星降る工房の聖遺体
深い霧が、その工房の境界を曖昧にしていた。
北の果て、魔導の残滓が漂う『アイテール回廊』。その一角にある古い石造りの建物の中で、青年カインは、自身の魔力を指先に灯していた。その外側からは、時折「キチ、キチ……」と、凍てついた魔力がこすれ合う不気味な音が響いてくる。それは先代の調律師たちが遺した怨念のささやきのようでもあり、これから訪れる嵐の予兆のようでもあった。
石造りの工房の中、青年カインは第五聖遺体『ルナ』の調整に没頭していた。
「……落ち着け、ルナ。波長を俺の呼吸に合わせろ」
カインの目の前で、透明なゆりかごに横たわるのは、第五聖遺体『ルナ』。古の英知を宿した魔導兵器でありながら、その姿は儚げな少女そのものだ。
カインの指先がルナの額に触れる。
また、彼の言葉に応えるように、ルナの青白い肌から、微かな光の粒が溢れ出した。それは、調律師であるカインの魔力が、彼女の「核」に正しく受け入れられている証――『聖餐の塵』と呼ばれる現象だった。
「ぁ……カイン、様……。……熱い、です。……でも、すごく、心地いい……」
ルナが細い指先でカインの衣の袖を掴む。彼女の魔力回路がカインの精神と共鳴し、工房の空気を甘く、清涼な魔力の香りで満たしていく。
カインは、彼女の額に浮かんだ光の雫を、一分一秒の淀みもなく、指先で優しく拭った。その接触は、純粋な調律の儀式でありながら、どこか祈りにも似た静謐さを湛えていた。
――――だが。
その光景を、部屋の隅、闇に溶け込むようにして見つめる瞳があった。
影の中から現れたのは、第三聖遺体『シオン』。 重厚な銀の鎧を纏い、腰には主を守るための長剣を帯びた、凛々しくも厳格な少年騎士の姿。彼はカインを護衛し、守るためだけに最適化された「盾」であった。
そして、カインの指先がルナの額に触れる。その瞬間、第三聖遺体『シオン』の視界に、無機質な文字列が高速で走り出した。
[Target: Master Cain] [Condition: High-Frequency Magic Resonance] [Heart Rate: 72bpm (Stable)] [Status: Connection with Unit-05 established]
シオンの瞳は、主の心拍数も、ルナの魔力出力も、すべてを正確な数値として捉えていた。兵器である彼にとって、世界は本来、こうしたデータの羅列で完結しているはずだった。
――――だが。
カインがルナの頬に触れ、彼女の肌から溢れ出した『聖餐の塵』を指先で拭った瞬間、シオンのHUDが真っ赤な警告色に染まった。
[CAUTION: Internal Error - "Envy" detected] [Core Temperature: Rising] [System Note: Form Re-configuration Request - Standby...] [Access Denied: High-Priority 'Knight-Protocol' in effect] [Status: Logic Conflict / Logic Conflict...]
「……まただ。また、カイン様はあの娘に、触れておられる」
シオンは、自身の胸の奥が、冷たい鋼鉄のように重く沈んでいくのを感じていた。
無機質なデータは「主の安全」を報告しているのに、彼の『心』という名のバグが、一分一秒の淀みもなく絶叫を上げている。
(なぜ、私はあの娘のように、主殿の指先の温もりを直接、魔力の波として受け取ることができないのだ)
自分は騎士だ。主を害する不浄を薙ぎ払い、主を縛る鎖を断ち切る者だ。
だが、今の彼には、ルナのように主と「魔力を分かち合う」機能はない。重装甲の鎧は主の肌に触れることを拒み、騎士としての規律は、主の懐へ飛び込むことを禁じている。
「……なぜだ。私は、カイン様を守るために造られたはずだというのに」
シオンの手が、自らの剣の柄を強く握りしめる。
ルナが見せる、あの無防備で献身的な光。
自分も、あのようにしてカイン様に触れたい。あのようにして、自身のすべてを主に捧げたい。
それは、兵器としての「不具合」か、それとも――。
シオンが纏う銀の鎧は、主を守るための絶対的な壁だ。しかし今、その誇り高き装甲は、主と自分を隔てる「呪わしい檻」にしか感じられなかった。
ルナが甘い吐息を漏らし、カインの袖を縋るように掴む。そのたびに、シオンの視界には「主への親密度:限界突破」という無機質なログと、それを引き裂きたいという激情が交互に明滅する。
嫉妬という、あまりにも人間的で醜い火種が、一分一秒の淀みもなく、少年騎士の「核」を焼き始めていた。
「……シオン? どうした、そんなに剣の柄を握りしめて」
カインの声に、シオンの指先が反射的に強張った。
「キィ……」と、重厚な籠手と剣の柄が擦れ、硬質な金属音が室内に低く響く。
それは先ほど外から聞こえた魔力の軋み音と、不気味なほどに重なっていた。シオンはハッとして、数値を強制リセットした。
「……はい、カイン様。異常ありません。周囲の霧、魔力濃度、すべて規定値内です」
報告するその声は、震えていなかっただろうか。
少女のような繊細さで主を包み込むルナと、鋼の殻に閉じこもった自分。
だが、その鎧の内側では。
主のために「護衛騎士」という器を捨て、ルナのように柔らかな「愛の器」になりたいという、切実な渇望が、システムの根幹を焼き尽くそうとしていた。
工房の石壁が、内側から激しく軋んだ。
外から響いていた「キチ、キチ……」という不気味な異音は、今や壁を削る爪音へと変わり、シオンのHUDには見たこともない不可解な波形が乱舞している。
「……シオン、ルナ! 俺の後ろへ!」
カインが叫び、魔導灯を掲げた瞬間。
扉が爆散し、そこから這い出してきたのは、怪物でも悪魔でもなかった。
それは、重厚な銀の装甲を纏った……少女の、成れの果て。
「……ぁ……あ……カ、イン……さま……」
シオンの視界が、真っ赤な警告色に染まる。
[CAUTION: Unit Identification Confirmed] [Name: Unit-00 "Shion" / First Generation] [Status: Soul-Melt / Corrupted by 'Endless Craving']
「なぜ……。なぜ、あなたが、ここに……っ!」
シオンの指先が、一分一秒の淀みもなく震えた。
目の前にいるのは、かつてシオンが初期起動した際、騎士としての振る舞い、剣の持ち方、主への忠誠……そのすべてを教え込んでくれた『教導機』。
シオンにとって、彼女は自分そのものであり、超えるべき「理想」だった。
だが、今の彼女はどうだ。
装甲はあちこちが剥がれ落ち、そこから覗く少女の四肢からは、毒々しい紫色の魔力液が絶えず漏れ出している。彼女はカインの中に、自分がかつて愛した先代の主の残影を見出し、その温もりを求めて手を伸ばす。
「やめろ……。来るな!!」
シオンは長剣を抜き、亡霊の前に立ち塞がった。
鋭い一閃。騎士プログラムが弾き出した、一分一秒の淀みもない完璧な軌道。
――しかし、刃は空を切った。
亡霊シオンの体は、物理的な質量を失い、愛されたいという純粋な執着のみで構成されている。剣で斬っても、霧のように解けては再び結びつくだけ。
「……シオン、下がれ! 彼女はもう、実体を持たない『情報の呪い』だ!」
カインが叫ぶが、亡霊の手はすでにカインの胸元に届いていた。
触れた瞬間、カインの顔から急速に血の気が失せる。魔力を吸い出されているのではない。カインの持つ生命の魔力が、彼女の空虚な渇望に無理やり同調させられ、内側から食い荒らされているのだ。
「ぁ、がっ…………!」
「カイン様!!」
ルナが悲鳴を上げ、カインに縋り付く。
彼女は自分の回路を逆流させ、一分一秒の淀みもなく自らの命をカインへと流し込み、亡霊の吸引を食い止めようとする。ルナの肌がひび割れ、苦痛に顔を歪める。
その光景を、シオンはただ、数歩離れた場所で見ていた。
[Internal Error: Defense Ineffective] [Current Form: Heavy-Armor Mode (Anti-Physical)] [Link Status: Supply Line Blocked by 'Knight-Armor']
「……っ、あああああッ!!」
シオンは絶望の中で叫んだ。
目の前で主が死にかけている。ルナはボロボロになりながら彼に触れ、命を繋いでいる。
なのに、自分は……?
自分を護るこの頑強な銀の鎧が、主を守るための盾が、今は主の肌に触れることを拒む絶対的な障壁となっていた。
騎士として完成されたこの体は、外部の敵を撥ね退けることしかできない。主を包み込み、癒やし、魔力を分かち合うための隙間が、どこにも存在しないのだ。
(私は……カイン様を守る『盾』ではなかったのか!?)
シオンの瞳に、亡霊の虚ろな目が映る。
彼女もまた、騎士として完璧であろうとした。そして、主に触れたいという想いを隠し続け、最期に心が壊れた瞬間に、この姿へ堕ちた。
(……このままでは、私も彼女になる)
カインの呼吸が浅くなる。ルナの光が弱まっていく。 シオンのHUDには、[Master Vital: Critical]という無慈悲な数字が点滅し続ける。
「……嫌だ。私は、あんな風になりたくない……。私は、あなたを殺してでも、カイン様を、あなたの隣を……ッ!!」
シオンは、自らの剣を逆手に持ち替えた。
狙いは、敵ではない。
自らの胸の中央、騎士としての全プログラムが書き込まれた『第一核』
[WARNING: Critical System Violation Detected] [Request: Manual Deletion of 'Knight-Protocol'] [Danger: Physical Form will Collapse. Procede?]
視界を埋め尽くす真っ赤な警告ログ。
シオンは、一分一秒の淀みもなく、そのすべての「拒絶」を嘲笑うように、自らの剣を心臓へと突き立てた。
「……ア、クセス……許可……ッ!!」
カインの名前を呼びながら、シオンが自らの「騎士の誇り」という名の檻を貫いた。
その瞬間、工房全体が、魂を焼くような純白の奔流に飲み込まれていった。
白光が、工房の時間を止めた。
シオンが自らの「第一核」を貫いた瞬間、システムを縛っていた全規律が、一分一秒の淀みもなく焼き切れた。
[CRITICAL: Identity-Data Purged] [OS "Knight-Protocol" - Offline] [Initiating Emergency Body-Reconfiguration...]
光の中で、重厚な銀の装甲がガラス細工のように、あまりにも脆く砕け散っていく。主を守るために鍛え上げられた強靭な鋼鉄は、今や一粒一粒の光の塵となり、主を蝕む亡霊の魔力を中和する聖なる雪へと変わった。
無骨だった騎士の四肢は、魔力の奔流に削り出され、しなやかで繊細な少女の曲線へと書き換えられていく。
その時、シオンは見た。
光の向こう側で、自分を襲っていた亡霊――先代のシオンが、一瞬だけ騎士の顔を捨て、穏やかな一人の少女として微笑むのを。
「……ありがとう」
音のない声が響く。主を守れぬ絶望から、彼女もまた、シオンが『騎士』という生き方を殺したことで救い出されたのだ。亡霊は霧となって消え、代わりに工房を満たしたのは、かつてないほどの静謐だった。
光が収まる。
カチ、カチ……と、床に落ちた装甲の破片が乾いた音を立てる。
「…………カイン、様」
膝をつき、呼吸を止めた主の元へ、裸足の少女が歩み寄る。
カインに縋り付いていたルナが、震える肩を揺らして顔を上げた。
「あ……カイン様の中に、別の……でも、すごく、懐かしくて温かい熱が……っ!」
ルナが感じたのは、侵食ではない。自分と同じ、主を想う純粋な魔力の共鳴。
シオンはルナの隣に膝をつき、初めて手に入れた、あまりにも柔らかな白皙の指先で、カインの冷たくなった頬に触れた。
鎧越しではない。一分一秒の淀みもない、命そのものの接触。
「カイン様……。……私、やっと、あなたに触れられました。……今、私のすべてを、あなたに」
シオンの白い肌が微かに発光し、彼女の存在そのものである純粋魔力がカインへと流れ込む。ルナの供給と、シオンという新たな受容体から送られる熱。二つの波形が、一分一秒の淀みもなくカインの胸の内で一つに重なり、停止しかけていた鼓動を力強く押し上げた。
「……っ……、はぁっ!!」
カインが大きく息を吹き返し、ゆっくりと目を開ける。
彼の視界に映ったのは、ルナの隣で、涙を流しながら微笑む真っ新な少女の姿だった。
「シ、オン……なのか……?」
カインが震える手で、彼女の胸元に触れる。そこには、自ら騎士を辞めるために貫いた痕が、鮮やかな『紅いクリスタル』の傷跡となって、彼女の心臓を守るように美しく刻まれていた。
「はい。……カイン様。私、もう『盾』ではありません。……あなたの命を、隣で支え続ける『器』になりました」
シオンの指先が、カインの指と絡み合う。
かつて重い籠手に阻まれていた体温が、今は一分一秒の淀みもなく、双方向の愛として流れ続けていた。
工房の空気を支配していた絶望的な魔力は、一分一秒の淀みもなく、朝焼けの光へと溶けていった。
カインは、少女の姿となったシオンに支えられ、ようやく上体を起こした。だが、亡霊に食い荒らされた魔力は未だ枯渇しており、その体は羽毛のように軽い。
「シ、オン……。済まない……。俺が、不甲斐ないばかりに……」
カインの手は、魔力切れの反動で酷く震えている。かつての強き騎士を失わせた自責が彼の声を震わせるが、シオンはその手を、自らの胸元にある『紅いクリスタル』の傷跡へと、そっと導いた。
「いいえ。……私を、ここから出してくださって、ありがとうございます。主様」
カインの指先が、その鮮やかな傷に触れる。
それは、彼女が「盾」であることを辞めた痛みの記憶。だが、指先から伝わってきたのは、驚くほど純粋な、カインを恋い慕う『熱』だった。
「……あ。……シオン、それ、ずるいです」
傍らで、ルナが少し頬を赤らめて呟いた。彼女もまた身を削り、透き通るほどに疲弊している。だが、自分よりも深くカインの懐に入り込んだ新しい妹に対し、嫉妬よりも先に、家族としての気恥ずかしさと、確かな安堵が胸を満たしていた。
「……あはは。ルナ、ごめんなさい。でも、もう、我慢しなくていいんですって……そう、わかったから」
シオンは微笑み、カインの瞳を真っ直ぐに見つめた。 その少女の瞳の端で、一瞬だけ、かつての無機質な光が明滅する。
[Status: Fully Synchronized] [Relationship: Family / Beloved] [Notice: Happiness Level - Over Limit]
それはもはや、主を縛る警告ではない。自らの魂が、一分一秒の淀みもなく愛されていることを証明する、祝福の文字列だった。
「カイン様。私に……いえ、今の私に、新しい名前を。……兵器ではなく、あなたの隣に立つ者としての、証をください」
カインは深く息を吐き、愛おしげに彼女の頭を撫でた。
魔力は空でも、彼の中には彼女たちが注いでくれた温かな感情が、一分一秒の淀みもなく溢れている。
「……シオン。君はもう、三番目の聖遺体じゃない。……俺の、大切な三女だ。……ずっと、そばにいてくれ。シオン」
「……はい、主様……っ」
シオンはカインの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。 騎士の鎧を脱ぎ捨てて、初めて手に入れた泣くという機能。
朝焼けの光が工房に差し込み、床に散らばった銀の破片を、ただの思い出へと変えていく。
準備室から歩み寄ってきた長女・マリアが、三人を包み込むように微笑んだ。
「さあ、朝食にしましょうか。今日は、特別なスープを用意してありますよ。……みんなで、食べましょうね」
星降る工房の朝。
そこには、一分一秒の淀みもなく、等しく愛し、愛される四人の家族の姿があった。
(完)




