その6:物陰の鳩羽様
とある日の夜。
いつも通り新橋のスパルタ訓練を受けている浅葱の様子見にやってきた白藤はその様子を物陰から見守りながら、限度を超えたら割り込む準備をしていた。
そんな彼女に声をかけるのは…。
「大変だね、浅葱」
「でも新橋はちゃんと見てくれるから、すぐに覚えられると思うわ。しら…」
「ダメだよ、白藤」
「あっ…。ごめんなさい、つい」
「…それは二人きりの時だけね」
「ええ」
口元に指をそっとあて、その先の名を告げるのを止めておく。
白藤に本名を呼ばれるのは好き。
損得の関係が一切ない、純粋な愛を持って囁かれるその名前が一番好き。
けれど、それは二人きりの時だけに。
白藤の前にやってきた鳩羽は、自分の中の欲を抑えつつ、白藤に向き合う。
彼女は恩寵を受けし者の一人で、九年間の間コンビが変わらなかった唯一の組み合わせ。
長年一緒にいた二人はよき相棒であったが、ここ最近は少々形を変えている。
まだ、誰にも知られていない…いや、浅葱には察されていたが。
「ごめんなさいね。貴方の前ではどうも気が緩んでしまって」
「構わないよ。僕に気を許して貰えているって証拠だからね」
「…ん。で、鳩羽はどうしてここに?」
「ここ最近、君の戻りが遅いから様子を見に来たんだ」
「心配させてごめんなさいね」
「謝ることはないさ。君が後輩思いなのはよく知っているからね。なんだかんだで浅葱の事が心配なんだろう?」
「まあ、そんなところ…」
「一緒にいるのは新橋か。珍しいね。あの子は気難しい子で萌黄以外と関わるところを見たことがなかったけれど…」
「確かに気難しい人だけど、面倒見はいいのよ。整備班にいた時は部下からの信用も厚くて、疑問を投げれば丁寧に返してくれる…頼られること多かったみたいだし」
「君は新橋の評価が高いんだね、白藤」
「しっかりしているのよ。まあ、椋様が関わると大変なことになるけどね」
「あの事件で三親等共々処刑寸前だったんだ。椋が何を考えているか分からないけれど、少なくとも新橋が椋に救われたのは事実だからね」
「…でも、流石にあんな狂信者じみた行動は控えてほしいわ」
「あいつに関わった人間は大体そうなる。なんだろうなぁ。そういうカリスマ性って言うのが作用しているんじゃないかな。どうしようもないときに、ほしい言葉を、行動を与えることができるのも一種の才能だよね…」
「そういうの、よく分からないわ」
「わからなくていいし、今後も関わる必要はない」
少し強めの語気を使用したのか、白藤が驚いてしまう。
鳩羽自身感情を込めすぎた自覚はある。けれど、そういう他者を自分に心酔させることができる人間が近くにいたのだ。鳩羽自身内心穏やかではなかった。
つい先日まで、白藤の心は衰弱し、虚ろになっていた。
今でこそ、鳩羽という支えを与えたことで元の白藤に戻っているが…この時に、鳩羽の前に椋が先手を打っていたらなんて想像をするだけで、鳩羽の心は削れていく。
それほどまでに椋の人心掌握が恐ろしかった。
今でこそ伝えられた、九年間積み重ねた白藤への愛情。
それを隠したり、なかったことになる未来を考えるだけでも…鳩羽の胸に痛みが走った。
「わ、わかったわ」
「またどうしようもなくなった時は、僕だけ見ていたらいいから」
「すぐそういうこという…」
白藤が頭を撫でてくれる中、ゆっくりと鳩羽の頭を自分の胸の中に収めた。
「なんだか、悲しい顔をしているわ」
「…そうかな」
「ええ。大丈夫だからね、鳩羽。私はここにいるから…離れたりなんて、しないから。貴方だけをずっと見ているわ」
「うん」
「だから、何が不安なのか分からないけれど…安心して」
小声でそっと、本名を耳打ちされる。
これを使われたら、いつも通りに戻らなければならない。
「そうだね。安心したや」
「普段の調子に戻ったわね。それで、どうする?私はもうしばらくここにいるけれど…」
「僕も一緒にいるよ。離れたりしないんだろう?」
「ふふっ、そうね」
二人仲良く手を結んで、浅葱と新橋の様子を見守る。
彼女達が落ち着いた頃に、白藤と鳩羽は二人並んで自室へと戻る。
その手は、最後まで離されることがなかった。