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Poison

 世界はその頃、その永い永い歴史の、『黄昏時』に足を踏み入れていた。

 もうすぐ── 夜が、やって来る。

 生き物が活動する昼間の時代から、時すらも止まったような夜の時代へ、ゆっくりと推移して行く。

 ひょっとしたら二度と明ける事のない夜に──。

 それはもはや避けられないこと。

 その訪れを拒む事も、阻む事も出来やしない。こんな小さな、人の手では。

 …こんなに時代の進む以前から、人はいつだって最終的には自然という力に勝てなかった。

 それは歴史書を紐解く必要すらない、不変の事実。

 それでも。


 …それでも、わたしは、沈まない太陽を夢見た。


+ + +


「…ママ、大丈夫?」


 ふと目を開くと、心配そうな娘の顔が見えた。

 部屋の中は薄暗い。どうやらもう夕暮れ時のようだ。


「お水、飲む?」


 すっかり身体の自由が利かなくなり、自室のベッドに寝たきりになって以来、娘は何処かで学んだ訳でもないのに、甲斐甲斐しくわたしの世話を焼いていた。

 ずっとベッドサイドで起きるのを待っていたのだろうか?


「…今、何時……?」


 れてひび割れた声。耳障りなのは、別に寝起きの為だけではない。

 もうわたしの身体の中身は、とっくに使い物にならなくなっているのだ。

 手も、足も、目も、耳も── 口も。

 食べ物を受けつけなくなって、もう数日。そういや、言葉を口にするのさえ随分久し振りな気がする。

 どうにか娘が口元に運んでくれる水を飲み込めるものの、その内、嚥下えんかする事も不可能になるだろう。

 ── それよりも、このかろうじて動いている心臓や、何とか思考している脳が機能を止めてしまうのが先かもしれない。

 …こんな状況なら、自身が医者でなくたって時間の問題だとわかる。

 そのせいだろうか?

 目を開く度に── 開く事が出来る度に、今が何月の何日の、何時なのかが気になるようになった。

 それはもしかすると、わたしが今までの十数年の医師生活で、数えきれない人間の臨終を看取ってきたせいかもしれない。


「えっとね…今、6時だよ。夕方の」


 娘は薄暗い部屋の隅にある時計を見つめながら律儀に答えてくれる。

 季節は、夏。昼間が長い時期の、遅い夕暮れ時。

 …それは、起きる直前まで見ていた夢を思い起こさずにはいられなかった。


「…まだ、太陽は沈んでいないのね……」

「うん、まだ明るいよ!」


 ぽつりと呟いた言葉に、娘は言葉以上に明るい口調で相槌を打つ。

 …その明るさに、胸が詰まる。

 この子は、わたしが死んだらどうなってしまうんだろう?

 埋葬だって出来ないだろう。大分痩せて軽くなっているとは思うけど、死人の身体は軽いようで意外と重い物だ。動かす事だって出来るかどうか。

 …ずっと、わたしが腐りその形を失って行くのを、今みたいに側で見て行くのだろうか?

 ── たった、一人で。


+ + +


 それは正に晴天の霹靂へきれきだった。

 原因不明の病気が、突如世界各地で発生したのだ。

 菌やウィルスによる感染にしては、あまりにも短期間且つ広範囲に広がったそれが、結局なんであったのか、そして何処で生まれたのか、もはや誰にもわからない。

 突然、ヒトの身体の機能が変調を来たしたのだ。

 他の動植物にはそのような異変は起こらず、ヒトという種のみで起こった椿事ちんじ

 …内臓が次々に機能を低下、あるいは停止し、最終的には壊死する。

 それが何処から始まるのかさえ、人によって異なった。

 ある人は心臓、ある人は胃、ある人は神経── そして、それは決まって激痛を伴う。中にはその苦しみに耐えきれずに、自ら命を絶つ者も少なくなかったという。

 そればかりか…その症状が出た者は、ほぼ100%の確率で生殖能力を失う事が後に判明した。

 その結果、まるでヒトという種族の寿命が切れたかのように、数年で世界人口は半分以下に落ち込んだ。

 更にその後数年でその半分、その次の一年で── 計測する事も不可能な程しか、人は生き残らなかった。

 …娘は、その病気が発生した翌年に生まれた。

 つまりぎりぎり間に合ったという事なのだろうが、今となっては果たして生まれて来た事が良かったのか悪かったのか、わたしにはわからない。

 娘が物心着く頃には、もう周辺に生きている人は一人もいなくなっていた。

 夫は娘が生まれた少し後に、やはりその病気でこの世を去っていて、それ以来ずっと二人きりだ。

 …娘は、わたし以外の人間を見た事がない。父親の顔すら知らないのだ。今にして、夫の写真を一枚でも残しておけばよかったと思う。

 何故全て処分してしまったかと言えば── そのいずれにも、何らかの形で『第三者』が映っているからだ。まだ、人が身近にあふれていた時代の記録。

 それを目にする事で、娘が外界を── 自分とわたし以外の人間を求めるようになる事が怖かったのだ。

 そして同時に、娘は『死』というものに接した事もない。

 死ねばそれで終わり── その程度の認識はあるようだが、おそらく免れる事のないわたしの『死』を目の当たりにした時、それは一体どんな影響を及ぼすのか……。

 孤独に、耐えられるだろうか。

 食料の調達だって出来はしない。備蓄はあっても、いつかは尽きる。

 迫りくる己の『死』を前に、この子は一人で立ち向かわねばならない。



 もしかしたら、この子は『最後の子供』かもしれないのだ。



 わたしの発病は、二年前の冬だった。

 全身を貫いた痛みに、わたしはついに来るべき時が来たのだと思った。

 幸か不幸か、わたしの場合、機能不能になった部位は命にすぐに影響する場所ではなかったので、それから今まで生き延びてきたけれど…多分、もうこれ以上は無理だろう。

 動けなくなる前に、わたしは何度か娘を殺そうとした。

 一人取り残されて幸せだろうか、と思ったのだ。

 もし世界に、娘の他に誰かが生きているのだと確証があったら、わたしはそこまで思い詰めずにいられたかもしれない。

 わたしが殺す力を持っている内に、『孤独』を知ってしまう前に、終わらせてあげる為にわたしは今まで生き延びたのではないか、とその時は半ば思いこんですらいた。

 …それを思い止まったのは、最後にそれを実行に移した際、娘が一瞬、呼吸を止めた時だった。

 ふと── 思い出したのだ。夫が最後に言い残した言葉を。


『叶うなら…この子には、こんな苦しみを知らずにいて欲しい……』


 彼は神経に変調を来たし、通常よりも強い苦痛の中で最後を迎えた。

 だからこそ、祈らずにいられなかったのだろう。

 誰だって、どんな生き物も、痛いのも苦しいのも嫌なはず。痛くて苦しかったりするからこそ…『死』を恐れる。

 もし、誰もが安楽な気持で最後を迎える事が出来るのなら、果たして医術はここまで進歩しただろうか?

 …わたしは、今までずっと、人の生命を救う仕事に誇りを抱いてはいなかっただろうか。

 なのに…一人残すのが可哀想だからという自分のエゴで、娘に『死の恐怖』と『苦痛』を与えようとした……娘の意志を、無視して。

 娘は首を締めるわたしに力いっぱい抗った。

 生きたい、と言葉にはしなくても全身で訴えた。


 …ならば…わたしに、いや誰であろうと、この小さな命を奪う権利なんて存在しない……。


+ + +


 黄昏時の薄闇の中、めっきり視力の弱くなったわたしの為に、照明をつけずに娘は口元に吸い飲みの吸い口を運ぶ。

 そしてほんの一垂らし、湿る程度の水を口に流し込んでくれた。


「…おいしい?」


 もう味も匂いもわからないけれど、わたしは頷いた。

 …予感が、した。


「…そこの…引き出しを、開けなさい……」

「え?」


 体が動かせないから、目でサイドテーブルを示すと、娘は虚を突かれた顔で目を丸くする。


「引き出し…これ?」


 瞬きで肯定すると、娘は不思議そうな顔のまま、その引き出しを開けた。

 そこに、わたしが娘にあげる最後のプレゼントが入っている。渡すなら、今しかなかった。

 もしまた目を閉じた時、果たして次も目を開く事が出来るか自信がなかったから──。


「そこに、ピルケースが…入ってるわね?」

「う、うん…いつもママが首に下げてたのだよね?」

「そう…それ、出してくれる……?」


 久し振りにちゃんと話しかけたからだろうか、娘は随分と緊張した様子で言葉に従う。

 取り出したペンダント型のピルケースは、薄闇で鈍く銀色に光った。

 その中には即効性の高い毒物が入っている。…安楽死用のもので、飲めば意識が薄れて、やがて眠るように死ねるという物だ。

 かの病気で生じる痛みには、どんな鎮痛剤もほとんど効かなかった。

 一つだけ痛みを抑えるものがあったものの、あまりに強い作用のせいで身体に負担がかかりすぎる上、二度は使えないもので。

 …つまり、結局人がその病の苦痛から逃れるには、『死』しか残されていなかった訳だ。

 そこで開発されたのが、この毒薬。開発が間に合った事自体、それが始めから決まっていた運命のようにわたしには思えてならない。

 安価で大量に生産されたその毒薬は世界中に広まり…人を苦痛から救う代わりに、その命を次々に奪って言った。人がこれほど早く減ったのは、病だけでなくこの毒薬のせいでもあるだろう。


「これが、どうしたの? ママ」

「もし…苦しくなったり、辛かったり…耐え切れないくらい、淋しくなったら……」


 願わくば。

 そんな事にならなければいいと、願わずにはいられない。


「その薬を飲みなさい。そうしたら…楽になれるから」


 わたしや夫、その他の人間と同じ苦しみや恐怖を、味わう事などないように──。


「…いいわね?」

「── うん、わかった」


 娘は何かを感じ取ったのか、しばらく迷うような素振りを見せたものの、結局そのピルケースを首にかけた。

 …まだ動けた頃のわたしが、そうしていたように。


「それは、お守りだから…なくさないように、ね……?」

「お守り?」

「そう……」


 それは、最後に灯った光を消すスイッチ。でも、そのスイッチを入れるかどうかは、持ち主次第。

 …その選択を委ねる事が、母親であるわたしに出来る最後の事。

 どうかこれが、この子の僅かなりの救いとなりますように。


「ママ? 眠いの?」

「……」


 もう、これで…わたしはあなたに何もしてあげる事は出来ない。


「ママ……?」


 これが本当に正しい選択か、わたしにはわからないけれど。

 でも、これだけは本当の気持ち。


「…さいごの、こども……──」


 どうか、たった一人きりでも生まれて来た事を悔やまないで。

 生まれた事を、嘆かないで。

 わたしはもう、行くけれど──。



 生きて。

 いつまでも沈まない、太陽のように。

こちらが書く予定のなかったはずの、ママサイドの話です

『Medicine』の後書きに書いた読者さまからのメールで自分でも『Medicine』に対する消化不良な思いを抱くようになって、機会があったらママサイドも書いて見よう!と決意したのは良いのですが。

…結局、実際に書いたのはそれから一年ほど後の事となりました(爆)

これでも、まだ満足はしてないのですが、当時のわたしにはこれが精一杯の文章でした。

今でもこれ以上を書けるかというと謎です。


『生まれて来た事を悔やまないで』


この祈りがこの話で書きたかったテーマなのですが、少しでも伝わればと思います。

エゴなんだけど、それでも願わずにはいられない想い。

自分が「母親」になるような事があったら、もっと実感して書けるのかもしれないけど…やっぱりなかなか難しいテーマです(涙)

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