始まりはお約束的展開で
本作の主人公、降旗 錦の朝は小鳥の囀りによって爽やかに始まった。
しかしそんな爽やかさも目覚めて数秒で淀んでいく。
まず目がぼやけて何ともファンシーな世界が見える。それに頭がガンガンする。朝からこれかと降旗は頭を掻く。
そういえば昨日は酒を飲んだけどその後遺症かも、そこまで思い出して彼の気持ちがどんどん沈んでいった。
そういえば清楚系ビッチに痴漢扱いされたんだったな。そんな記憶の断片が彼の記憶をどんどん呼び覚ましていく。
思い返せばひどい話だ。
たしかにそいつは可愛かった。ふわふわとした白いワンピースを着て、腰ほどまである黒髪は電車が揺れる度いい匂いを漂わせ、そのくせお姉さんオーラを醸し出して、正直年上好きの降旗の好みだった。
しかし電車から降りる際、その美女に突然手を掴んだかと思えばニコニコしながら「お前痴漢だろ。私についてこい」と言ったのだ。
抵抗はした、だが彼女の力が尋常じゃなく強かったせいでそのままズルズルとホームを引き摺られていった。
以上、降旗の回想終わり。
ホームを引き摺られていたあたりで記憶が途切れているのだが、どうせここは警察署か何かだろうと彼は諦めたように笑う。
しかし今日び犯人の待遇は意外と厚いものだなと彼は目が見えないなりに感じる。
腰痛持ちの降旗にとってまずベッドという時点でありがたかった。腰痛持ちは敷布団だと立つのも一苦労なのだ。
それにふかふかの掛け布団だ。
春先は夜が冷えるのだがそんな優しい仕様のおかげで快眠ができた。
おかげに何やら美味しそうな匂いが部屋中を漂っている。
これだけの待遇ならホームレスが再犯しまくるのも分かるかも、そんなことをぼんやり考えてた時何処かから女性の声が聞こえる。
「降旗、朝ご飯が出来たぞ」
「あっ、はい、ちょっと待っててください」
ボヤけた目をゴシゴシと擦って視界を取り戻し、彼はそこで異変に気付く。
ここ、拘置所じゃなくないか?
目覚めた目をフルに使い部屋を見渡すと黒を基調とした内装が伺えた。
しかしアクセントとして白を取り入れているため部屋の雰囲気は暗くない。
先程の声からしてここはその女性の寝室と考えて間違いはないだろう。
よく寝室をピンク色で統一する頭までファンシーな女がいるがこの部屋の主からは「デキる女」的ないい感じのオーラが感じ取れる。
いい感じではあるが一体ここは何処なのだろうか。
彼がそこまで考えていると先程の声ともに部屋の扉が開かれた。
「二度寝しちゃったのか降旗?」
扉の方を向くと、そこにいたのは昨日の清楚系糞ビッチだった。
(おかしい、なんで俺の目の前であのビッチがご飯を食べてるんだ?てかなんで俺の名字を知ってるんだ?てかここは何処なんだ?てか昨日あの後何があったんだ?てかてかしか言ってなくないか?)
こんな感じで朝食を食べる降旗の頭はスパークしていた。
顔色を伺うと相変わらずニコニコしていやがる。ちょっと顔が紅いのは気のせいだろう、いや気のせいだ、彼は自分に言い聞かせる。
「私は料理には自信があったんだが…もしかして口に合わなかったか?」
「えっ、いや、そういうことじゃなくて、ですね………」
不意に飛んできた質問に狼狽える。その言葉の先を言うべきか、言わないべきか 、そんなことを考えていると向かいの女性の顔がみるみる不機嫌になっていく。
「マズイならマズイとはっきり言えよ」
「いや美味しいですよ、そうでなくてですね」
降旗は深呼吸を一つすると覚悟を決める。
「あのー…貴女のお名前を伺ってもよろしい、でしょうか?」
「なんだそんなことか」
HAHAHAとアメリカンな笑いを女は飛ばす。
だがその目が全く笑っていないことに彼は気づいていた。
「私の名前は定兼 珠希だ。昨日のこと覚えてないのか?」
「全くと言っていいほど覚えてないので教えて下さい、えーっと…………定兼さん」
「珠希でいい。昨日もそう呼んでただろ」
昨日というフレーズが一々引っかかるが一応そう呼び直した。
珠希は呼びかけに頷き答える。
「昨日電車でからかってたら気絶したのは覚えているな?」
「からかったって……あの痴漢騒ぎのことですか?からかったってレベルじゃないでしょ!」
「まああの時は私も仕事終わりで超酔ってたし、酔っ払いが酔っ払いを連れてったところで駅長は何もしてくれないぞ」
こいつも酔ってたのかと降旗は頭を抱える。そういえば昨日と違い職場の女上司的オーラが出ている。まあ彼は大学生だから本物の女上司なぞ知らないのだが。
「まあそんなこんなで家に持ち帰って、なんやかんやで極限まで酔わせて、後はそのままだよ」
「そのまま?最後何があったんです?」
「そりゃあ………な?」
「な?じゃなくてそのまま、どうしたんですか?まさかとは思いますけど…………ねえ、目を逸らさないで答えて下さいよ」
そう言う降旗の顔はどんどん茹で上がっていく。
向かいに座る珠希も目線を外したまま反論する。
「でも降旗だって昨日は乗り気だっただろ。『タマキサーンタマキサーン』って私の上で可愛く鳴いてたじゃないか」
「よーしこの話はもうやめましょう」
降旗は一方的に会話を中断し真っ赤に染まった頭を抱えた。
珠希はそんな彼を鼻で笑いさっさと食器を片付け始める。
「あの、俺はこの辺でお暇させてもらってもよろしいでしょうか」
降旗はキッチンへと食器を持って行くついでにそんなことを珠希に尋ねる。
「んあー、そうだな…降旗も大学生だったな。今日は暇か?」
「そりゃまあ今は春休みなんで………忙しいですね」
「そうか暇か」
「いえ、忙しいです、忙しくなると思います」
「今ならまだ間に合うぞ。本当は暇だよな?」
珠希に問いただされついに降旗は観念する。
ガタガタと体を震わせる彼を見て珠希は苦笑する。
「そう緊張するな、ちょっとだけ手伝って欲しいことがあるだけだよ」
「手伝って欲しいこと?痴漢冤罪の手助けなんて嫌ですよ」
「もうその事は忘れろ。とりあえず着いてこい」
降旗は彼女の言われるがまま寝室とは違う部屋へと入っていく。
彼は中に入るなり顔を驚愕の表情で染める。
「珠希さん、これは一体……」
部屋の中央には巨大な水銀のような液体が重力を無視して浮いていた。
その水銀は時折色を変えながら二人を歪めて映し出す。
明らかにビビっている降旗の後ろで珠希は笑う。
「それはな、何といえばいいか………まあ触ってみりゃ分かるよ」
「そんなの嫌に決まってるじゃないですか。ちゃんとした説明を要求します」
降旗の言葉に珠希はいかにも面倒臭いといった感じで頭を掻いた。
「これに触るとこの世界とは別の世界に飛べるんだ」
突然意味不明な答えが飛んできて降旗の頭はフリーズした。
そんな姿を見て彼女は助け舟を出す。
「やはり最初から説明した方がいいか…時に降旗、ドラマやアニメなんかで良くある『お約束的展開』はどう思う?」
「『お約束的展開』?例えばどういったものですか」
「そうだな、女キャラが『チ○ポなんかに絶対に負けない!』なんて言ってたら絶対負けるだろ?そんな感じだ」
「女性としては最低の例えですね。まあいいとは思いますが続けてやられたりするとマンネリ化しますよね」
「そうだよな。これはそんな『お約束的展開』をぶち壊すために作られた世界を移動できるワープ装置みたいなものだ」
「ん?ちょっと意味が分からないんですけど」
だから説明は嫌だったんだと珠希はため息をつく。しかし彼女は面倒見がいい。こういった物分りの悪い人間は嫌いではない。
「つまりな、これは色々な世界に飛ぶための装置で、私には『お約束的展開』を壊すという任務があるんだ」
「そこは分かってます。そうじゃなくて、その水銀みたいな奴はどうやって作ったんですか?」
「…………そこは聞かないのがお約束だろ」
「さっきは『お約束的展開』をぶち壊すとか言ってたくせに酷いですね。てか仕組みはどうなってるんです?」
「それなら答えられるぞ。降旗は多元宇宙論というのを」
「分かりました、もう仕組みのことは聞きませんから、とりあえず何を手伝えばいいんですか」
物分りのいい子は好きだと珠希は前に立つ降旗の肩を叩いた。
珠希はそのまま無防備な降旗を水銀めがけて思いっきり突き飛ばす。
「えっあっちょっと!心の準備がまだ!」
そんな断末魔とともに降旗は水銀の中へと吸い込まれていく。
この急過ぎる展開は『お約束的展開』なんじゃないかな、彼の脳裏にはそんなことが浮かんでいた。