『最後のキス』
1996年、初夏
風が揺らすレースのカーテンの向こう、大学の中庭にあるベンチで、美咲は潤に背を預けて座っていた
「やっぱ潤の隣が一番落ち着く」
「おれも…美咲がいると、時間が止まってほしいって思うんだ」
潤は少し照れくさそうに言って、美咲の髪にそっとキスを落とす
まぶしい陽射しの中で、それはごく自然な、静かな幸福だった
最近、ちょっとだけ悩んでいたこと。翔太郎のこと。
学部は違うけれど、いつの間にか近くにいて、気づけば笑顔で話しかけてくる
最初は親切だと思っていた
でも、ある日プレゼントを渡されて、それを断ったら夜中に無言電話がかかってきた
潤に話すと、彼は眉をしかめた
「アイツ……またかよ」
「また?」
「前にも似たような話あったんだよ…
別の女の子が、翔太郎に付きまとわれて退学したって」
その話を聞いて以来、美咲は翔太郎と極力関わらないようにしていた。
なのに、廊下を歩いていると背後から「見てたよ」と笑い声が聞こえる
ドアの隙間から、誰かの視線を感じる
でも――潤がいれば、大丈夫だった
彼の腕の中にいると、不安も忘れられた
ある晩、美咲は潤のアパートに泊まりに来ていた
テレビで音楽番組を見ながら、ソファに並んで座っていた時、潤が突然こう言った
「……アイツ、もう大丈夫だから」
「え?」
「翔太郎…もう、美咲に近づけない」
その時、潤の目が少しだけ暗く光ったような気がした
「……何したの?」
潤は何も答えなかった…ただ、美咲の手を握って、ぎゅっと抱きしめた
「おれは、美咲を守りたいだけだから」
その夜、美咲は久しぶりに安らかに眠れた
誰かの気配も、夢も、なかった
翌週、翔太郎が失踪した
講義にも出ず、サークルにも顔を見せず、携帯も繋がらない
警察も動いたが、結局「行方不明」のまま捜索は打ち切られた
周囲はすぐに忘れていったが、美咲の胸には何かがひっかかっていた
潤は変わらず優しかった
でも時々、ふと無表情になる瞬間がある
「潤あの夜、何があったの?」
「何も…ないよ」
それ以上は聞けなかった
夏の終わり、キャンパスでは文化祭の準備が始まっていた
美咲は実行委員を手伝うため、夜遅くまで残ることが増えた
その日もひとりで資料室にいた時――
「ミサキ……」
背後から、掠れた声が聞こえた
振り返ると、誰もいない…
目の端に、黒い影が揺れた
窓のガラスに、顔のような何かが浮かんでいた
「見てたよ…ずっと」
それは、確かに翔太郎の声だった
パニックになった美咲は潤に電話をかけた
すぐに駆けつけた潤は、美咲を抱きしめながら言った
「大丈夫、おれが守る」
でもその夜、夢に翔太郎が現れた
顔が焼け爛れ、眼球は真っ黒に潰れていた
「ねぇ、なんであの時、信じてくれなかったの?」
「ずっと好きだったのに、邪魔者みたいに扱って」
「だから、おまえの中に入ることにした」
目が覚めると、喉が張り裂けそうに痛かった
鏡を覗くと、首に赤い手形が浮かんでいた
秋。空気が澄み始め、落ち葉が舞い始めた頃
美咲はどこか虚ろになっていた
夜になると、誰かの声が聞こえる
笑い声、涙、ささやき――
「お前を離さない」
潤は心配してくれた
でも、ある日こう言った
「最近の美咲、なんか変だよ」
「え?」
「目が違う、前より……暗い」
それは、美咲も自覚していた
何かが、自分の中でざわついている
その日以来、潤の態度が微妙に変わった
「ねぇ潤。キスして?」
「……ちょっと、今日はやめとこう」
拒絶されたのは初めてだった
そして、あの日が来た
11月の終わり
学園祭の夜
キャンドルが灯る中庭で、美咲は潤を呼び出した
「話したいことがあるの」
「おれも、だよ」
潤は少し怯えたような目で言った
「美咲。……もう、終わりにしよう」
「え……?」
「ごめん。おれ、怖いんだ。最近の美咲、まるで別人みたいで……」
言葉が胸を突き刺した
美咲の中で、何かがキィンと軋む音を立てて割れた
「……そうだよね、わたし、変わったもんね」
潤が歩き出そうとした時
「でも、最後に……お願い、キスして、これで終わりでいいから」
潤はためらいながらも、目を閉じた
その瞬間――背後から、腕が伸びた
血まみれの手が、潤の頭をつかみ、地面に叩きつけた
鈍い音、潤の体が動かなくなる
「……やっと、ふたりきりになれたね」
黒い影が、美咲の中にするりと入り込んだ
美咲の目が、ゆっくりと黒く染まっていく
そして――
翔太郎の声で、美咲が囁いた
「潤、ありがとう
これで、全部終わるから」
倒れた潤を見下ろしながら、美咲は唇を開く
そして、鏡のように浮かぶ窓ガラスに向かって――
「キス、して」
ガラスに翔太郎の顔が映る
血まみれで、でも笑っていた
美咲がそのガラスにキスした瞬間
彼女の体が、糸が切れたように崩れ落ちた
笑い声が、大学の空に響き渡った
翌日、美咲の死は「急性心不全」と処理された
潤は頭部外傷で意識不明のまま、今も病院にいる
そして、大学の資料室では今も夜になると――
「見てたよ」
という声が聞こえるという
あの日、美咲のキスで、何が終わり、何が始まったのか。
今となっては、誰にもわからない
【完】