特の歩法で中央に置いて来た自分の武器のもとに向かった。
円周は神渡りから派生した歩行術で直進するのではなく、半月形をなぞるようにして進むことにより摺り足の速度と距離を得るというものである。
傍目には遠回りをしているようにも見えるが軌道を変化させ加速している為に相手の行動に対して遅れを取ることなく対応できる強みを持つ。
この円周は、直進するだけの神渡りと比べて徒手を用いた技への派生を可能とする為に甲乙つけがたい評価を得ている。
九怨春歌、義王天狼の両者はほぼ同時に己が武器を手に取ることに成功する。いや、熟練の神渡りを使った義王の方がやや早く到着した。さ
らに義王は体内で練成した天夢剣で春歌の意識を刈り取り、うつつの真剣で彼の首を刎ねるつもりだった。
誓って断言しよう。少なくともここまでの義王に落ち度はなかったのだ。
だが、次の瞬間に斬首されたのは先に辿り着いたはずの義王天狼だった。
九怨春歌は手に持った大小の小さい方で義王の首を刎ねたのだ。だが、九怨春歌も無傷のままではなかった。左肩を斬られて血を流している。
「流石は義王先生。勇治や親父ですら触れることさえ出来なかったのに、僕にしっかり傷を負わせてくれた」
九
怨春歌は至福の表情で、肩の傷を愛おしそうに抑える。
やがて二人の決闘を見守っていた獏が春歌の前にやって来た。何かしら不満のありそうな顔をしている。
当初の予定とは違う段取りで話をつけるつもりだったのだろうか。
「九怨春歌よ、義王天狼を殺してどうする。不老長生を餌に仲間に引き込むつもりではなかったのか」
「ああ、御免。今日は何故かミヤモトムサシの気分を味わいたくてさ。でも、問題ないだろう。鳳凰の魂を彼の死体に入れてしまえば、これからは何度だって復活できるし」
九怨春歌は童女のような微笑を浮かべる。
それはまるで獏の反応を楽しんでいるかのようのに見えた。だが、当の獏は不快さを隠さないままでいる。
これでまた当初の計画に大きな遅れが生じたと言わんばかりだった。
「復活、復活と気軽に言うな。土台、現世における魂の総量は常に一定の数しか存在することが出来ないのだ。故に十分な空き容量を準備した状態で、これらを別世界に転生させる必要性が生じる。ついこの間に説明したはずだが」
獏が考えていた最初の計画とは、義王を説得した上で彼を生きたまま新しい肉体に生まれ変わらせた後に別世界に送り込むというものだった。
本当なら幻術で精神を支配し、そのまま全てを譲渡させれば何ら問題はないはずだったのだが生きた人間のそれも転生者としての資格を有する者たちには有効な手段ではないらしい。
その時の獏は、つくづく人間とは非合理な存在だと思った。
仮初とはいえ不老長生を受け入れれば人間の大半は望むものを思うがままに手に入れられるというのに。
「獏は人間というものを本当にわかっていないな。何で成仏なんて言葉があると思っているのさ」
「それは死後の世界があると思いたいからではないのか?」
「やっぱり全然駄目だね。そんなんじゃ、いつまで経っても妖魔の王を復活させることなんて出来やしないよ。いいかい、獏。人間の幸福にはこの世には決して望んでも届かない何かがあるということを実感する時に得られるものも存在するのだよ。特に義王先生はそういうタイプの人間さ。君の言うような不老長生なんて彼は絶対に望まない。彼は夢見がちな甘党じゃないんだよ」
義王は首を落とされたのにも関わらず、九怨春歌と獏のこういった身勝手なやり取りを聞かされたような気がした。
それは孫ほどの年齢差の若者に負けた老人の屈折した執念が起こした奇跡なのかは、未だによくわからない。その時は死んだ義王の耳元でがやがやとされながら次第に意識を失っていることだけを認知していた。
やがて義王は見知らぬ部屋の中で意識を取り戻す。
九怨春歌との決闘に敗北してからどれほどの時間が経過したのかもわからない状態だった。
「ようやく目を覚ましたか。義王天狼。なかなか骨が折れたぞ」
死から覚醒したばかりの義王の前に現れたのは獏と名乗る男だった。
彼の格好は前に見た時と何ら変わりない。もしかすると自分が殺害されてからそれほどの時間が経過していないのかもしれない。
この大男は何か聞けば素直に真実を教えてくれるのだろうか。義王がそんなことを考えていると獏の方から話しかけてきた。渡りに舟とはこのことだろう。
「義王天狼。自分の身に何が起こったのか、どれくらい憶えている?」
「九怨春歌とお前が己の家に突然やって来て、決闘を持ちかけられた挙句に首を落とされたことくらいか」
「よかろう。それほど鮮明に記憶が残っているのなら今の自分の状態を把握することも難しくはなかろう」
獏に言われた後に義王は自分の体の状態を確認する。そうした直後に彼は自分の身の上に起こった奇跡を知ることになった。
彼の首は胴体と繋がっている。刀傷どころか痛みや筋違いといった不具合の一切が残っていなかった。次に彼を驚かせたのは老齢による肉体の不備が無くなっていたことだ。
そして、体を動かす度に感じていた鋭い痛みや重だるい感覚の一切は消え去り、彼の中には全盛期の鮮烈な勢いさえ取り戻されていたのである。この劇的な変化に驚くなという方が無理な話だった。
以前の義王ならば物を掴むだけで指先や肘に不意の痛みのようなものを感じていたが、今は何でも握り潰すことが出来そうなくらいに生命力が全身に満ち溢れている。
今すぐにでも立ち上がり、己の五体満足を確かめたい気分だった。
「これが不老長生というものか。悪くはないな。一応、礼は言っておくがこれほどの一大事とあっては無償の施しなどではあるまい。対価は何だ、言ってみろ」
義王の記憶の片隅にある不老長生なるものがもたらした結果がこれならば何かしらの代償を支払わなければならないのは当然だろう。
義理堅い性格の持ち主ではないつもりだが、知らずのうちに獏の為に何かをやってやらねばなるまいという気分になるほどの上機嫌ぶりだった。
無論、相応の警戒心が無かったというわけではない。
獏は会心の笑みで義王の様子を見守る。
義王に施した術が成功したことに達成感から来る歓喜を覚え、そして義王がこちらの動向に感心を示したことに充足感を覚えたのである。
「話が早くて助かるぞ、義王天狼。お前にはこれからいろいろと役割を演じてもらわねばならぬからな」
「その前に一つ聞いておきたい事がある。先程から己の胸の中で蠢いている物の正体について説明して欲しいのだ」
それは覚醒した義王の肉体の中心に顕現した違和感だった。ドクンドクンと鳴動するそれは今も心臓の近くで激しく脈を打っている。
たとえるなら生命力の塊のような物の存在を感じているのだ。それに加えてここまで動きが活発だと気にするなという方が無理がある。義王の復活に関する重大な秘密がここにあったとしても今は気にせずにはいられなかった。
もしかすると、今の義王は取り戻したばかりの若さを失いたくなかったのかもしれない。こういった以前には感じられなかった性急な側面も義王の中に若さが戻っている証拠だった。
「それは妖魔の魂だ。お前の中にあるそれが移して延命と復活の役割を果たしているのだ。安心しろ。定着すれば今ほどの違和感を覚えることもなくなる」
本来ならば妖魔という俄かには信じがたい存在の話でも、こうして一度実感してしまえばどうということはない。義王は自分の胸に手を当てて妖魔の魂なるものの存在を再確認する。
「なるほど。これが妖魔の魂というものか。それでこいつは何という名前のなのだ」
「鳳凰。名前くらいは知っていたか?」
日本においては輪廻転生、不死の象徴として知られる瑞鳥の類だったか。
いかんせん義王としても前世に何度か絵の題材として扱ったことがあるくらいなので、その程度の知識しか持ち得なかったのである。
「あまりくわしいわけではないが、たまに耳にする程度だ。それで獏とやら、己はここで何をすればいいのだ?包み隠さずに話してもらおう」
いかに義王天狼が剣の達人であろうとも今に限ってはただの人間にすぎない。いきなり未知の場所に放り出されたせいか、義王はいつもより多弁になっていた。
「そうだな。まずお前にはこの世界を救ってもらうつもりだ。九怨春歌の言葉を全て信用するつもりではないが、お前には英雄の資質なるものがあるらしいからな」
「待て。この世界とはどういうことだ。ここは二十一世紀の日本ではないのか」
義王が見たところ部屋の中だけの話だが別段に変わった様子はない。
それともここはどこかの他所の国なのだろうか。もしかするとここでいうところの世界とは何かのもののたとえなのかもしれないので、義王は獏の返答を待つことにした。
「この世界は第二世界と呼ばれているお前の生まれ育った第三世界から二百年ほど遅く時間が流れている。ある意味では別の世界だ。そして、この場所はお前のいうように日本という国であることには違いないが日本の独自の領土ではない」
義王はにわかに信じられぬという表情で獏の説明をおとなしく聞いてくれていた。そこから義王は獏に導かれるままに第二世界の住人たちと出会い、そして十数年という時間をかけて日本国独立に尽力するわけである。これが義王天狼の現在に繋がる過去の経緯であった。
トゥービーコンティニュー!