人外京 ②
構成を少し変えてみました。感想、お待ちしています。
天水は稲葉と共に何かがいるという場所まで歩いて行った。だが、天水の体力は限界に近く思うように進む事は出来なかった。稲葉は披露の極みにある天水の様子を確認しながらそこまで案内する。
しばらくして正道から大分それた獣道からいくつかの林を越えて二人は大きな藪の前に辿り着いた。こういった場所に不慣れな天水が入ればおそらく一人で脱出することは不可能だろう。
「この奥か」
「はい。さっき妙な音がしたので気になって入ってみたんですが」
出来る事なら藪の中に入る前に相談して欲しかった。天水は無意識のうちに渋面を作る。しかし、訓練を受けた柊たちの協力なくしては目的を達成する事は出来ないのだ。今のところ何か言われたわけではないが柊と稲葉以外の人間には天水は嫌われているのだ。天水は不満を口に出さないように注意しながら、稲葉の言葉を待った。
「鹿がいるんですよ、鹿。見たことがないくらい大きいのが。天水さんは何かご存知なんですか?」
実のところ天水は野生の鹿というものを見たことが無かった。しかし、稲葉の言う大きな鹿には心当たりがあった。おそらくその大きな鹿は誰かが放った監視役に違いあるまい。天水は悪い予感の答えを合わせをするために、稲葉にいつくかの質問をした。
「稲葉。その大きな鹿はどうだった。大きさ以外、何か特徴があったか」
稲葉は質問を受けてから、考える素振りを見せた。それから少し時間が経過して何かを思い出したらしい。実直に答えてくれた。
「普通の獣なら、こんな大きな銃を持って近づいたらすぐにでも逃げてしまうんですけどね。あの時、俺は止めたんですけど、安田のヤツがどうしても一目見たいって近くまで見に行ってしまったんですよ。いつもあんな怖い顔をしてますけど安田は大の動物好きでしてね」
普段はしかめっ面の猿みたいな安田の顔を思い出しながら、彼のらしからぬ行為に苛立つ天水だった。しかし、今は問題の張本人である安田は不在なのだ。複雑な事情からここに来るまでの間に天水の素性を語ることが出来なかったのも、こうなってしまった一因である。ただでさえも他の隊員から嫌われている自分の案内役を自分から志願してくれた稲葉を叱るわけにもいかない。そんな天水の不機嫌そうな様子に気がついた稲葉は反射的に頭を下げて謝罪する。黙り込んでしまった天水の様子を見た稲葉は苦笑しながら報告を続けた。
「私は鹿という動物に詳しいわけではありませんが、あの鹿は規格外といっても過言ではないほどの大物でしたよ。まあ、安田を一人だけで行かせるわけにもいかなかったので結局は一緒に行ったのですが、鹿は全く動じなかったんですよ。いや、別に頭を撫でたとかそういうわけじゃないんですがね。当時は向こうから見えるか見えないかという距離だったと思いますが。でも、変でしょう?普通の野生動物なら、あの距離まで接近されたら何かしら反応するはずなのに」
稲葉の会話の中にはいくつか天水の頭が痛くなるような部分があったが、決して聞き逃せないものも確かに存在した。果たして人間の接近を意に介さない野生動物が存在するのだろうか。安田や稲葉は交戦を想定した重装備というわけではないが、それなりの装備で行軍に参加している。普通の鹿ならば彼らの作り出す不自然な音を聞けば、すぐにその場から逃げ出すかあるいは警戒する様子を見せたはずである。
さらに安田が動物が好きというなら、恣意的に外来者との接触を避けるという野生動物の反応からある程度の対応を知ることもできただろう。
稲葉から教えられた情報から巨大な鹿は生物ではない、という結論に達した。そこで天水は事実の最終確認という意味合いから、稲葉を連れてさらに鹿の近くまで歩いてい行くことにした。
天水の考えでは鹿は所謂生きた動物ではない。何かしらの術によって作られた虚像だろうと考えていた。しかし、万が一ということもあるので稲葉には十分注意をするように言っておいた。真意を全て打ち明けたわけではないが稲葉も天水の話を聞いて納得してくれた様子で、出来る限り音を出さないようにして鹿のすぐ近くまで案内してくれた。
「こっちです。天水さん」
「ああ。わかった」
先行して林の中に入った稲葉が天水を小声で呼んだ。天水も稲葉を見習って出来るだけ音を出さないように林の中を小走りで進んだ。山歩きに不慣れな天水の為に稲葉が通り道にあった邪魔な木の枝を除けてくれたので、天水は容易にその場所まで行く事が出来た。
稲葉は木々の間に開けれれた覗き窓のような場所を指差す。天水はそこから林の外側の様子を探る。
その場所にはたしかに鹿がいた。それは天水のような野生動物に興味がない者でも、絵か写真で見たことがあるような白毛の臀部を除いてほぼ全身が茶色い毛に覆われた典型的なニホンジカだった。季節のせいか体にはわずかに白い天のような模様が残っている。
だが、それはいかんせん鹿と呼ぶには大きすぎた。この国に生息しているニホンジカという動物は体格が大きいものでも二メートルは越えたりしないのだ。大きくてせいぜい175か、180センチメートルくらいのものだろう。だが、天水と稲葉の目の前にいるこれは少なくとも三メートル以上はありそうだ。林に生えている木より背の高い動物にお目にかかる機会など滅多に無い。天水は鹿の姿をしばらく観察すると稲葉に、柊たちのいる場所にまで戻るように指示した。
「戻るぞ、稲葉。大方の事情は察した。柊たちのところまで案内してくれ」
林の外の様子を探り終えた天水は納得が行ったという様子だった。おそらく天水という男は大きな鹿の正体に勘付いたのだろう。この場で稲葉が鹿の正体を尋ねれば彼は快く鹿の正体を教えてくれるだろう。しかし、それは隊長である柊の役目であって、自分の役目ではない。今はおとなしく彼の指示に従い、柊たちのところへ帰ることにしよう。
稲葉は、どんな状況でもあくまで組織の一員であることを忘れない軍人気質な性格の持ち主だった。
「わかりました。こちらへどうぞ」
見るからに頼りない天水の様子を常に気にかけながら二人は、柊たちの待つ場所まで戻って行った。
「先輩、お疲れ様です。天水さんも、お怪我はありませんか」
合流地点で二人を出迎えたのは佐久間だった。他の隊員たちは汗を拭いたり、水で口を漱いだりして小休憩をとっていた。おそらく佐久間は休みを返上して二人の帰還を待っていたのだろう。
「俺のことはいいよ。それよりも佐久間君、君も少し休んだほうがいいのではないか。ここでずっと待っていてくれたのだろう」
「お気遣いありがとうございます、天水さん。ですがお気遣いは無用です。今は一刻も早く山頂に向かうべき時ではありませんか。私は隊長や他の先輩方のお役に立てるならどんな小さな仕事でも引き受けるつもりです」




