その7:帰ってこないワイシャツ
さて、すっかり忘れ去られている浅葱のワイシャツ。
行方は勿論撫子が知っている。
「…すんすん。すんすん」
どれだけ洗っても、浅葱の匂いとは別の独特な香りがする。
洗濯場を借りて浅葱のワイシャツを何度も洗っているのだが、その匂いは落ちやしない。
「…奪い取ったからには、完璧に仕上げた状態で返したい」
「ねえ、貴方…」
「ひゃっ!?」
「やっぱり。撫子さんよね」
「げ、月白さん、ですか…?」
白銀の髪に、赤と青のオッドアイ。
目を引く特徴的な外見を持つ籠守…月白は、洗濯途中の撫子を覗き込みつつ、声をかけてきた。
その頬にはまだ湿布が貼られている。
先日、鳥籠に襲撃犯が訪れた。
犯人から暴行を受けた彼女には、まだ痛々しい傷が残っているらしい。
けれど起き上がって動けるようになったのは、大きな進展だろう。
「ええ。覚えていてくれたのね」
「お怪我は平気ですか!?」
「まあ、大分痛い目は見たけれど…出歩けないほどではないわ」
「朱鷺様も、こんにちは」
「こんにちは…」
そんな彼女に隠れるように寄り添うのは、恩寵を受けし者の一人である朱鷺。
先日の一件以降、月白に懐いた彼女は横暴な態度を改め、今は穏やかに、年相応の子供らしく過ごしている。
しかしこれまで彼女が犯した罪は多い。
犯した罪を償うために…時折鳥籠の外に出て、慈善活動や未踏開拓軍の作戦協力に挑んでいるらしい。
「あの…その、あの時は、ありがとう。浅葱と金糸雀、呼んできてくれて」
「あの場を収められそうだったのはあの二人だけでしたので…当然のことをしたまでです」
「それから、何をしているの?」
「浅葱のワイシャツを洗っているところです」
「…私に頼めばいいのに」
「へ?」
「なんでもないわ。本当、世話が焼ける女ね。迷惑をかけて申し訳ないわ」
「な、なんで月白さんが謝るんですか…?」
「そりゃあ保護者で…いえ、雇い主だからよ。飼い犬が迷惑をかけたら飼い主として謝らないといけないのが筋よ」
「は、はあ…」
所々おかしなことを言っている気がするが、何も言わない方がいいだろう。
それよりも、不思議そうな顔で撫子を見上げる彼女のほうだ。
「撫子は…世話焼き、なの?」
「半ば無理やり奪い取ったもので…」
「浅葱が色々と汚すぎて、見るに見かねてってところかしら…」
「そんなところです」
「で、どれだけ臭いの?」
「ストレートに聞かないでください…。面白がっている顔が隠せていませんよ」
「あら。ごめんなさい。貴方が顰めっ面を浮かべる代物だから気になって。未踏開拓軍時代のワイシャツを使い回しているのかしら…新品にしろと言ったのに…」
「未踏開拓軍時代の…」
「無頓着な浅葱なら…着潰しているかも。撫子、それ…手を離して」
「え、ええ…」
朱鷺に言われるがまま、撫子はワイシャツから手を離し…桶の中に落とし込む。
それを朱鷺は覗き込んで、汚物を掴むように指先でそれを持ち上げ…匂いを嗅いだ。
「すん…毒沼生息なワニ型魔物の血の臭いがする」
「えっ」
「流石猟犬。未だに悪食同様前線で恐れられ、帰還を望まれているだけあるね。あれ、討伐したんだ」
「私、厄介な女達を前線から内側に引き込んじゃったのね〜」
「わかってやったでしょ…とにかく撫子、これ捨てた方がいいよ。後、終わったらちゃんと石鹸で手を洗ってね。魔物相手だから、何があるか分からないし…」
「わ、わかったわ!」
朱鷺の忠告を聞き入れ、撫子は清掃班に浅葱のワイシャツを危険物として処分を依頼した。
「と、言う訳なのよ」
「あんのクソガキ…っ!適当なホラをっ!」
「ワニ型の魔物の血のこと?」
「そう!そもそも泳げない私が毒沼なんて近づくわけないでしょうが!」
「あっ」
事後報告でワイシャツを捨てた旨を浅葱に伝えると、その怒りの矛先が朱鷺に向けられた。
理由は単純。朱鷺が盛大に嘘を吐いていたからである。
確かに泳げない浅葱が毒沼に近づくわけがない。
溺れて死にかけた経験と恐怖は根強いらしく、足のつかないところには近づかない。
それが当たり前のような気がするのだが…指摘しないでおこう。
「じゃ、じゃあワイシャツ捨て損じゃない」
「そうだねぇ。まあ、未踏開拓軍時代から着潰していたのは事実だから…買い換え時だったってことで済ませよう。元より汚すぎて捨てられたんだろうなって思ったしね」
「本当にごめんなさい…」
「そう言われたら危険物だって思い込んじゃうさ。仕方ないよ」
「…今度、私が繕うわ」
「マジで!?撫子ワイシャツ手作りできんの!?」
「ま、まあ…洋裁の心得ぐらいは」
「じゃあそれをお詫びってことで!」
「ええ。楽しみにしていて」
「楽しみにしておく!」
上機嫌な足取りで仕事に戻る浅葱を見送り、撫子は頭を抱える。
「サイズ聞くの忘れてたぁ…」
ワイシャツ一つ繕うのに、必要なものは多い。
浅葱の服のサイズに、布だってそれなりに。
できるとは言ったけれど、撫子の洋裁は素人にちょっと毛が生えた程度。
「お、贈るなら完璧なものを作らなきゃ…」
一難去ってまた一難。
撫子の受難は、まだまだ続く。