Medicine
世界はまだ、無音じゃない。
風の音がするよ。
葉っぱがさやさや鳴る音もする。
本当に時々だけど、鳥の鳴き声だって。
だから、まだママの所へはあたしは行かない。
だって、まだ……世界が生きてるから。
+ + +
あたしの宝物。
ママから貰った、一錠の薬。
ママの形見になったそれは、辛い時とか苦しい時に飲めば、簡単に楽になれる魔法の薬。
色は赤と白で、つるつるのカプセルに入ってる。
あたしは時々、そっとそれを専用のピルケースから取り出しては、うっとり眺める。
掌に包んで、そっと目を閉じて、ママの顔を思い出す。
ママはお医者さまだった。
覚えている限りじゃ、お仕事をしていた事なんて一度もなかったけど。
部屋の壁に下がっていた、ちょっとよれよれの白衣だけがその名残。
…まあ、そもそも患者がいなかったら、お医者さまだって開店休業に違いないんだけど。今にしてそんな事も思う。
パパは、あたしが生まれてすぐに死んでしまったみたい。
だからあたしは、パパの顔も知らない。
それでも淋しいなんて思わないよ。だって、ママにその分、とっても愛されたから。
愛…── ううん、多分それは違うね。
ママ以外の人間を、あたしは知らない。ママ以外の何かを無くした事もない。
だからよくわからないの。
『淋しい』って…どういう感情なのか。
+ + +
あたしが生まれる前から、世界はゆっくりと、でも確実に、人間にとっては不幸な方向に向かって進んでいたようだった。
これは、ママが死んであんまりやる事がなくて退屈で── 今までママに絶対に見ては駄目と言われていた端末を覗いてみて知った事だけど。
いいよね? ママはもう怒る事も出来ないのだし……。
それはともかく。
ある時を境に、世界規模で原因不明の病気が発生して猛威を振るったらしい。
ママの死因もその病気のようだった。
『らしい』とか『ようだ』って曖昧な言い方しか出来ない。だって、全部終わってしまった事なんだもの。
具体的な説明は、あまりにも難しくってあたしにはわからなかったけど、その病気は苦しんで苦しんで…最後には必ず命を落とすものだって事はわかった。
それは、最後の何ヶ月かのママの姿を思い出させる。
ママはお医者さまだったからか、それとも他に何か理由があったのか、最後までその病気と戦った。
あたしにくれた、魔法の薬。
ずっと身につけていたのに、それを自分で飲む事はなかった。
発作が起きる度に自分の部屋に閉じこもって、治まるまで決して中に入れようとしてくれなかったけど── 外に聞こえてくる怖い呻き声が、ママの苦しみを表していたから。
どうして、楽にならなかったの?
どうして、この薬を飲まなかったの?
今でもそれは不思議のまま。
もしかしたら聞けば答えてくれたかもしれないけれど、あたしは結局最後の最後まで尋ねる事が出来なかった。
…何となく、その理由は知ってはいけないような気がしたから。
+ + +
時々、怖い夢を見た。
ママの顔をした悪魔が、あたしの首を締める夢。
怖くて、苦しくて── 声が出なくて。
悪魔は何故かとても無表情で、ママの顔なのに何だか別人のようだった。
『助けて! ママ!!』
そう必死に叫ぶ所で目が覚める。
おかしな事に、この夢を見た後、大抵ママはいつもより優しくなった。
きっと、ママの中の悪魔が外に出て、その分優しくなったんだと思う。
そう、思わなくちゃいけない。…そう、思いたい。
── ドウセ、ヒトリトリノコスクライナラ、コノママイッショニ……!
だから、悪魔がうわ言のように呟いていた言葉は、この先も一生、あたしの中に閉じ込めておくの。
+ + +
死ぬ間際のママは、ずっとベッドに寝たきりだった。
毎日、少しずつ少しずつ、やせ細っていく。ご飯も身体が受け付けなくて、あたしは毎日、お水をママの口に流し込んだ。
そうなってからは、ほとんど口をきかなくなって、苦しそうに眠っている事が多かった。
── そして、最後の日。
久しぶりにママがあたしに声をかけてくれた。
そうして、あたしに魔法の薬を渡すと、今までの苦しみはなかったかのような安らかな優しい顔で静かに言った。
「もし…苦しくなったり、辛かったり…耐え切れないくらい淋しくなったら、その薬を飲みなさい。そうしたら…楽になれるから」
どういう気持ちでママがそんな事を言ったのか、ママじゃないからわからないけれど。
でも、もうこれでママには会えないんだろうなあと思ったら、あたしはちょっと怖いような気持ちがした。
その気持ちがなんだったのか、今でもわからない。
そうして── 結局、ママはそれから日付が変わらない内に死んでしまった。
+ + +
窓の外は、無機質な建物が立ち並ぶ。
そこに誰か他の人がいるのか、あたしは知らない。
あたしは今まで、うちから外に出た事がなかった。
ママが許さなかったというのもあるし── あたし自身、ママの側にいたかったからだ。
でも、今はそのママもいない。
ママは、一度だけ── あたしをこう呼んだ。
『最後の子供』
…死の間際のその言葉が、ママの妄想なのか現実なのか、確かめる術があたしにはない。
本当にこの世界には、あたししか生きていないのかな?
そんな風に考える事もたまにはあるけれど、それでもあたしは結局、ママのいない毎日を一人で過ごす。
ちょっとだけ、冒険するような気持ちで庭に出てみたり、今まで知らなかった様々な記録を見たりしながら。
そうだ、この間偶然ママの日記を見つけてしまったっけ。でも、あれはまたきちんと戻しておこう。
きっとそこに…あたしが知らない全ての答えがあるのだろうから。
知ってしまったら…知らずにいる『淋しい』という気持ちに気づいてしまいそうだから。
ごめんね、ママ。
握り締めた掌を開く。人肌に温まったカプセルに軽く口づけて。
ママを殺した病気に、いつかあたしも罹るのかもしれない。けれど、あたしも多分この薬は飲まないと思うよ。
何故って── 世界はまだ、無音じゃない。
風の音がするよ。
葉っぱがさやさや鳴る音もする。
本当に時々だけど、鳥の鳴き声だって。
だから、まだママの所へはあたしは行かない。
だって、まだ…世界が生きてるから。あたしも…生きて、いたいから。ママのように、最後を自然に迎えるその瞬間まで。
世界はまだ── 生きているよ。
『Medicine』は、学生時代のアルバイト中に冒頭の言葉がひっかかっちゃいまして、帰宅後にイメージ画を描いてみたら、ざーっと物語が出来てしまいました。
あまり煮詰めると変な風に話が広がりそうだったので、さくさくっと思いつくままに書いてみた、そんな話です。
というか、そもそも一人称の話は大抵何も考えずに書いてる事が多いのですが(おい)
見ての通り「ラストチャイルド」ネタで、妙に救いがない話となっています。
この話を書いた時点では、ママサイドは書く予定はありませんでした。
蛇足な気がしましたし、多分…人によってはこれ以上に読後感はよくないだろうかと。
ところが、とある奇特な方が「作中で語られない背景を知りたいのでママサイドを読んでみたい」とメールを下さいまして。
その結果、書いたのが母サイドの『Poison』となります。
単独でも読めるようにはなっておりますが、よろしければそちらも読んで頂ければと思います。