3.アクィス
ルトが借りた宿の部屋は、もともと自分が一人で泊まる為のものなのでベッドは一つしかない。そのたった一つしかないベッドに腰掛けたまま、翠色の少女は微笑みを浮かべて後ろ手に扉を閉めるルトを見つめていた。
淡い翠色の髪は長く、腰かけているベッドに裾が広がるほどに。立ち上がれば尻を覆い尽くすほどの長さはあるだろう。包帯に覆われていない髪と同じ淡い翠色の左目は微笑の形に柔らかく細められ、その輝きは温かみと同時に理知的な印象を抱かせるほどに深い。微笑を止めれば、それは竜の瞳の様な鋭さを感じさせる事だろう。両の耳の上あたりから後ろへと向けて伸びるのは濃い翠色の角。左腕は全てが包帯に覆われているものの、右手の甲や両の素足に見える鱗の色も輝くような翠の色。
外見から見て取れる年の頃は十代半ばくらいか。衣服を押し上げる膨らみは平均よりは大きいだろうが、しかし、目を引くほどに大きいという程ではない。
痛々しくも体の各所に巻かれた包帯の下に覗く身体特徴は、彼女が竜人であると示している。だが、彼女をこの宿へと運びこんできたルトは知っている。彼女が竜人ではない、という事を。
「如何なされた、主殿。墓場で花嫁でも見たような奇怪な顔をして」
「……いきなり主、なんて呼ばれたら誰だってこんな顔になるだろうよ」
微笑を心底からの不思議そうな表情へと変えて首を傾げる翠の少女に、ルトは額に手を当てて溜息を吐く。そんな様子を見て少女はおかしそうにくすくすと笑う声をこぼし、その笑いの余韻を引きずったままの瞳で座ったままに立っているルトの顔を再び見上げた。
「主殿、貴殿は確かに竜に勝ったのだ。ならば、財宝の一つも渡さないでいては竜の沽券にかかわるというものなのだよ。古来より、竜に打ち勝った勇者は財宝を得るものなのだから」
「……で、その財宝が君、という事か? 俺としては金銀財宝の方がありがたいんだけど」
「だが、私を持って帰るという選択をしたのは主殿だろう? よもや、一度持って帰っておきながら、やっぱり要らぬ、と傷ついた少女を魔物が潜む森や荒れ地に放り出すつもりか?」
返された言葉にすらも何処か楽しげな様子を見せて少女は応えを返し、ルトを黙らせてのける。その様子屋言葉は老獪さを宿しており、何処か幼さすら感じさせる外見との間に違和感を生じさせていた。
今ルトの目の前にいる少女は、昨日ルトと死闘を演じた竜そのものである。魔に犯され変質していた筈の瞳の色だったが、戦闘後には戻っている事に気づいたルトは竜に止めを刺す事を拒み、町に連れ帰る選択をしたのだ。
そんなルトの様子に呆れを見せながらも、しかし、如何に暴走していたとはいえ結果として敗北したことを認めた竜は、町の騒ぎにならぬようにと人へとその姿を変じさせた。その結果が目の前の少女である。
竜の時に受けた傷は人の姿へと変わってもそのままであり、かつ、姿を変えた竜は一糸まとわぬ姿であった。その為ルトは大慌てで少女に付いた傷に応急手当てを行い、そのついでとばかりに裸体を包帯で隠して宿まで運び込んだ。今現在も少女が身に付けているのはルトの上着だけであり、白い素肌と其処に映える鱗を晒す足がベッドから降ろされている。
意識して視線を少女の顔に固定するルト。そして、少女はルトが意識してそうしている事を解っているのだろう、また、くす、と笑えば降ろしていた下肢を隠すように、ベッドの中に戻した。
「どうやら、主殿は見た目に比べ初心の様子。平人でその歳にもなれば経験の一つや二つあるものだと聞くが」
「そういう訳にもいかない理由があるんだよ、こっちにも。その関係で君と戦闘訓練を行ってもらいたかったんだから。……えぇと」
「ん? ……あぁ、出会う前から魔に犯されていた故、名乗ってすらいなかったか。これは失礼した。我が名はアクィス、“風”のアクィスと呼ばれておるよ。もっとも、人間たちには翠竜、という名の方が通りがいいようであるが」
「……称号付き? 竜にも称号とか、二つ名のようなのがあるのか?」
「いや、これは称号ではないよ。名乗りの際に己の属性を明かすことで、敵意がないことを示しているだけだ」
からかうような語調が、ルトの迷う様子を受けてすぐに真剣なものへと変わり。頭を下げながらの名乗り。浮かんだ疑問を問いかければ、顔を上げた少女は肩をすくめて何でもないように言葉を返す。
正直、やりづらい。それがルトの本心である。
外見こそ年下の少女のようであるのに、年を経ることで得られる落ち着きと洞察を備え、それを悪戯にも、真摯な態度にも利用してみせている。相手は自分よりも一枚も二枚も上手であるという事をルトは諦観と共に受け入れることにした。
「……なんで俺、あの時に絶対に連れ帰る、なんて言いだしたんだろうなぁ……」
「おや、主殿は私を連れ帰った事を後悔している様子かな?」
「……今この瞬間後悔してない、とは言えないな。っても、見捨てる方がもっと公開したって事も解ってるんだが」
肩を竦めて見せるルトに、アクィスは瞳を僅かに細めた。後悔を認めたことへの失望ではなく、それ以上に見捨てることに忌避感を見せた彼への興味から。
そんな彼女の様子に気づいた様子を見せず、ルトは言葉を重ねる。
「で、見た感じ包帯に血は滲んでいないようだけれど、傷はどうなっているんだ?」
「そうさな、人間でいえばかさぶたが張った状態、という所か。出血は止まっているものの、新しい皮はまだ張られてはおらん。鱗や眼の修復にかかる時間を考えれば……そうさな、一月ほどもあれば完治するだろう。それまでの間、財宝は私、という事で勘弁してもらえないか」
「……まぁ、いいけどさ。その傷を作った人間としちゃ、やっぱりそんな状態で帰れ、なんて言えないし。でも、出血が止まっているのならもう包帯を巻かなくてもいいんじゃないか?」
「主殿は女心というモノを学ぶ必要があるな」
ルトは思ったことをそのまま言葉に乗せたのだが、対して帰ってきたのは左の瞳による冷たい視線と呆れたような声だった。言葉よりもその態度に苛立ちを感じ眉を寄せれば、アクィスは肩をすくめて見せてから言葉を付け足す。
「それが消えぬものであれば致し方もなかろうが、そのうち消える傷を見せたがる女がいるとでも?」
「あぁ……それもそうだよな。すまん、さすがにちょっと無神経すぎた」
「素直に謝罪をして頂いた事だ、どの方向に無神経だったのか、ということの追及はやめておくとしようか」
「……そうしてくれると助かる」
素直な謝罪に機嫌を直したらしいアクィスは、けれどしっかりと釘を刺しておくことも忘れはしない。
無神経だったのは確かだが、その無神経さは少女に対し傷をさらけ出せということだったのか、あるいは目の前の元竜である少女を女性認識していなかったことなのか。追及され無かった故にルトがどちらについて謝ったのかは不明となる。
助かった、というように安堵の息を吐くルトをおかしそうに眺めていた少女だが、さて、と零してベッドの上で居住まいを正す。その様子に疑問を表情に浮かべるルトへと、そのまま深く頭を下げ。
「貴殿の御蔭で魔に堕ちる事も、この命を散らすこともなく生き長らえることができた事に感謝を。そして、礼が遅れたことに謝罪を」
「……あぁ、うん、別に感謝されたくてやったことじゃない。それに、別に君を思って助けようとしたわけじゃない。元々、竜との戦闘経験を積むためにお願いしに行こうって思ってたんだし」
「貴殿がどのような理由で私を助けたかは知らぬが、しかし、助けられたという事実があるのであれば礼を言うに足りているだろう。だが、いやはや、主殿との語らいがこうも楽しくなるとは思いもしなんだでな」
御蔭で礼が遅れ、礼を失してしまったな。そう零しながらアクィスが浮かべた苦笑に、ルトは困ったように頬を掻く。
少女が浮かべる表情にもどことなく外見不相応な、年を重ねたような落ち着きと見守るような慈愛を感じられ、自分がやんちゃ坊主であると自覚のあるルトにはどうにも居心地が悪い。
そして、その居心地の悪さも見抜いているのであろう少女は、苦笑の表情を真剣なものへ変えてルトを見上げる。
「しかし主殿、いくら禁止されてはいないとはいえ、自衛以外の理由でハンターが魔物以外と戦うのは集会所からはいい顔はされぬと思うのだが」
「……まぁな。ってか、何気にこっちの事情に詳しいな」
「情報が知りたければ風を操るものに問え、と言うであろう? 風を聞けば幾らでも知ることは出来るのだよ。もっとも、真偽に関しては判断しきれぬことも多いがな」
風を用いることが出来れば、人々の口に上る噂話やちょっとした内緒話程度ならかきあつめ、耳にすることができる。
竜として風の属性を持つアクィスは、それを国全体に対して行い、情報を集めているのである。ただし、価値を選んで情報を集める事は出来ない。その情報の価値を見抜けるかどうかは、聞いたものが判断するしかない。
「なら、どの程度把握できているのか確認してみようか?」
「現役ハンターに教えて頂けるならば、有難いな」
ここに至るまでの会話において、翻弄されることが多かったルトはようやく優位に立てるかもしれないと、情報のすり合わせの提案を行い。
そんなルトの心情など読めてしまっているアクィスは、しかし、それを隠すように純粋に嬉しそうに笑って見せた。
* * *
魔物を狩る魔狩人。“ハンター”とは、称号であり、同時に職業でもある。
各国の主要な街にあるハンターの集会所にて申請して試験を受け、一定の成果を出すことで“中央”からハンターとして認められる。その際に、身分証となるハンターの証が刻まれた装身具を受け取る事となる。
証が刻まれた装身具の形状はハンター達の自由となっている。腕輪や首飾り、指輪等の行動を阻害しないものが選ばれることが多いが、人によってはマフラーやマントと言ったものを選ぶ者もいるらしい。
こうしてハンターとしての証を与えられたものは、大抵の国において出入りが自由となる。流石に戦争中の国があった場合にはその国の間を行きかうことは出来ないが、それも他国を経由すれば移動することは可能であるらしい。
そして、“中央”がハンターに義務として求めるものは、魔物を狩る事だけだ。魔物を狩りさえすれば生活ができるよう、魔物を狩る事で入手できる魔晶石は一定以上の額で取引されるようになっている。
基本的に買い取りは集会所で行われている。が、ハンターでなくとも持ち込めば買取って貰え、また、魔晶石は魔力の結晶体と言う事もあり利用法は多岐にわたる事もあって、集会所の無い街でも買取はほぼ必ず行われている。魔晶石の利用法については集会所が意図的に広めている事もあって、首都から離れた村でも一定の需要はある様になっている。
魔物を狩ってさえいれば、ハンターの行動自体は自由だ。法に背き犯罪を犯すことが許されるわけではないが、別に傭兵として戦争に参加したり、あるいはどこぞの国で闘技場に参加したりしても、集会所や“中央”が止めることはない。
ただ、国を自在に行き来できるという特性上から各国について何らかの情報を得た場合、得た情報を他の国に売り払ったりする事だけは禁じられている。もしこの禁を破ったなら、たとえどんなに注意し密かに行ったとしても“中央”から各集会所に手配書が回される事になる。そうなってしまえばそのハンターは狩る側から狩られる側へとまわる事になるのだ。
なお“中央”と呼ばれるハンターの上位組織は、その存在を集会所へ下される認可や手配書という形でしか確認は出来ない。実在を疑われている謎の組織ではあるが、ハンターとして禁を破らぬ限りは何の影響も無い為か、其処まで気にされてはいないようだ。
* * *
「そして、魔物以外との戦闘を集会所が好まない理由は、魔物は全ての生物の敵であると言えるが故。竜も、虎も、狼も、どのような獣も魔物を狩るハンターとなりうるが為、と。まぁ、私が知っているのはこの程度だな。で、主殿、どうしてそのように陸にあげられた魚のような顔をしているのか」
とうとうと語り終えたアクィスの問いかけに、ベッドの対面の壁に背を預ける様にして床に座っていたルトががっくりと肩を落とす。アクィスの語る情報はルトの知識ではツッコミを入れられるところはなく、優位に立てるかもという目論見は見事に裏切られてしまったのである。
「アクィス、お前、なんでそんな詳しいのさ……?」
「組織とは、ある程度の理不尽さはあれど合理的でなければ成り立たぬもの故な。風が集めた情報の中で一定以上重複するものを真実とみなし、それを合理的に繋いでいけばこのような情報が組みあがる」
「その場合、“中央”なんて謎の組織は否定するべきだと思うんだが」
「謎ではあるが、存在するとする方が話が通るでな。私はある、と想定することにした」
何とかツッコミ所は無いか、と零した言葉にもさらりと回答を返される。降参、というようにルトは両手を挙げて見せてから、がっくりと肩を落とした。零した溜息はあまりにも勝算の無いこの状況を嘆いてのモノだろう。
しばしどこか満足げにルトの様子を眺めていたアクィスだが、咳払いを一つ。ルトと自分の意識を引き締め直す。
「先ほども述べたように、集会所としてはハンターが竜と争う事を止めはしないが好みもしない。しかし、主殿はそれでも竜に挑もうとしたという。何故か、と問うてもいいだろうか?」
「……わざわざ聞くという事は、ただの憧れから、なんて言っても信じはしないって事だよな」
「礼を失する行為ではあるが、先ほど、下の酒場で話していた内容も聞こえていたのでな。主殿はもとより竜と戦う事、それも一人で戦う事を目標としていたと聞く。竜狩りを夢とするものは多い。しかし、それを一人でとなると狂気の沙汰としか言いようが無いのは、主殿も認めるところだろう?」
告げられる言葉に、ルトは返す言葉を持たない。アクィスのいう事は正しい。竜狩りを夢とするものは確かに多いが、それを一人でやろうなどと言っていられるのはせいぜいが子供の内だけだ。成長し、一度でも戦闘を経験すればそれが夢物語に過ぎないという事を、嫌でも突きつけられることになる。
魔物の中でも最下級と言われている小鬼ですらも、心得の無い大人程度ならばあっさりと殺してのけるのである。そして、竜はそんな魔物の中でも上位のモノを狩ってのけるような種族なのだ。
「そして主殿はそれを狂気の沙汰と認めながら、それでも一人での竜狩りを本気で為す事を目標としている。狙われる竜としては興味を抱くな、という方が無理な注文だと思うのだが」
「……一応、アクィスみたいに理性のある竜を狩ろう、なんて思っちゃないぞ? 俺はハンターだし、狩るならあくまでも魔に堕ちた竜だけだ」
「主殿、それはなおのこと難しいと理解しているか? 私は魔に堕ちかけの状態であったが故に、大した行動をとる事も出来なかった。だが、完全に堕ちたものであれば元の竜の能力を万全に使用できる上に、魔物へと変生した事で得た能力すらも使えるのだぞ?」
堕ちかけていた状態のアクィスは翼で空を飛ぶという事を行わなかったし、また、本来であれば扱えるはずの風を操る事はしなかった。魔化による浸食に抵抗しようとする意志が存在したため、理性を失ったように暴れる事しかできなかったのである。
そんなアクィスを相手にしてルトは死闘を演じる事となったのだ。完全に魔に堕ち切り、全力を出すことが出来る竜を相手にして勝つことが出来るのかどうか。
問いかけと言うよりは詰問に近い口調と瞳をルトに向けるアクィス。その様子は先ほどの自分を心配してくれていた二人の少女を思わせて、ルトは少しだけ表情を綻ばせた。そんな状況ではないとわかっていても、そして、その心配に良い返事を返せないとしても、それでも心配してくれるというのはやはり有難い事だから。
「……解ってるよ。それでも、俺は一人で竜に勝たなきゃ……違うな、一人で竜を狩れなきゃいけないんだ」
「何故に?」
短く返された言葉。先ほど問いかける事の許可を問うてきた事から、教えないと言えば退いてはくれるだろう。けれど、それは彼女の中に漫然とした不安を残す事になる。
今の彼女の状況から自分が彼女の保護者とならなければならないルトは、彼女の中に不安を残す事と全てを語る事を天秤にかけて。
「それが、誓約だからだ」
全てを語る事を選択した。