鬼の血を引く紀平波子の行き着く先は?
「助けて、泥棒」
後ろから女性の声がしたと思ったら、いきなり波子のすぐ横を、男が走り抜けた。
波子はとっさに男を追い掛けた。
30メートル位走った所で男に追い付き、肩の辺りを思い切り押してやると、男はたまらずつんのめって転倒し、ひったくったバッグが手から離れた。
男は手から離れたバッグを取り返そうと、バッグにいざり寄った。
波子は男の腰の辺りに抱きついて、バッグを取られまいとした。
「こら、離せ。殺すぞ。」男はバッグの方に再びにじり寄って行った。
少しもみ合いになっていると、ようやく周りの人の近付く声がして、男は波子の腕を振りほどき、立ち上がって逃げ出した。
バッグを取られた女性が、波子のもとにやって来た。「助かったわ、本当にありがとう。怪我は無かった。」
「大丈夫です。バッグ持って行かれなくて良かったです。」
「本当に助かったわ。大切なお金が入ってたので。」
「良かった。済みません、バスに間に合わなくなるので失礼します。」
波子は女性にバッグを返すと、足早にその場から立ち去って行った。
引ったくりの有った現場から道路を挟んで向いのバス停の辺りで、山県はその一部始終を見ていた。
山県智宏は、陸上競技短距離走のコーチ兼トレーナーとしてフリーで活躍していたが、関東ブロックの大会が輪光市であり、澤部美帆という選手が、最近どんどん記録を更新しており注目を集めているので、どんな選手か見に来たものである。
最寄り駅までバスで帰ろうとバスに乗っていたが、少し市内散策しようと途中下車し歩き出して、何気なく向いのコンビニに目を向けていたところ、高校生くらいの若い女性が店から出て来て、その後直ぐに中年くらいの女性がバッグを肩に提げて出て来て歩き出し、間をおかずにマスクをした若い男性が出て来たと思ったら、中年の女性を目掛けて走り出し、バッグを引ったくると前を歩く女性の横をすり抜けて走り続けた。
若い女性は少し振り向いたが、「助けて」の声に反応するかのように男を追いかけ、3、4秒走って直ぐに男に追い付いたものだった。
「速い、かなりの走力だ」、山県は心の中でつぶやいた。
車道の向こう側なので、何かアクションを起こすでもなく、漠然と事の成り行きを見守っていた。
若い女性は中年の女性にバッグを渡すとさっさと立ち去ってしまった。
山県は、今日自宅のある千葉県の千草市に帰ろうと思っていたが、先程の女性に興味を覚え陸上競技をやらないか、声を掛けて見ようと思い立った。
駅近くのビジネスホテルは、金曜日、土曜日の宿泊は混むが、日曜日の宿泊とあって当日の申し込みにも空きが有り、無事に一泊する事が出来た。
ホテルで荷物を解いていると強化委員の一人、橋本克哉からスマホに電話が入った。
「澤部美帆はどうだった。」
「うん、やはり凄いね。走り方に隙がないよ。」
「それじゃあコーチしてみたくなったか。」
「それが、そうでもないんだな。走りがほぼ完成されていて、俺がコーチ出来る事はなさそうなんだ。まだ、少し伸びる余地は有るけど俺がやってみたい事は無さそうだな。」
「それは残念だな。」
「それが、少し面白い子を見つけたんだ。詳しくは、戻ってから話すけど、明日その子に会って見ようと思ってる。上手く会えればいいのだが。」
「そうか、報告楽しみに待ってるよ。」
翌日、取り敢えず若い女性の出て来たコンビニから当たって見ようと思い、あまり早く行っても店に迷惑になると考え、ホテルで簡単な朝食を済ませると、チェックアウトタイムぎりぎりの10時前にホテルを出た。
ホテルを出ると、荷物が邪魔になるので一度駅に向かい、コインロッカーに荷物を預けてから目指すコンビニに向かった。
コンビニで責任者に面会を求めると、怪訝そうな顔をしながらオーナーと呼ばれる責任者が出て来た。
「何か御用ですか。」
「用と言う訳ではないのですが、昨日の夕方この店から出て来た客が、ひったくりに遭ったのをご存知ですか。」
「ああ、その事ならわかりますよ。それが何か。」
「ええ、その時そのひったくりを捕まえたのも、この店から出て来た若い女性でしたので、その若い女性について何か知らないかと思いまして。」
「ああ、ハコちゃんの事か、紀平波子うちでバイトをしてる娘だよ。」
「それは良かった。少し話しをしたいのだけれど、電話番号とか教えて貰えますか」
「いやぁ、あんたは悪い人には見えないけど、ストーカーとかこんな世の中だからそれは無理だね。」
「駄目ですか、足が早そうだったので陸上をやってみないか誘ってみようと思ったのですが。」
「そうですか、目立つ事が嫌いそうな娘だから多分無理だと思うけど、この店で話す分には良いから、今日は平日で学校が終わってからだから午後の4時からだけど、バイト入ってるのでその頃もう一度来てみたら。」
「ありがとうございます。じゃあ、そうさせてもらいます。」
店を出る時、レジ横のセルフのコーヒーサーバーから珈琲の良い匂いが流れて来た。
店を出ると、一度駅に行き最寄りの観光案内を見ながら時間のつぶし方を考えようとおもった。
JRの駅で観光案内のパンフレットを貰い見てみたが、電車で一駅行けば観光する所はかなり有りそうだけど、この駅の周辺には目立つ観光スポットは無さそうだった。
しかし、電車に乗るのも面倒なので、時間はたっぷり有る事から杉並木の散歩をしたり、ゆっくり市内を見物をしたりする事にした。
手始めに人通りの少ない並木道を散策する。
八月なのに空気がからっとしていて歩き易い。並木が線路と交差する踏切の辺りで左に折れ、暫く歩くと又別の杉並木に当たった。
流石にここまで歩くと少し汗ばんで来た。
市内の方に向かって歩くと、そこがこの杉並木の始めなのか、並木が途切れた。
丁度信号の有る角にラーメン店を見つけた。ラーメンを食べるには少し暑いかなとも思ったが、空腹をおぼえて店に入ることにした。
外観は「大慶」という店名と同様ちょっとした中華料理店風だが、中は丸テーブルがあるわけでもなく、普通のラーメン店だ。
「いらっしゃいませ」軽やかな声と共にエアコンの涼しい風が、汗ばむ額に当たって気持ちいい。
メニューも一般的なラーメン店のもので、冷やし中華にしようかとも思ったが、結局店名の付いた大慶ラーメンを注文した。
ラーメンは大ぶりのどんぶりに炒めた野菜のたっぷり入ったしょう油味のラーメン。
スープを一口啜ると、これが思いの外美味く満足して食べ終わると、少し得をした気分になった。
「ご馳走様、美味しかった。」
「またどうぞ」の返答に、後日また来る事になるとはこの時は思いもしなかった。
昼食を終え道の駅の様な直売所を眺めた後、市内の少し賑やかな場所を歩いて時間を潰した。
4時の15分くらい前に波子がバイトをするコンビニに入る。
「いらっしゃい、もう来てますよ。今、制服に着替えてますから。」
店の責任者は、そう言いながら裏の事務室に案内してくれ「そこの椅子にでも座って待ってて下さい。」一言残して仕事に戻って行った。
「私、やりませんから。」
いきなりだった。
私服のトレーナーの上に半袖の緑色の制服を着た、160cmを少し超えるくらいの女性がこちらを見ていた。
容姿は普通で、全体的にはっきりした顔立ちの娘だった。短い髪が軽やかな印象を与えた。
「えっ」山県は思わず聞き返し、「ですから、陸上やりませんから。」
「そう、かなり速く走れそうな感じなんだけど。」
「私、そういうの興味ないんです。それに説得しようとしても無駄ですから。」
「解った、今日は帰るよ。」
「でも、諦めたわけじゃないよ。近いうちに又来るから」
山県は素直に帰る事にした。
コンビニを出て空を見上げると、夕方に毎日のように夕立に見舞われると云う空が、今にも降り出しそうな暗い雲に被われていた。
澤部美帆は大学のトラックで入念にアップを繰り返していた。
一時より空気が少し肌寒く感じられるようになり、その分身体を温める時間を長くとるようにしていた。
関東女子体育大学の三年生になってから急速に力を付け、ついにはこの九月のアジア大会で、福島選手以来となる短距離二冠を達成していた。
澤部美帆は、その美貌と健康そうで伸びやかな肢体で、実力と相まって競技関係、一般を問わず人気は相当なものだった。
「調子良さそうだね。」
当大学の陸上短距離コーチ山下裕史が強化委員の橋本を伴ってやって来た。
橋本の掛け声に肯くだけで応答し「それよりこの間の関東大会の時、山県さんが見に来てたみたいだけど、何か言ってませんでした。」
「うん、無駄のない完璧に近いフォームで素晴らしいって褒めてたよ。」
「そう、山下コーチと一緒にやってくれるトレーナーを募集してたから、うちに来てくれるのかなと期待してたんだけど。」
「山県さんは、澤部さんは完璧で自分の出る幕はないとか言ってたな。」
「それって喜んで良いのかな。」
「そうだよ。改めておめでとうって言うけど、アジア大会の短距離二冠だからね。」
「山県さんは今、誰に付いてるの。」と山下コーチが聞いて来た。
「今、地元千葉の実業団サンシャイン工業でトレーナーをやってるよ。」
「関東大会の後、サンシャイン工業と契約して、短距離に限らず幅広く視ているみたいだね。」
「契約したばかりじゃうちにはこないか。」
「そうね、無理なようね。」と美帆もつぶやいた。
「お母さん、相談があるんだけど。」家に着くなりすぐに話しだした。
アルバイトを終わってからの帰宅だから、既に夜の七時半を過ぎていた。
台所にいる母は夕飯の支度も終わって、波子のいるテーブルに並べるだけになっていた。
波子はテーブルを立つと、食事を並べるのを手伝った。
食事を始めると直ぐに「なあに、相談って。」
母が聞いて来た。
「私、陸上やりたいの、やってもいいかなぁ。」
「なによ、いきなり。母さんは賛成しないな。」
「来月には高校も卒業でしょ。最初は今バイトしてるコンビニでフルタイムで働こうと思ったんだけど。」
「でも、熱心に陸上に誘ってくれる人がいて。」
山県は殆ど毎週のように輪光市に足を運び、波子への説得を続けた。
「目立つ事はやらないでね。普通が一番なんだから。」と云う母の願いを守って、山県の申し出を断っていた波子だった。
しかし、頻繁に来るようになった山県は、時には夕食に誘ったり、又バイトのない日に近くの観光に連れて行ってくれたりと、山県は波子との距離を少しづつ縮めていった。
「母さんは、あまり目立つ事はやって欲しくないのよ。目立つ事はしないと云うのは昔からの我が家の家訓みたいなものだから。」
「それに、お父さんだって火事場から子供を救い出して、警察から表彰された後すぐに車に轢かれて亡くなったじゃない。」
「でも、あれは事故だったんでしょ。まだ私小さかったからわからないけど。」
「とにかく、目立つとろくな事ないのよ。」
「千葉県のサンシャイン工業という会社で、社員寮に入って仕事をしながら陸上の練習をするのよ。」
「コンビニのオーナーも、サンシャイン工業は大企業でうちで働くより給料が良いからって、後押ししてくれてるの。」
「そう、あまり賛成しないけど波子がやりたいならやればいいわ。」
「ありがとう。離れて生活するのは寂しいけど頑張るつもり。」
「あまり目立たない様に、いつも二番くらいでいなさいね。」
話しでお互いに箸が止まっていたが、その後波子は本当に自分は陸上なんかやりたいのだろうかとか、山県さんが期待してくれるなら頑張ろうとか、行く末に想いをはせながらゆっくり食事をすませた。
「よく来るね、初めて来た時から半年以上経ったけど、何回目かねぇ。」
「ご迷惑掛けます。15、6回は来たかもしれないです。」
「迷惑ってことはないけど、ハコちゃんもうすぐ上がるから少し待ってて。」
「ありがとう御座います。」
暫く待っていると、私服に着替えたといっても、制服の上着を脱いだだけの波子が来て
「山県さん、今日も来てくれてたんですね。」
「うん、夕飯でも食べに行こうかと思って」
「又、オオヨロコビですか?」
「そう、あそこの大慶ラーメン美味しいからね。」
ラーメン店「大慶」を地元の学生たちは訓読みでオオヨロコビと言っていることは、最初に波子を食事に誘った時に聞いていた。
丼が大きく、そこに入る具も多い事からみんな大喜びすると云うことから付けたらしい。
店に入って注文を済ませると、波子は
「母が陸上をやる事を許してくれました。」
「えっ、それはこれ以上ない朗報だ。来た甲斐があったよ。」
「コンビニのオーナーも、何処までやれるかやってみたら、と言ってくれて。」
「そう、あのオーナーと云う人も良い人だね。」
その言葉と同時に注文のラーメンが来て、幸せな気分で美味しく食べる事が出来た。
「それじゃあ、入寮の準備を終わらせて、三月の終わり頃迎えに来るよ。」
「宜しくお願いします。」
4月3日、サンシャイン工業陸上部の女子監督安原美南は女子部コーチ佐々木宏、トレーナーの山県ととも紀平波子を伴って練習トラックにやって来た。
「みんな一度ここに集まって。」と少し大きな声で監督。
練習中の選手たちは一斉にこちらへ振り向くと、足速にトラックのスタート地点に集まって来た。
「紹介します。今年入社で家電総務部に配属された紀平波子さんです。」
続けて監督は「紀平さんは陸上は全く未経験で、小さな大会にも出た事が無いそうですが、トレーナーの山県君が是非にと言うので短距離走をやってもらいます。」
「そんな訳で紀平さん、簡単に自己紹介して下さい。」
「今、紹介して戴きました紀平波子と申します。波子はナミのコと書きます。栃木県の山間部の三端町の出身です。」と一言。
コーチの佐々木が言葉を引き継ぐように
「と言う訳で、みんな仲良くやって下さい。」
「まだ、身体も出来てないしいきなり走って怪我でもされたら困るので、一ヶ月後くらいに簡単な走力テストをやってみよう。」
「それで良いかな、山県さん。」
「結構です。宜しくお願いします。」
「それじゃあ紀平君」「はい」
「今日はもういいから明日16時半にこのグラウンドに来て下さい。仕事の方は16時で上がれるようになってるから。」
「わかりました。」
「山県さんもお願いします。」
「了解です。」
波子は山県の方に軽く会釈をするとその場を去って行った。
サンシャイン工業のグランドは二面有り、このトラックのグランドと投擲などのフィールド競技用のグランドが有った。すぐ近くにはトレーニング器具の揃っている体育館も備わっていた。
山県は棒高跳びの選手の右腕の上腕二頭筋に湿布を施し、バンデージを巻くと「痛みが取れるまで無理をしない方がいいな。」と一言残しトラックの方に向かった。
トラックに入ると、丁度波子も会社の方からグランドに入って来るところだった。
「今日から宜しくお願いします。」山県に一言挨拶すると、山県は軽いダッシュを繰り返していた女性に向かって「佐野さん、紀平さんの面倒をみてやってくれないかな。」
佐野は「基礎練習で良いですか。」と一言。
「それでお願いします。」と言いながら波子の方を向いて「佐野素子さんといってベテランの域に入ろうとしているが、記録の方も体力も衰え知らずで、じっくり体力を付ける練習は素晴らしく、新人にはピッタリだからね。」
そこに佐々木コーチがゆっくりとやって来た。
「コーチ、紀平さんの面倒を佐野さんに頼んでいた処だったのですが、それで良かったですか。」
「そうだね、適任だね。佐野君宜しく面倒をみてやって。」
「分かりました。」波子も佐野に向かって「宜しくお願いします。」と頭を下げた。
佐野は「あっちでストレッチで身体をほぐしてから、軽目の練習で始めましょう。」と言いながら山県達の所から離れて行った。
「で、紀平君てどんな感じなの。」と佐々木の質問に答えて「偶然、一度見ただけなんだけど、ひったくり犯を追いかけて30メートル位を3、4秒で走り抜けたんだ。見た目にもかなり早かった。」
「そうか、楽しみだね。」一言残して選手達の間に入って行った。
「澤部、ゴールデンシリーズの次のカタール大会まで、余り無理するなよ。」山下コーチの掛け声に
「解りました、コーチ。それよりサンシャインの山県さんが、高校を卒業したばかりの子をスカウトして来たんですって。」
「そうらしいね。なんでも、ひったくり犯を追いかけてあっと言う間に捕まえたらしい。」
「現場で見てたんですか」
「うん、その日に強化委員の橋本さんに面白い子を見付けたと報告してたみたいだね。」
「凄そうな子ですね。」
「でも、陸上は全くの未経験者でどうなるかは未知数みたいだけどね。」
「澤部は結構山県のことを気にするね。」
「気にするっていうか、父がスポーツ観戦が好きで子供の頃からテレビで陸上とかマラソンとか良く見てたので。」
「そう言うこと。」
「ええ、それで山県さんが選手の頃、最初に10秒を切るのは山県選手しかいないとか言われてたから、故障で引退って聞いた時は悲しかったわ。」
「そうだね、山県は確か当時付き合っていた彼女がいて、近いうちに結婚するらしいと噂されてたんだけど。」
「それが日本選手権の決勝でアキレス腱を切って、手術の後もリハビリに励んでいたけど、結局復帰は出来なかった。」
「悲しいですね。」
「悲劇はそれだけじゃなくて、無気力というか何もやる気を失ってしまって、とうとう彼女と別れてしまった。」
「そんな事が有ったんですか。でも、トレーナーとして復活したんですよね。確か故障した選手を入念なリハビリとトレーニングで何人か復帰させて、腕がいいと評判になりましたよね。」
「そうだね、25歳の時に米国に渡って、スポーツ科学の勉強をして来たんだ。二年間勉強した後、又二年間むこうの大学でトレーナーの仕事をして、29歳の時日本に戻って来たんだ。だから今は32歳になってるのかな。」
「色々大変だったんですね。私も頑張ろう、
アップして今日は上がりますね。」
澤部は一言残して山下コーチから離れていった。
澤部はアップしながらも、たった32歳で様々な人生を経験してしまった山県の事が頭から離れなかった。
少し暖かくなって来た波子は、ランニング用の薄いウェアで練習するようになっていて、毎日のことながらその均整の取れた引き締まった身体を、山県は眩しい目で視ていた。
「山県さん、今日はスタート練習をしてみようかな。」と佐々木コーチが山県に向かって一言。
「そうですね。隣りにもいた方がいいから、他に二人呼びましょう。」
「佐野さん、紀平君のスタート練習をするので佐野さんの他に誰かいないかな。」
「それでは富田さんと三人でお願いします。」
「スタートの合図はコーチ、お願いします。」
「分かった。それじゃあ紀平君を真ん中に三人スタートラインに並んで。」
「並んだね。それじゃあ、位置について。」
「用意」、バンの音と共に紀平が一瞬早くスタートした。
「今のフライング。」佐々木が山県に聞いた。
「そうですね、紀平君の頭が一瞬早く動いたみたいですね。」
「もう一度やってみよう。」
「位置について」
「用意」バンとスタートピストルの音。
音に反応してやはり波子が一瞬早くスタートした。
「どうなってるんだ、フライングを判定するモニターに接続されたスターターで測ってみよう。」
「三人共、少し此処で待っててくれないか、計器を起ち上げるから」
暫く待つと「お待たせ、ではスタート位置に立って」と佐々木コーチ。
「それでは最初から、位置について」
「用意」バンとピストルの音。三回目も同様だった。
計器を見た佐々木コーチは、「ギリギリでフライングじゃあないみたいだね。」
「でも、これではスターターが毎回スタートを止めて、確認する事になりそうだよ、そう思わないか山県さん」
「そうですね、紀平君、一瞬スタートを遅らせる事出来ないかな。」
「解りました。やってみます。すみません、子供の頃から耳は、すごく良くて小さい音でも聞こえてしまったりして。」
「反応が良いのは悪い事ではないからね、それでは位置に付いて」「用意」バン!
ほぼ一線のスタートだった。
「いいね、その感じだね。わざとスタートを遅くするのも何だけど、トラブルは避けたいからね」佐々木の言葉に波子も山県も頷いた。
「佐野君、後のトレーニングは頼んだよ。」
「分かりました。ハコちゃんインターバルやるよ。バックストレートでやろう。」
「わかりました。」波子が応えると三人揃って軽やかに練習に向かった。
仄かな香りが春の風と伴に去って行く感じがした。
「ところで山県さん、紀平君の走りはどうなの。」
「ええ、走りはお世辞にも美しいとは言えないんですけど、筋肉の動きには無駄が無い感じなんです。」
「そう、フォームをあまり矯正している様には見えなかったから。」
「走りをビデオに撮ってモニターで見ても、必要な筋肉を自然に使ってる感じなんです。」
「山県さんがフォームをいじらないなんて珍しいね。」
「変にいじって、逆に走るのが遅くなっても嫌ですから。」
「そうか、二週間後のタイム測定が楽しみだね。」
「ええ、私も楽しみなんです。」
バックストレートに目をやると、六人の選手がインターバルトレーニングに励んでいた。
五月初めの日曜日、サンシャイン工業のグランドに、安原監督、佐々木コーチそして山県と他に女子選手達が八人ほど集まっていた。
五月にしては少し暑いくらいの日で、風が無いのは良いが走るにはいいコンディションとはいえなかった。
安原監督が皆に「日曜日の朝早くから集まって貰って申し訳ない。」と挨拶替わりに一言話した後、佐々木コーチが「今日は紀平君にタイムを計ってもらうが、他にも今月終わりの実業団対抗の競技会に出る選手も決めたいのでそのつもりで。」
最後に山県が「一時間後に計測を始めるので、それまで怪我をしないように入念にアップしておいて下さい。」
山県の掛け声でめいめいがそれぞれ準備運動を始めた。
揃ってストレッチから軽いダッシュと身体を温めているのを眺めながら、山県は波子がどんな走りを見せるのか楽しみだった。
波子はスタートは抜群だが、そのすぐ後の二三歩の歩幅が微妙に広く、最初の加速が今一つだった。しかし、山県はそれさえ波子に直させようとせず、好きに走らせていた。
波子の野生の走りを見ていると、山県は自分の科学を基にした理想の走りは、波子には向いていないと考えていた。
佐々木コーチが「もうそろそろ良いかな。みんな集まって。」と声を掛け、「最初に紀平君に走ってもらおうかな。佐野君と階上君、一緒にお願いします。」
三人はスタートラインに立った。
「位置に付いて」「用意」バン。三人ほぼ同時にスタート。20メートルくらいで佐野が身体一つ出る。波子はやはりスタート後の加速がもう一つで一番後ろ。そのまま最後の20メートルくらいで波子が一気に加速、あっと言う間に前の二人を抜き去ってゴール。
佐々木が無言でストップウォッチを監督の安原に見せた。11秒20、なんと練習とはいえ福島選手の日本記録を100分の1秒上回っていた。「紀平11秒20、佐野11秒31、階上11秒34」
選手の間でざわめきが起こった。
選手の富田が「凄い、佐野先輩を抜いて行ったからまさかとは思ったけど、日本記録より早いとは」、他の選手達もただ肯くだけだった。ただ一人、山県だけは予期していたような顔をしていた。
「取り敢えず二回づつタイムを計るから、次は富田、酒井、坂上」と佐々木コーチ。
「位置に付いて」「用意」バン。スタートの良い富田が早くも飛び出す。ゴール前で坂上が迫るが富田の逃げ切り。「富田11秒30、坂上11秒31、酒井11秒35、富田、良くなって来たな。後半失速しなくなったな。」
「有り難うございます。」「最後は山下と久家、二人で悪いな。」
「位置に付いて」「用意」バン。ほぼ同時のスタート。横一線のまま後半に強い山下が抜け出してゴール。「山下11秒43、久家11秒48、まあまあだな。」「それじゃあ二回目行くか。」最初の三人がスタート位置に付く。
バン、スタートの合図で三人がスタート。展開は一回目と全く同じ。最後に波子が突き抜けてゴール。タイムは波子が11秒18、佐野11秒29、階上が11秒33。富田が唸った。「嘘でしょ、何で簡単に日本記録を破れるの。」皆信じられない顔をしていた。
残りの五人も二回目は少しづつタイムを詰めたが順位は変わらなかった。
「次200メートルを一回だけ走ってみるか。四人づつで行ってみよう。最初に紀平、佐野、坂上、階上。」四人がスタート位置に付く。バンの音で一斉に飛び出す。まだ半分も行かない内に波子が先頭の佐野を抜き、差をつけてゴール。ゴール前やはり坂上が追い上げるが佐野が粘って二着。」
佐々木が「もう、驚かないね。紀平22秒58、とんでもない日本記録だね。佐野だって22秒91だし、坂上も22秒94で二人揃って自己ベストで十分速いんだけどね。」
「橋上は22秒98、次、残りの四人。」
残りの四人もベストに近いタイムだったが、100メートルの得意なメンバーで23秒を僅かに切れなかった。
安原監督の「今日はご苦労様、大会のメンバーは後日その時の体調も加味して発表するので、これで解散します。」と言う言葉と共に無言で帰って行った。みんな信じられなさを顔に張り付けたまま散会した。
佐々木が山県に「とんでも無い者を見付けて来たな。陸上未経験じゃなければとっくに他の会社に取られてただろうな。」
「澤部を見に行った帰り偶然見つけたんですけど、逆に澤部に感謝ですね。それにこの会社に拾って貰えた恩返しにもなりそうです。」
「どれだけ、活躍してくれるか楽しみだね。」監督もまだ信じられないと言う顔だった。
関東女子体育大学のグランドで澤部美穂はコーチの山下と、次の全日本陸上選手権大会について話していた。
そこに月刊アスリートの記者高井がカメラマンを連れてやって来た。
「なんだ高井さん、凱旋帰国の時は成田空港に来てなかったから、ゴールデンシリーズの三着位じゃ興味ないのかと思ったよ。」
「よして下さいよ山下コーチ、あんなに記者達が集まってたんじゃインタビューも何もあったもんじゃない。」
「澤部さんカタール大会の銅メダル、改めておめでとうございます。」
「凄いだろ、ゴールデンシリーズの100メートルで日本人女子初めてのメダルだからね。」
「凄いですよね。しかも日本記録を大幅に更新する11秒06ですからね。」
「ありがとうございます。でも、世界陸上やオリンピックでは11秒切らないと、決勝も厳しいかもしれないから、何とかそれまでに10秒台を出しておきたいの。」
「それ、記事にしても良いですか。」「いいわよ」「有難う、それから写真も一枚お願いします。すみません、山下コーチも一緒に。」
「日本選手権、頑張って下さい。個人的にも澤部さんのファンですから。」
「次も良い記事になるよう頑張ります。」
高井は軽やかにグランドを後にした。
五月のゴールデンウィークが実業団対抗陸上競技大会前の唯一の休日だった。
波子は三日、四日の二日間休みを取った。
就職して最初の給料を貰っていたので、母に何か買って行こうと考えた。
一緒に食事も良いが、母は外食はあまり好きではなく、また市内まで遠いので滅多に口にする事のないステーキ肉を買っていく事にした。
千草市の方が輪光市よりデパートなど大きな店が多いので、ステーキ用の肉は千草市で買う事にした。
ステーキ用の肉を買ったあと、何を買うでもなくブラブラとデパート内を歩いていると美味しそうなケーキ屋さんを見つけた。しかし、帰るのは明日だし地元の輪光市にも評判のケーキ屋さん「ミルモナ」が有るのを思い出し、ケーキを買うのは辞めにした。
実家には午前中に着きたいので、翌朝は早く会社の寮を出発した。
都心に向かう電車は空いていたが、乗り換え駅で下りの私鉄に乗り換えると、輪光市が観光地のせいかゴールデンウィーク後半の初日という事もあり、思いのほか混んでいた。
幸い三駅を過ぎた大きな駅で何人か降りたので、無事に座ることが出来た。
座って直ぐに眼を瞑ると、アッという間に過ぎた一ヶ月の間の事が次々に思い出された。
身体が疲れていたのか、気が付くと車窓からは見覚えの有る田園風景が広がっていた。背景は高い山々で地元に帰って来た事を痛感した。たった一ヶ月なのに、殆ど地元を離れた事のない波子には懐かしささえ感じた。
駅に着くと、バスに乗る前に先ずアルバイトをしていたコンビニに顔を出した。
「会社近くにはお土産になるような物はないので。」と言って、串焼きハマグリと串焼きアサリの佃煮のセットを渡した。
「栃木県は海がないからこういうのは嬉しいよ。」と喜んでくれた。
「早く帰って母を喜ばせたいので、これで失礼します。帰りにまた寄りますから。」
「判った、お母さんに宜しく。」
波子は目的のケーキを買った後バス停に急いだ。
午前中に家に向かう方面のバスには滅多に乗らないので、ガラガラなのには驚いた。
「ただいま。」
「お帰り、随分早かったね。」
「うん、向こうを六時に出て来たからね。」
「そうかい、仕事は何とかなってるのかい。」
「うん、伝票とか単純な計算が多いし、それにパソコンのフォームに数字を入れると、自動的に計算してくれる書類も多いから、馴れれば簡単かな。」
「そう、良かったね。走る方はどうなの。」
「それが、山県さんが言ってたように、私すごく速いみたい。」
「そう、喜んだ方がいいんだろうけど、目立つのは嬉しくないね。何回も言って悪いけど勝たないで、いつも二着くらいでいてくれたらね。」
「本当は山県さんなんかに、勝って喜んでもらいたいところなんだけど。」
「目立つと周りのやっかみもあって酷いめに合う事もあるからね。」
波子の母親春子は、波子の父親修一がひき逃げに遭って亡くなった時の事を思い返していた。
栃木県でも比較的大きな内山市に住んでいて、アルミ建材の会社に勤めていたが、残業で帰りが遅くなり夜道を歩いていて、信号のない横断歩道を渡っている時にはねられた。
轢いた車はそのまま逃走し、一週間後に50歳台のトラック運転手が逮捕されたのだった。
葬式の後なども、近所の人達は同情してくれて何くれとなく世話をやいてくれたが、保険会社の人が何回か出入りすると、保険金がいくら入ったなどと噂しているのが、耳に入って来るようになった。
波子が小学校に上がる前でもあり、その時はまだ修一の母親が生きていたので「家賃も掛からないのでこっちで暮らしたら。」と言ってくれた言葉に甘えて、三端町の修一の実家に越して来たのだった。
夜になると母親の焼くステーキの良い匂いがただよって来た。
母は父親の修一が亡くなった後、バスで30分くらい下った先の温泉街の旅館で仲居として働いていた。
元々料理は得意で、家で食べる料理は有り合わせの料理でも驚く程美味しかった。
「ステーキは旅館でもお客様に出す事が有るけど、バターでサッと焼いてしょう油で食べるのが一番美味しいのよ。」と言って鉄板は無いので大き目の皿に盛ってきた。旅館で覚えたのかコーンポタージュのスープも有り、「お母さん、凄く美味しい。料理上手だね。」と思わず口に出していた。「ありがとう、満足して貰えて良かった。」
その後、紅茶でケーキを食べながら波子はこの一ヶ月の事を夢中で喋って聞かせた。母は「くどいけど、お願いだからあまり目立たないようにしてね。」と一言。「判った、今日はゆっくり寝られそう。」
まだ、夜の10時だが早々と寝る事にした。
翌日、昼過ぎまでボンヤリと凄し千草市の寮に戻る事にした。
「無理しないで気を付けてね。」「分かった、お母さんもね。」
輪光駅前にバスが着くと、アルバイトをしていたコンビニに寄った。店のオーナーが波子を見て「ゆっくり出来たかい。」「ええ、母の手料理を堪能して来ました。これ、母の手作りの蕗味噌と蕗の煮物です。」「有難う、お母さんの蕗味噌は絶品だからね、有難く頂きます。気を付けて帰るんだよ。」「また来ますね」
「明後日からの実業団対抗のメンバーを発表します。」監督の安原が皆を集めて話し始めた。「100メートルは佐野、富田、あと新人だけど紀平、200メートルは佐野、坂上、紀平、400メートルリレーは佐野、坂上、富田、階上、以上に決めました。紀平はバトン練習とかしてないのでリレーのメンバーから外します。」
「うちは、長距離は強いけど短距離は成績が優れなかったが、佐々木コーチの練習プログラムと山県君の筋力トレーニングのお陰で、タイムがアップして来ている。まだまだ伸びそうなので引き続き励んで欲しい。」
監督のまとめで散開した。
競技会当日、神奈川県湊市の日新スタジアムに実業団16チームが集まって来ていた。
一週間のタイトなスケジュールで競技が進められる為、短距離走は100メートルが二日目の午前に予選、午後に準決勝、そして翌日の三日目に決勝、200メートルは四日目に予選、五日目の午前に準決勝、そして六日目に決勝、リレーは五日目の午後に予選、最終日の七日目に決勝とかなりきつ目のスケジュールが組まれた。
波子は予選四組目に組まれていた。
スタート前のアップをしていると、あちこちでゴールデンシリーズの澤部美帆の驚異的な日本記録の話しが囁かれていた。
話しを聞きながら、やっぱり凄い人はいるもんだな。お母さんの心配は取り越し苦労になるのかな、と何か安心感がわいて来たのだった。
波子は自分のスタートの番になっても、それ程緊張する事はなかった。
スターターの合図に上々のスタートをきった波子は、やはり30メートル付近で五番手くらいに下がっていた。70メートル付近で先頭のランナーに並び掛けようとした時、母の「目立たないように、二番目くらいで」と云う言葉が頭をよぎり、身体が一瞬固まってしまった。
先頭のランナーに僅かに及ばず二着でゴール。取り敢えず着順で準決勝に進出、タイムは11秒30と平凡だった。佐野は11秒23のの一着、富田も自己ベストの11秒29の二着で三人揃って準決勝に進出した。
コーチの佐々木か監督の方を見ながら「紀平はどうしたんですかね。」と疑問を投げかけた。「今まで大会に出た事もないし、身体が硬くなったのかな」「そうだと良いんですが、馴れてくれば大丈夫かな。」
二人の会話に山県はしかし、波子が一時止まったように見えていた。
午後の準決勝の前に、サンシャイン工業の三人はリラックスした表情で話していた。
「ハコちゃん緊張してる。」と佐野が聞いて来たので波子は「緊張してる訳じゃ無いんだけど、ゴール近くになると身体が硬くなっちゃって。」「それが緊張なんじゃないの、富田さんはどんどん良くなるね。」「佐野先輩こそ、まだまだ進化してるみたいで、何処まで行くか恐いですよ。私はこれが今の所精一杯、決勝は無理かな。」「そんな事言わないで頑張ろう、ハコちゃんもリラックス。」
準決勝一組目、佐野は抜群のスタートから一気に逃げ切り一着でゴール。タイムは何と11秒18。二組目は波子と富田が同組だった。波子はいつも通り中間過ぎまで後方、スタートの良い富田はまだ先頭にいる。波子がスパートをかけ始めると、ほぼ同時にパール電器の牧が一気にトップに躍り出た。富田は三番手に下がる。波子がトップに並び掛けようとした時またしても「二着でいて」と母の声。スピードが緩んでそのまま二着でゴール、富田は四着だった。
一着の牧は11秒22、波子は同タイムの二着、富田は11秒28。
佐野と波子は着順で決勝進出、富田はタイムでも及ばず準決勝敗退。
準決勝一着でインタビューを受けている牧を横目に控え室に戻ると、先にインタビューを受けて戻って来ていた佐野が監督らスタッフと待っていた。
「お疲れ様、ハコちゃん決勝進出良かったね、富田さんは惜しかった。たった0.1秒か。」佐野の言葉に、「今はこれが精一杯かな。」とさっぱりした顔で富田が答える。「でも、タイムをこれだけ詰めて来ているからリレーは楽しみだね。」佐々木コーチが答える。
「明日の決勝は午前中だったね。早目に宿舎に帰ってゆっくり休んで。私達はフィールドの選手達の競技も観て帰るから、先に帰ってて下さい。」監督の一言で解散となった。
決勝の朝、波子が食堂に行くと富田と坂上が二人で朝食を食べていた。富田が「紀平さんこっち。」と呼ぶので一緒の席に着かせてもらった。予めセットされた朝食で、波子が選んだ洋食はロールパンとクロワッサンにベーコンエッグ、生野菜にコンソメスープ、コーヒー又はオレンジジュースは飲み放題、パンに付けるバター、ジャムも好きに選んで良かった。席に着いて、コーヒーを一口啜ると富田さんが「紀平さん、あまり調子良くないの。」と聞いて来た。「そんな事はないと思うんですけど、ゴール前で身体がいうこと利かなくなっちゃって。」坂上も「見てると、会社でタイムを計った時みたいな伸びがないような気がする。」「そう、ゴール寸前なんか止まって見えるよ。」「精一杯走ってるんですけど。タイム的にもあんなもんかなって気もしますしね。」富田が「それは無いと思うけど、決勝は頑張ってよ。」「それより佐野さんて何歳ですか。」坂上が「確か29歳だったと思う、来年は三十路かなんて言ってたから。」「凄いですね。まだまだタイム伸びそうですね。」富田が「山県さんが来てから急に伸びたよね、トレーニングが合ってるのかな。さあ、私達も頑張ろう。」
スタジアムに着くと波子は佐野と共に選手控え室に入った。
今日レースのない選手は監督らとホームストレッチ前のスタンドに陣取った。他のチームも殆どのチームがすぐ近くに応援席を取っていた。
スタンドの通路付近が少しざわめいた。
澤部美帆がコーチの山下や所属する大学の数人の陸上選手と見学にやって来た。
大会の取材に来ていた雑誌やスポーツ紙の記者が目聡く見付けて、質問して来た。
「目当ては誰ですか。」「誰ということはないわ、しいて言えば全員ね。日本選手権で誰が強敵になりそうか見に来たのよ。」本当は山県がスカウトした紀平波子が決勝に残ったとの事で見に来たのだった。
「今日は大学の競技部での見学ですから、記者の皆さんもレースに集中して下さいね。」と山下コーチもスポーツ記者達に釘を差しておいた。
100メートルの決勝レースが始まった。若干の向い風で記録が心配されたが、それ程の影響は無さそうだ。
スタートダッシュで佐野が僅かにリード、スタート抜群の波子は二完歩目、三完歩目で遅れを取り中程の位置、中間地点からパール電器の牧が追い上げるが先頭の佐野との差は詰まらない。残り20メートルから波子がスパート、牧を抜き去り佐野に並び掛けた所でいつもの母の声、そのままゴール。
一着は佐野、二着に波子、そして三着は牧、タイムはそれぞれ11秒10、11秒11、11秒16。
サンシャイン工業の応援席から歓声が上がった。佐々木が「ワンツーフィニッシュとはびっくりだな。佐野はあの年齢で何処まで伸びるのやら、この間の澤部の日本記録の更新が無ければ二人揃って日本新なんだがな。紀平も実力は出しただろう。」しかし、山県と澤部は違う感想を抱いていた。
澤部は波子が佐野を抜く寸前に失速したように見えた。「まさか、先輩の佐野さんに遠慮した。」思わず呟いていた。
スタジアムから宿舎までのマイクロバスの中でも、佐野に対する称賛の声で持ち切りだった。波子は自分が目立ってない事に安堵していた。
翌日の朝、食堂に行くと佐野と階上が一緒の席で朝食を摂っていた。佐野が波子に手招きして「どう、疲れは取れた。」と聞いて来た。
「大丈夫です。ぐっすり寝られましたから。」
「良いわね、若いってのは。」佐野が笑いながら言うので「佐野さんだってどこまで記録を伸ばすのか、まだまだ若いですよ。」同調するように波子も大きく肯いた。
スタジアムに着くと早々と関東女子体育大学の澤部達が観客席に陣取っていた。
山下コーチが澤部達選手に「澤部のとてつもない日本新といい、昨日の佐野達のタイムといい、日本の陸上界も新しい段階に入ったのかもしれないな。」「そうですね。今日の200メートルも日本新は必至ですね。」澤部の言葉に皆うなずいた。
200メートルの予選一組目に波子が登場して、同じ展開で東海自動車の林田が一着、タイムは従来の日本記録と同タイムの22秒88、二着の波子も22秒89、準決勝進出。三組目に坂上、23秒01で二着。五組目に佐野、22秒72で一着、三人揃って準決勝を決めた。
スタンドで観ていた澤部が呟く。「山県さんのトレーニング、効果上がってるみたいね。佐野さんあの年齢で進化してるものね。」
山下コーチも「日本選手権はパール電器の選手あたりが宿敵かと思ってたけど、サンシャインの選手も要注意だね。」「見に来て良かったわね。」
翌日の準決勝、5月の終わりにしては朝方までの雨もあり、少し肌寒いくらいの天気だった。
今日は、澤部達の姿は見えなかった。
雨は止んでいたが、トラックのアンツーカーの赤とフィールドの緑が雨に洗われて鮮やかだった。
準決勝一組目、佐野と波子が同じ組に入った。
スタート良く飛び出した佐野はコーナーワークも上手く、ゴール寸前失速した波子を横目に一着でゴール。タイムは何と22秒68、波子は22秒69。
二組目の坂上は得意の後半に伸びを欠き五着に沈んだ。一着は200メートルが得意の牧、二着は予選で波子を降した林田が入った。タイムはそれぞれ22秒70、22秒78。上位四人が従来の日本記録を更している。
午後に発走の4X100メートルリレーは、アンカーの佐野が見事な追い上げを見せたが僅かに及ばず、パール電器の二着で決勝進出を果たした。
翌朝、200メートル決勝の当日という事もあり、スタジアムに向かう送迎のマイクロバスの前には、佐野を始めとして短距離選手の殆どが集まっていた。
バスの運転手が「待たせて申し訳ない。」と言いながら急ぎ足でやって来て、バスのドアを開けた。
バスに乗り込むと、めいめいが勝手な位置に座り話し始めた。佐野も既に一冠を取っているせいか、緊張するでもなく波子の隣りに座り話しかけて来た。
「初めての大会で緊張してるのかな、練習の時みたいな伸びがないわね。」
波子はお母さんの目立つなと言う声が聞こえるとは言えないので、「無意識のうちに緊張してるのかな、ゴールが近くになると身体が動かなくなるんです。」と答えるしかなかった。
後ろから富田が「イップスみたいなもんかな、私には無縁だけど。」と言い朗らかに笑った。
バンというピストルの音で八人の選手が一斉に飛び出した。スタートで直ぐに林田が飛び出したが佐野が直後先頭に立つ。50メートルを過ぎた辺りから牧が佐野に並び掛けそのまま並走、コーナーを抜けると牧が一気にトップを奪う。波子が猛然と追い上げ佐野を抜き去ると牧に並ぶ。ここで波子にブレーキが掛かり並んでゴール、僅かに及ばず波子は二着。一着は牧でタイムは22秒48、二着の波子も同タイム、三着の佐野は22秒53。
電光掲示板を見て飛び上がって歓ぶ牧に佐野が祝福のハグ、それを見て波子も牧に近付き握手を求める。握手をしながら牧は「紀平さん、あなた凄いわね、今まで全く無名だったのが信じられないわ。」「ありがとう、日本新記録おめでとう。」
波子は佐野と握手をしながら控え室に戻って行った。
最終日4X100メートルリレー、大方の予想を覆しサンシャイン工業は全員がベストタイムで走り、二着と健闘した。パール電器が一着、三着にはゴール寸前で東海自動車を躱した元木食品が入った。
サンシャイン工業陸上部女子監督の安原が、コーチの佐々木、トレーナーの山県と三人で打ち合わせをしていた。打ち合わせといっても監督行きつけのカウンターの有る「大将」という名の小さな居酒屋であった。50歳を少し過ぎた大将と呼ばれた方が似合いそうな親父が、調理を一手に引き受けていた。カウンターの外には女性が二人で注文を受けていた。30歳台の女性がレジも引き受け、もう一人の20歳を過ぎたばかりの可愛らしい女性が、若い割には手際良く接客していた。
「利益主義」と達筆で書かれた大きな紙が店の入り口付近に貼って有る。親父に言わせると「利益主義」はぼったくりの儲け主義とは違うらしい。皆んなが気持ちよく飲んで食べて、客がどんどん増えて行く。結果として利益に繋がる、これこそが「利益主義」と云うことらしい。
親父は「お客様は神様です」なんて、恥ずかしくて言えないと笑っていた。
三人同じレモンハイに焼き鳥で一杯やりながらの打ち合わせで有る。
「佐野には驚きしかないね。あの年齢で何処まで伸びるのかね。」監督の話しに山県は「身体的にはまだ伸びる余地が有りますね。今までが能力だけでやって来たんでしょう。筋肉も、まだ若いですし。」「楽しみだね。来年の東京オリンピックに間に合えば良いんだけど。」佐々木も「そうですね、何しろ参加標準記録が11秒07じゃ、タイムを伸ばし続けても間に合うかどうか。」
「紀平君はどうなのかな。タイムは出てるけど何かパンチに欠けるよね。」と監督。「何かに抑えられているような、完全には実力を出し切ってないようなもどかしさを感じますね。」山県の応えに佐々木も「誰と走っても二着と言うのはある意味凄いね。一着の選手がとてつもないタイムで走っても、ピッタリ着いて行きそうだものね。」
「それで、日本選手権に出られるのは、結局佐野と紀平の二人だけかな。」監督の問いに佐々木は「そうなりますね。」
日本選手権は国立競技場が工事中の関係で、埼玉県のさきたまスタジアムで行われる事になっていた。
出場する日が飛々なので、会社のグランドからマイクロバスで選手をスタジアムまで送迎する手筈になっている。
100メートル予選の日が来た。三組目の波子は清和大学三年の高山の二着だった。タイムは高山が11秒18、波子も同タイムの二着。五組目の佐野は城東女子大学二年の羽鳥の二着、タイムは羽鳥が11秒19、佐野は11秒20。実業団で競り合った牧や林田、優勝候補の澤部も順調に予選突破。
準決勝は波子は澤部と同組になった。
スタートの合図と共に波子と澤部は五分のスタート、すぐに澤部がリードを奪う。残り20メートルから追い上げ二番手に上がるが、そこから澤部との差が詰まらない。そのまま二着でゴール、タイムは澤部が11秒10、波子は11秒12、三着には予選で佐野に勝った羽鳥、タイムは11秒16。
二組目は佐野が予選よりタイムを詰めて11秒14で一着、二着に高山、三着は牧でタイムは伴に11秒17。
波子と佐野は供に着順で決勝進出を果たした。佐野が一着で決勝進出を決めたのでインタビューを受けている間、波子が控え室で待っていると、澤部が波子に近づいて来た。
「決勝進出おめでとう、新人なのに流石ね。山県さんが見つけて来たと言うだけの事はあるわね。明日はお互い頑張りましょう。」
「はい、宜しくお願いします。」と緊張気味に波子が答える。澤部はにこやかに手を振りながら去っていった。
決勝当日、佐野がマイクロバスの中で笑いながら話し掛けて来た。「緊張してるかな、実業団の時と違って相手も強くなってるから、負けて当たり前くらいの気持ちでいけば、そんなに緊張しないと思うよ。」「ありがとうございます、佐野さんと一緒だから心強いです。」
グランドに出て軽くアップをしていると、脇を通り過ぎた澤部と目が合った。言葉を交わすわけでもなく、軽く余裕の笑みを送って来た。波子も軽く会釈を返しておいた。
スタートの時が来た。4レーンの澤部を挟むように3レーンに佐野、5レーンに波子。
スタートの合図とともに一斉にスタート、遅れはない。直ぐに澤部が身体一つ抜け出す、直後に佐野と羽鳥が並ぶ、波子は六番手くらい。残り20メートル位で澤部が完全に抜け出す。佐野が羽鳥を振り切ったところを後ろから来た波子が一気に抜き去り、勢いのまま澤部を抜きそうになった所でまたもや失速、そのままゴール。澤部が手を突き上げ歓喜の仕草。佐野と供に波子も澤部に近寄り祝福。タイムは澤部が11秒05、波子は11秒06、佐野は三着で11秒08。三人が八月の世界陸上の参加標準記録を突破。しかし、出場は二人までで、取り敢えず澤部と波子が内定、佐野は補欠扱いとなった。
控え室で佐野とレースタイムの話しをしていると、競技役員が来てドーピング検査が有るので医務室に来るように言われた。
初めての事なので思わず佐野の方を見ると「必ず何時かはやらないといけないから」と笑って早く行くように促された。
採血の後の検尿でトイレに行くと、ドーピング検査担当者がトイレの中まで付いて来た。
戸惑って相手の顔を見ると表情を変えずに「規則ですから、下着を脱ぐところも容器に尿を取るところもこちらに見える様にして下さい。」と言われた。
恥ずかしさでなかなか尿が採れず焦ったが、採れた時にはホッとしてもう恥ずかしさは薄れていた。
控え室に戻ると心配した佐野が待っていてくれた。
二人でバスに戻ると、先にバスに乗り込んでいた女子短距離陣が拍手で迎えてくれた。佐野がみんなに波子がドーピング検査になった事を告げると、皆一度は検査にあっているらしく、その時の心境を話して慰めてくれた。
翌日はレースが無く、佐野と波子は前日の決勝を走った為休養日に当てられた。
他の女子短距離選手は、会社の他の競技の選手の応援に競技場に向かった。
波子は他の人が出払って静かになった寮の周りを、ぼんやりと歩いてみた。
初夏の6月で、寮の周りに植えられた桜の木も、棟と棟の間に有る植え込みのツツジも花が無くどこか淋しげだった。
200メートルは予選、準決勝と順調に進み、佐野も波子も無事に決勝に残る事が出来た。
決勝はやはり力の違う澤部が一着、波子はまたしても二着、200メートルが得意の牧が三着、佐野はいつもの切れがなく五着に沈んだ。タイムは世界陸上の参加記録を大幅に上廻る記録で、澤部22秒20、波子22秒21、牧22秒32。
牧は実業団で負かしている波子に、大きく離されての三着だったのが余っ程悔しかったのか、挨拶もそこそこにトラックを去って行った。
二週間が過ぎた頃、グランドでスタートダッシュの練習をしていると、安原監督が練習グランドに入って来てコーチの佐々木を呼び、何か話し始めた。暫く二人で話してたが、やがて山県と波子を手招きで呼んだ。
監督が二人に話し出した。「この間のドーピング検査、結果は陰性で問題ないんだが、何か染色体におかしな所が有って、出来れば追加で血液検査だけさせて欲しいそうだ。それでその結果が出るのが二、三週間かかるらしい。問題はそこで、それだけ時間が掛かると世界陸上に間に合わないかもしれないと言う事だ。」「そこで検査機関に、折角出場資格を取ったのだから、世界陸上が終わった後に検査と言う訳にはいかないのかと聞いてみた。」
「結果は出場資格に関わる事だから駄目だそうだ。何でも、ホルモンの数値を調べたいらしい。」「それで100メートルは補欠で出場タイムをクリアしている佐野に出て貰う事にした、納得して欲しい。ちなみに200メートルはパール電器の牧選手に決まった。但し今後の事も有るからパスポートは取っておいてくれ。」監督の話しが終ると佐々木コーチが「残念だったな、海外でのレースなんてなかなか行けないからね。」
検査の事は気になったが、練習は毎日普通に続いた。
山県は波子に、スタート後の完歩を小さく早くする様に繰り返し指導した。今迄、波子の長所を殺さない為に余りいじらない様にして来たが、あまりの二着の多さに指導に踏み切る事にした。山県には波子の二着が母親の呪縛に依るものだとは知る由もなかった。
山県は世界陸上間近の佐野も新しいトレーニングを課す事にした。「佐野さん、世界陸上には間に合わないかもしれないけど、来年のオリンピックに向けて上半身の筋力トレーニングをやってみないか。」「今より早くなるなら何でもやります。」「脚力はかなり付いて来てるので、上半身を鍛えて腕の振りを早くすれば、それに伴って脚の回転も速くなるから効果有ると思うよ。」「どのくらいやれば良いですか。」「明日、体育館のジムの方で説明するけど、炎症を起こしても大変だから徐々にやって行こう。」「判りました。」
山県は富田や坂上ら他の選手にも、筋力の弱い部分を強化する為、それぞれ異なるメニューを指示して歩いた。
普段通りの練習が続き、佐野が世界陸上に出発する日が来た。成田空港からハンガリーのブタペストに向かう為、会社からほど近い所に在る空港リムジンバスのバス停まで、みんなで見送りに出た。佐野が波子に向かって「ハコちゃんの分まで頑張るからね。」と言うと階上が明るく「エイエイオー」と雄叫びを挙げた。全員それに倣って雄叫びを挙げると、他の乗客が何事かとこちらを見たが、出陣て判ってか拍手をくれた。佐野のの後から練習パートナーとして付いて行く富田がバスに乗り込みバスは出発した。
安原監督、山県トレーナーは空港で合流する事になっており、佐々木コーチは残る事になった。
佐野がブタペストに出発した翌日、追加で実施されたドーピング検査の結果が届いた。結果は問題なしだった。染色体に人間には無い配列が有るが、普通に女性ホルモンが有り、男性ホルモンの数値も規定値より低く異常なしと云う事で、普通にレースに出られると言う事だった。染色体異常については特異体質と言う事で、他の数値に問題が無い以上特に問題視する必要なしとの判断が下された。
佐々木コーチはこの結果を波子に伝えると共に、ブタペストに居る安原監督にも連絡した。監督はこの結果を大いに喜んだ。
「ハラハラしたけど問題なしで良かった。帰ったら次のスケジュールを決めよう。」
10日後に佐野達は帰国した。佐野は海外の強豪相手に六着と健闘した。澤部は100、200メートル共に四着。200メートルの牧は惜しくも九番手で決勝進出を逃した。
サンシャイン工業は陸上部発足以来初めての世界陸上出場で、しかも六位入賞という事で簡単な食事会を開いてくれた。
二十歳前の波子はまだ飲酒が出来ないので、ノンアルコールビールで乾杯した。ビュッフェ形式の立食で、めいめいが料理を盛った皿を手に、女子短距離陣は一かたまりになって会話を弾ませていた。感謝を込めた挨拶を終えた佐野がグループに加わった。
早速坂上が佐野に聞いて来た。「決勝、どんな感じだった。」佐野は「敵わないよね。三着までが10秒台でしょ、私も澤部さんもベストタイムで走ったけど、三着から差が有ったものね。」「それじゃあ、私達の出る幕はないか。」「坂上さん、そうでもないんじゃない。みんなどんどんタイム縮めて来てるし、日本のレベル全体が上がって来てるから、オリンピックで決勝に残るくらいまではがんばれそう。」と階上。富田も「紀平さんなんか陸上始めて半年なのに、もうオリンピックの参加標準記録を破ってるし、ドーピング検査は無事クリアしたみたいだから期待大だよね。」佐野も「本当に良かったね、ハコちゃん。入社半年だけど打ち解けてくれてるし、皆んなにも可愛がって貰ってるみたいだから良かったわ。」「皆の期待の星だものね、しかし、全部二着って珍しいよね。2等星なのかな。」富田に皆大笑いだった。
「年内のスケジュールだけど、佐野と紀平にはダイヤモンドシリーズで、上海に遠征してもらおうと思ってる。外の選手は間宮記念陸上に出てもらう。いいかな。」
「解りました。」全員で返答した後それぞれが自分のメニューに従って練習に散って行った。
上海遠征まで後一週間という日、波子に突然炎が襲いかかって来た。朝会社に出勤すると係長の高井さんが近寄って来た。「紀平さん、月間アスリートという雑誌見た事有る。」「いいえ、知ってはいますけど見た事はないです。スポーツ全般の専門誌ですよね。」「そう、普通の人は読まないから皆が知ってる訳じゃないんだけど、紀平さんの事が書かれてて、それがあまり良い内容ではないんだ。」「どう言う事ですか。」「君が鬼の末裔だというんだ。」「そんな事。」と言ったきり波子は黙ってしまった。」「まあこの雑誌あげるから読んでごらん。」「ありがとうございます。」
昼休み、休憩室で記事を読んでみた。内容は驚くべきものだった。
父の修一が轢き逃げに遭った事は知っていたが、司法解剖された事は知らなかった。
記事に依ると轢き逃げは事件なので司法解剖されたようだが、血液を検査したところ人間にはない遺伝子が見つかった。さらに身体全体の傷を調べている時、頭頂の左右に皮膚が硬く角質化した所が有り、角が退化したような感じだったらしい。地方紙の記者がその話しを聞きつけ、轢き逃げ事故の記事の最後に被害者は鬼の末裔か、と書き結んでいた。被害者の身元が判明し、その妻春子が遺体を引き取り葬儀に付した。葬儀の後、暫くして春子は娘と修一の実家に引っ越す事にしたのだが、その際家裁に申請して鬼平姓を紀平に変更していた。姓から鬼の字を消した事もあらぬ憶測を呼んだものだった。その娘の紀平波子がドーピング検査で、薬物は陰性だが染色体に異常が有り、それが亡くなった父親の修一と同様の異常で有る事から、紀平波子も鬼の末裔ではないのかという疑問が残る。
以上が記事の主な内容だった。
波子はまだ三歳と小さかったことも有り、知る由もない事だったが、後で母に経緯を聞いてみようと考え、そのまま仕事に戻った。
仕事を終え練習の為グランドに来てみると、挨拶するより先に佐野が波子を見付けて近寄って来た。「月刊アスリート読んだ。」と聞いて来た。「うちの高井係長から雑誌を貰い、昼休みに読みました。」「それで、どうなの。」「どうなのか聞かれても、その時私は三歳でしたから。でも、私のドーピング検査も染色体異常でしたから、鬼云々は別にしてそれ以外は本当の事かもしれません。」「そうか、どちらにしてもハコちゃんはハコちゃんだものな。」「一応母には聞いてみようと思いますが、後は成り行きに任せようと思います。」「そうだね、それしかないね。」
いつの間にか、富田や階上など五人程集まって来ていて「気にしないで頑張ろうね。」と言ってくれた。「さあ、練習、練習。」との佐野の言葉で銘々が練習に散って行った。
アップが終わってスタート練習の準備をするため、スターティングブロックの設置をしていると、佐々木コーチが近づいて来た。
「月刊アスリートは読んだと思うけど、SNSでもかなり書き込みが多くなってるな。悪意に充ちたものも有るけど気にするな。アンチドーピング機関からOKを貰ってるのだからな、胸張って行こう。」「ありがとう御座います、SNSとか余り見る方じゃないし気にしません。」「うん、監督も上海遠征は予定通り行くからと言ってたし頑張れよ。」「頑張ります。」
波子は寮に帰ると、部屋に入るなり母親のスマホに電話して見た。暫く呼び出し音が鳴った後ようやく母親が電話に出たが、仕事中で忙しいから家に帰ってから電話すると言って切れてしまった。波子はSNSに何が書かれているのか少し見てみようとネットを開いてみた。
「鬼は辞めろ」「お前に走る資格はない」とか酷いのになると「鬼は生きる資格なし、早く死ね」といった物まであった。他も似たり寄ったりだが中には好意的に「鬼の力を見せつけろ」と言ったものも有った。しかし、鬼説を否定するものにはなってなかった。
波子はシャワーでも浴びて気持ちを落ち着けようと風呂に入ることにした。
風呂場の鏡で全身を映してみる。大きくはないが胸もはっきりと有り、何処をどう見ても女性の身体だ。頭を触ってみたが角らしい感触もない。何であんな記事が載ったのだろう、悲しい気持ちの儘ゆっくり湯船に浸かり心を鎮めようと努めた。
風呂から上がり身体を涼めていると、ようやく母から電話があった。
「どうしたの、何か用が有ったの」
「うん、お父さんが亡くなった時の事を聞きたくて。」
「急にどうしたの。」
「一般的な雑誌じゃないから普通の人は読んでないと思うけど、お父さんの事故の時の事が載っていてね、司法解剖で血液を調べたら人間とは違う遺伝子が有ったみたいなの。」
母の春子は黙って聞いている。
「それでね、事故を報じた新聞の最後にお父さんは鬼の血を挽いていると書いているのよ。そんな噂がたったの。」波子は母の春子に聞いて来た。春子は「あまり広がった訳じゃないけど、噂は立ったわね。引っ越したのはそれもあるのよ。」「引っ越す前に改姓した。」と聞いてみた。「そんな事まで書いているの、
あなたのお父さんさんの母親にも了承してもらってね改姓したのよ、この辺には鬼平姓が何軒か有って、鬼平という姓の家がみんな鬼の血を挽いていると思われたら申し訳ないじゃない。」「そうか、解った。私も鬼の末裔だと思われてネットにも書き込まれてるみたいだから、もう十分目立ってるし二番でいる意味が無くなった。山県さんの為にも遠慮なく一着を目指すわ。」「そいかい、悪い事が起きないと良いけど。」「大丈夫、お母さんも元気にしててね。」それで電話は切れた。
上海に向かう日、佐野と伴に成田空港第二ターミナルに着き出発ロビーに行くと人だかりしていた。記者達の間から澤部の顔が見え隠れしていた。
佐野が「人気者は違うわね。美人な上に実力ナンバーワンときてるから、記者さん達がほっとかない筈よね。」「佐野さんだって充分綺麗ですけど。」「あら、ありがとう。」
そこへ月間アスリートの高井が近寄って来た。「サンシャインのお二人も上海ですか。」「高井さん、貴方でしょう紀平さんの事を変な風に書いたのは、記事の最後のサインは貴方の名前だったわよ。」「変な風ってのは言い掛かりだな、栃木県の方に知り合いの新聞記者が居て、きちんと取材させて頂きましたよ。」「でも、根拠なく鬼とか書いてたでしょう。やり過ぎなんじゃないの。」「まあ少し面白くは書きましたけどね。」「酷い、紀平さんに謝りなさいよ。」波子が話しに割って入って「良いんです。自分の血はいじりようがないし、血を全部取り換える事も出来ませんから。」「了解、今後とも宜しく。」高井は背中越しに手を振りながら去って行った。
高井と入れ違いに安原監督と佐々木コーチがフィールドの選手二人を連れてやって来た。
山県は日本の競技会の方に残る事になっている。
佐々木コーチが「高井さん、何か言ってたの。」波子は「記事の事で、佐野さんが文句を言ってくれたのでスッキリしました。」「そう、アンチドーピング機関がOKなので大威張りたから気にするな。」「はい、ありがとうございます。」「じゃあ、行くぞ。」「はい。」
上海に着くと競技場に近いホテルまでタクシー三台に分乗して向かった。
ホテルは日本の代表全員が宿泊する予定だが、フロントでもロビーでも日本の他の選手に会う事はなかった。
ホテルでは波子と佐野は同室になったが、気の合う二人には何の問題もなかった。年齢は10歳も違うが、波子の入社の時から練習パートナーを務めたので、佐野にとっては年の離れた妹のようなものだった。佐野が「夕食を食べたら今日は早くねようね。」と言うのでそれに従う事にした。
100メートル予選、波子は一組目でジャマイカのベロニカと同組。ベロニカは世界陸上で優勝している。スタートは互角、ベロニカが少し前に出るが差はない。そのまま並走してゴール前へ。波子に「二番でいて」のいつもの声は無い。ゴール寸前波子が一瞬前に出て一着でゴール。二着のベロニカが少し驚いた顔をしながら握手を求めて来た。波子がそれに応えると軽くハグをして離れて行った。タイムは11秒フラット、予選としてはまずまずのタイムだ。
二組目には佐野、同組の強敵はやはりジャマイカのサンディ。佐野はサンディに僅かに遅れ二着。着順で予選突破だ、タイムは11秒13。
最後の六組目に澤部が出場、世界陸上二着、アメリカのアリアナと同組である。スタートは澤部が早かったが中間過ぎに抜かれると、差は詰まらず二着でゴール。タイムは波子と同じ11秒フラット。
日本からの三人は全員予選突破となった。
日本チームの宿舎になっているホテルに戻ると、監督の安原が佐野と波子をロビーから手招きしていた。安原の向いに座るのは強化委員の橋本だ。安原が席を一つずれて橋本の隣りに座り、佐野と波子はそれぞれ二人の向かい側に座った。
橋本が「初めまして橋本です。紀平さんとは初めてだよね。」「はい、紀平です。宜しくお願いします。」「去年の夏、山県さんと電話で話した時に、面白い子を見つけたからスカウトしてみると言ってたけど、予選とはいえ世界チャンピオンに勝っちゃうんだから、山県さんの眼力も相当なもんだね。」安原監督も「皆、どんどんタイムを詰めているし、科学的トレーニングとやらも大した物ですよ。佐野さんなんか去年とは比べものにならないからね。」「そうだね、30歳前にして完全に本物になって来てる、肩の筋肉なんか益々凄くなって速くなるわけだ。」「頑張ります。」と佐野が答えた。「ところでネットの書き込みが続いているようたけど、紀平さん大丈夫かな。」「あまり見ないようにはしてるのですけれど、たまに気になってつい見ちゃいますね。でも、私自身を変える事は出来ないので気にしないようにしています。」「そうか、あまり酷くなる様なら、陸連の方でも対処するから遠慮しないで安原さんを通じて言って来てくれ。」「解りました。ありがとうございます。それでは失礼します。」と二人で席を立った。
準決勝は一組に波子、澤部、ジャマイカのサンディなど。二組に佐野、ジャマイカのベロニカ、アメリカのアリアナ達が入った。
一組は波子がスタートからダッシュ良く飛び出し、サンディ、澤部らの追撃を振り切り一着でゴール。タイムは10秒98、日本人女子で初めての10秒台だ。二着にサンディ、11秒フラット、澤部は同タイムながら三着となった。
二組はアメリカのアリアナが一着、二着にベロニカ、タイムはともに10秒99。佐野は11秒04で四着だが全体の九番目で準決勝で敗退となった。
波子はレース終了後、初めて海外メディアからのインタビューを受けた。予選、準決勝と世界の強豪を相手に勝利した事を複数のメディアから称賛されたのだった。
控室に戻るとドーピング検査の係員が待っていて、医務室に連れて行かれた。血液検査の後の検尿はまだ慣れていないせいか、やはり抵抗があった。
検査が終わり控室に戻ると佐野が待っていてくれた。「万年二着のハコちゃんとは思えないレースだったわね、見違えたわ。逆境に強いのね。」と暗にネットで叩かれている事への反発心と捉えている様だった。
ホテルに帰ってからそっとスマホを見てみる。
「澤部美帆を泣かせるな、鬼は引っ込んでろ。」「血も涙もない鬼に、走る資格はない。」言いたい放題の書き込みが山のように入っていた。佐野が「澤部さんは美人で人気者だから、どうしてもハコちゃんが悪者になっちゃうね。」「見ない様にしてるんですけど、つい気になって。」「澤部さんがか弱い訳じゃあないけど、判官びいきというのか弱い者の味方みたいな風潮があるからね、気にしない方が良いよ。」「そうですね。解ってるつもりなんですけど、つい」二人で話している間も悪意の書き込みはどんどん増えていった。
決勝は二日後の午後に行われた。波子は四レーン、隣りの五レーンにアリアナ、澤部は二レーンに入った。
ピストルのバンという音と共に一斉に八人が飛び出す。先ずベロニカが飛び出す。差がなく波子とアリアナが続く。サンディ、澤部と続いて中間地点を過ぎる。波子がベロニカに並ぶと一気に突き離した。一着でゴールした波子のタイムは何と10秒68、今年度の最速タイムだ。二着に粘ったベロニカが波子に近付き、おめでとうのハグをしてくれた。アリアナ、サンディと次々に軽くハグで祝福してくれた。最後に澤部が近づき手を差し伸べ、握手で「おめでとう」と言ってくれた。
勝利者インタビューでは、数多くのメディアが注目し祝福の言葉が述べられた。
200メートルも、アリアナを破って21秒86で波子が制すると、波子が世界の陸上関係者に注目される一方で、澤部への同情と波子への悪意の書き込みがどんどん増えていった。
11月も終わりに近付いて来た日、サンシャイン工業のグランドに安原監督以下陸上部のスタッフと選手達全員が集まっていた。
「先ず上海での紀平君のドーピング検査の結果は、全て問題なしだった。ネット上の紀平君に対する誹謗中傷は根も葉もない事だから、皆で紀平君を守ってやって欲しい。」監督が話しを続ける。「年内に予定している大会は無いので、ゆっくり休んで貰って構わない。但し、コーチもトレーナーも出社しているので、自主トレ中に何か有ったら相談して欲しい。又、室内競技会について出場希望が有れば申し出てほしい。費用は会社負担でエントリーしておくから。三月に入ったら新たなスケジュールを発表するので、それまでめいめいが怪我をしない様に過ごして欲しい。以上。」佐々木コーチが引き継いて「それでは解散とします。」
陸上競技は冬に向かって大きな大会はないが、月間アスリートの高井が、紀平波子を誌上で攻撃して来た。波子が競技を始めて一年と経たない内に世界のトップに躍り出た事について、またしても波子の父親修一の事を持ち出し、鬼の血を引く力以外に考えられないとして、波子を陸上競技界から葬り去るべきだと書いていた。
これに呼応する様にネット上の書き込みも増えていった。
波子は身を縮めるような生活を送り年末を迎えた。
実家で凄す事にした波子は、僅かに出たボーナスで母にコートを買い、コンビニのオーナーには店では売ってないで有ろう高目のワインを買って帰る事にした。輪光市の駅に着くと早速コンビニにむかった。穏やかな日なのに頬を撫でる風が刺すように冷たかった。
店に着くとオーナーが「半年しか経ってないのに綺麗になったね。しかも大活躍だし、山県さんも喜んでいるだろう。」と明るく迎えてくれた。「何かネット上で心無い書き込みが有るみたいだけど、大丈夫かい。」「ええ、会社の仲間とも話してるんですけど、この身体は替える事が出来ないので気にしないと話してます。」「そうだよ、ハコちゃんはハコちゃんなんだから。こんなに良い子なのに知らない奴が勝手な事書くなって言うの。」「ふふっ、ありがとう、元気になりました。又、寄らせてもらいます。」「何時でも、どうぞ。お母さんに宜しく。」「はい。」
ケーキを買って家に帰ると、母はまだ仕事から帰ってなかった。少しボヤッとしていたが、パスタでも作ろうと台所に行ってみた。家にいる時は母がいつも一人で料理をし、波子が手伝う事は全くなかった。料理をするようになったのは今の会社で寮生活をする様になってからで、スマホでレシピを見ながらの料理だった。いざ自分で料理をしてみると材料を切るにしても時間ばかり掛かって、母の手際の良さばかりが思いだされた。
食材の置き場所も判らず、そもそもパスタがあるのかどうかもわからず、あちこち開けてみると乾物と一緒に乾麺の類いが有り、その中にパスタもあった。パスタを茹でている間にトマトスープを作ろうとしたが、ホールトマトの缶詰がないので玉ねぎでオニオンスープを作る事にした。パスタは味に自信はないが具材がそれ程必要のないペペロンチーノを作る事にした。母が帰って来る時刻を見計らって作り始めたつもりだったが、出来上がってからも母はなかなか帰って来なかった。30分が過ぎた頃ようやく母が帰って来た。
「今日帰って来るのが判ってたのに遅くなってごめんね。急いでご飯つくるからね。」「ご飯なら私が作ったよ。」「ハコ、料理するようになったの」「料理ってほどじゃないけどパスタを作ってみた。少し温めれば直ぐに食べられるよ。」「そう、助かるわ。着替えたらすぐにたべよう。」「着替えてる間に温めておくね。」母が食卓に付くと「どう、ネットの方酷いの」「少し増えて来たかな、お母さんの方には迷惑かかってない。」「こっちは田舎だし、社長も社長の息子さんも、世界相手にハコが勝ったものだから大喜び。息子さんの方はネットも見てるみたいだけど、澤部さんという人よりも強いハコの方が好きみたい。」二人でパスタを食べながら「ここまで目だっちゃうとどうしようもないものね。こうなるのが恐かったんだけど。」「お父さんが鬼の末裔だなんて話しになるとは思わなかった。」「遺伝子とかが変って案外本当にそうかもしれないね。」「私も少し思った。」「オニオンスープ美味しい。」「良かった、料理上手のお母さんに褒められて。終わったらケーキも有るからね。」「それじゃあ、紅茶にしようか。」
春子がケーキを一口食べると「ミルモナのケーキは美味しいわね、甘さも丁度いい。」「ねえ、お父さんてどんな感じの人。絵本を読んでもらったのだけは何と無く覚えてるんだけど。」「普段は凄く無口な人なんだけど、ハコとは良く喋ってたわね。曲がった事が嫌いで融通が利かないくらい真面目な人だった。ただ、力は有るし頼りになる人だったわ。結婚がお互いに遅くて、ハコが産まれた時はもう45歳になってたから、ハコが可愛くて仕方なかったみたいね。それなのに三年後には死んじゃうなんてね。可哀想な人。」「もう少し長生きして欲しかったなって私も思う。」
翌日、大晦日なのに朝早くから母は仕事に出て行った。「折角ハコが帰って来て呉れてるのに、ゆっくり出来なくてごめんね。」母は一言残して出掛けて行った。温泉地の旅館やホテルは、年末年始は予約が一杯で大忙しらしい。新年の三が日まで休みなしで、波子は逆に三が日まで休みだから、入れ違いになってじう。母は遅くなると、ホテルの料理の余り物を貰って来て晩御飯を済ませてしまう事も多いらしく、仕事に出かける時に「今日は夕飯の仕度はしなくて良いからね、ホテルの余り物を貰っていくから。」と言いおいて出掛けて行った。夜の8時半頃、一人で紅白歌合戦を観ていると母が帰って来た。二人で晩御飯を食べながら紅白を観る。番組も終わりに近付くと母が「やっぱり大晦日は年越し蕎麦を食べなくちゃね。」と台所に立っていった。少し経つと御椀二つに七味を持って戻って来た。「やっぱりお母さんのお蕎麦は美味しい、身体が温まってホッとする。」「良かった。」
「明日、お父さんのお墓参りをして二日の日には帰ろうと思う。」「そう、ゆっくりさせられなくて御免ね。」「ううん、お母さんが忙しいのは解ってたから。」
三月に入って、それぞれの自主練からコーチのスケジュールに従っての練習が始まった。皆がグランドに集まって話していると、佐野が来て「富田さん凄いじゃない。室内陸上での優勝おめでとう。」波子や階上も「そうそう、スポーツニュースで見ました。テレビ中継やってくれれば良かったのにね。」「タイムも良かったですよね。自己ベストを大幅に縮めて」と階上。そこへ安原監督が佐々木、山県と共にやってきた。監督が話し出す。「これからのスケジュールだが、今月末からの豊田記念招待には佐野、富田、紀平、坂上の四人。佐野、紀平は100と200、富田は100のみ、坂上は200のみに出て貰う。四月中旬からのプラチナシリーズには階上、酒井、山下、久家に出てもらう。久家以外は100と200、久家は100メートルハードルに出て貰います。以上。」コーチの佐々木が「ここに来て、我が国女子の短距離界はタイムを大幅に縮めて来ており、世界の強豪と肩を並べつつ有る。君達も昨年一年間でタイムを詰めているが、勝つ為には後コンマ何秒か縮めないと難しい。工夫しながら頑張って下さい。」「それから、紀平君への中傷が酷くなって来ている。紀平君は余り表情に出さないが、内心はかなり辛いものが有ると思う、庇ってやって欲しい。」波子が「ありがとうございます。」と小さな声で一言。
豊田記念招待は愛知県の中湊市で行われた。海外からはアメリカのアリアナ、イギリスのメイが、国内では澤部とパール電器の牧などが招待されていた。
100、200メートル共に波子が制すると、海外の二人が称賛してくれたのとは対象的に、ネットでの鬼退治と称する波子への中傷は膨らんでいった。澤部が100で三着、200で四着と敗れたのも波子へ風当たりが強くなった原因と思われた。
プラチナシリーズは完成したばかりの国立競技場で行われた。波子達応援団は観客席に入ると息を呑んだ。フィールドの緑とレンガ色のトラックの対比が美しい。入り口から続くスタンドの木の優しさも素晴らしいが、グランドもスタンドと調和して目を奪われる美しさだ。「ここで最初に走れる階上さん達が羨ましいわ。」佐野の言葉に波子たちも頷いた。
100メートル予選が始まった。階上が一組目に出て来る予定だ。富田が「あれっ、澤部さんが出てるんだ。この間走ったばかりなのにね。」「此の所、強いメンバーとばかり走って勝ってないからね、勝ちグセを付けに出て来たのかしら。」結果は予想通り楽に一着だった。階上はゴール前伸びて二着に入った。皆で喜んでいると、突然30歳位の男が現れ波子の前に立ち塞がった。「紀平ってお前だろう、いい気になるなよ。大体、鬼が人間と一緒に走っちゃいけないんだよ。」佐野が割って入ろうとしたら、それを制して山県が間に入った。「言い掛かりを付けるんじゃない。紀平君はれっきとした人間の女性なんだ。」「人間が俺の応援する澤部美帆に勝てる訳ないんだ。たった一年足らずで追い越せる訳ないだろう。」「持って生まれた才能が違うんだ、イチャモンつけるな。」「なんだと。」と叫んで山県を押し退けて波子に掴み掛かると、思い切り突き飛ばした。波子が段差を踏み外すと、尚も蹴ろうとして来たのを山県が押さえた処に、佐々木が呼んだ警備員が取り押さえた。
スマホで撮った映像がSNSに拡散されると、ネットに「頭を打って死ねば良かった」とか「同情を誘う為にわざと倒れた」とか悪意の書き込みが一段と増えてしまった。
波子は足を踏み外した時に捻挫してしまい、全日本選手権に出られるか危ぶまれた。全日本選手権は東京オリンピックの予選を兼ねており、これに出られないとオリンピックにも出られない事になる、波子は治療に専念する事にした。
プラチナシリーズで、サンシャイン工業の選手達は大躍進した。今迄は短距離では予選突破も難しかったのが、四人全員が決勝進出し優勝は100、200共に澤部が制したが二着、三着はサンシャインの選手で分け合った。又、100Hは大会新記録で久家が勝利した。
最終日が終わり祝勝会をやろうと言う事になった。コーチの佐々木が「紀平君は未成年だからお酒は駄目か。」と言うのを波子は、「4月15日が誕生日ですからもう20歳を過ぎました。」と答えた。
場所は監督行き付けの「大将」に決まった。店に入ると「いらっしゃい。」の威勢のいい声が迎えてくれた。それぞれが酎ハイだの、ビールや日本酒だの、ワインだのと勝手に注文し、取り敢えず監督の掛け声で乾杯した。乾杯が終わると店の親父が「紀平波子ってのはあんただろ、アメリカやジャマイカ相手に良く勝ってくれたね。半年遅れのお祝いだ。」と言って全員に焼き鳥をサービスしてくれた。
「ありがとう御座います。」波子がお礼を言うと親父は「お礼を言いたいのはこっちだよ、俺はスポーツ観戦が趣味みたいなもんだけど、陸上女子の短距離走で世界を相手に勝利するのを見たのは、生まれて此の方初めてだからね。小気味良かったね。」その後佐々木が「みんな力が付いて来たな。もう、長距離チームにも胸を張れるよ。」監督も「そうだね、サンシャインといえば駅伝、マラソンという会社だったからね。紀平君が入社してくれたのも大きかったね。」みんな酒がまわって来た中で山県が「紀平君も結果が出ているのは嬉しいのだけれど、ネットで叩かれているのを見ると可愛想で、陸上に誘ったのが間違いだったんじゃないかと思ってしまうよ。」「そんな事ないです。新人の私を皆んなで支えて仲良くしてくれるし、一年足らずで海外にも連れて行って貰えたし、田舎に居たんじゃ体験出来ない事を色々経験させて貰って感謝してます。」「それに知らない人に悪口を言われると、逆に力が出るみたいで何クソと思っちゃいます。」波子は話しているうちに涙が出そうになって来た。「私自身、本当に先祖は鬼だったんじゃないかと思う時もあるんです。」少し落ち着いたのか波子がゆっくり話し始めた。「父の母親であるお婆さんに聞いたんですけど、私が住んでた田舎のもっと山奥には鬼の末裔が住んでいて、山に入って来る人間を捕まえては子供を産ませて、鬼の血を薄くしていったと云うんです。村の神隠しは殆ど鬼の末裔の仕業だと言ってました。当時、子供だった私を怖がらせる為だと思ってたけど、案外本当だったかもしれません。」波子は感情が昂ぶって来たのか、涙声になって続けた。「でも私の血ですから同仕様もないなに、なんで赤の他人が私を虐めるんですか。」波子は遂に泣き出してしまった。今まで我慢に我慢を重ねて来たのだろう。堰を切るように涙が溢れ出てきた。佐野が「初めてのお酒だけど、ハコちゃん泣き上戸か、思う存分なきなよ。」「さあ、そろそろお開きにしようか。ころんで怪我なぞしないように帰ってくれ。寮ぐみは紀平君を頼んだぞ。」監督の掛け声で散会した。
波子の捻挫は大分良くなって来たが、無理をすると全てが無駄になってしまうのを恐れて、日本選手権で波子は100メートルだけに出走する事になった。オリンピックの予選を兼ねているので、自動的にオリンピックも100メートルしか出られない。問題はネットでの中傷が増えている事で、安原監督は看過出来ないとして、日本陸連に紀平への誹謗中傷を辞める様会見を開く事を願い出た。しかし、陸連の理事の中には、関東女子体育大学の出身者も多く、なかなか会見を開いてもらえないでいた。
そんな折に、海外の女子アスリート達がビデオメッセージで、紀平波子への悪質な中傷は止める様メッセージを送って来た。内容は「日本の皆さんにお願いが有ります。私達の仲間の紀平波子さんは、ドーピング検査で薬物は陰性で染色体も完全に女性のものです。ドミノ配列に一か所変異が有る様ですが、それは個性の一つでしかありません。ホルモンにも異常は無く完全に女性を表わしてます。もうこれ以上苦しめるのは止めましょう。彼女は偉大なアスリートです。オリンピックで私達と平常心で戦える事を、強く願います。」と言うものだった。
波子たちが新国立競技場で走れる日が来た。
今日は100メートルの予選だ。波子は四組目の出走だ。足の痛みも無くタイム11秒08で圧勝した。一組目の佐野、二組目の富田も一着で既に予選を通過している。会社のグランドに戻るマイクロバスの中で、コーチの佐々木が「ネットでの攻撃は減ったかい。」「海外からのビデオメッセージのお陰で大分少なくなりました。」「しかし、本来は味方になるべき日本人から攻撃されて、海外の選手が味方してくれるって一体どうなってるのかね。」佐々木の言葉に一同大きく頷いた。
準決勝は波子に佐野、富田と三人が通過し、決勝八人の内三人がサンシャイン工業の選手が占める結果となった。スタンドで観戦していた安原監督が、その場でインタビューされると言う異例の展開となった。安原は謙遜して、コーチの佐々木とトレーナーの山県の力を強調していた。
決勝は波子がスタートから先頭に立ち、二着以下に差を付けてゴールした。タイムは10秒62でオリンピック参加標準記録の11秒06を大きく上回った。二着の澤部は初めて11秒を切る10秒99、三着の佐野も11秒02で共にオリンピック出場を決めた。
帰りのバスに乗り込む時、暴漢が「澤部美帆の敵だ。これを喰らえ。」と言って石を投げて来た。波子が避けると、波子の陰にいた山下の頭に当たって怪我をしてしまった。暴漢は山県、佐々木に押さえられ警備員に引き渡された。救急車を呼ぼうとしたが山下が大した事ないと言うので、競技場に戻り医務室で応急処置をしてもらう事にした。監督の安原が付き添いで残り、他の人は帰って貰う事にしたが、波子が責任を感じて一緒に残りたいと申し出た。山下も波子と同じ寮生活という事もあって、安原はこれを了承した。
医務室で応急処置をしてくれた医師が、簡単な検査では脳震盪とかは無さそうだが、取り敢えずX線くらいは撮っておいた方が良いと言って、住んでいる所の近くの病院を聞いて来た。千葉海洋病院を頼むと、早速電話で病院に着くのが遅くなるがと断って予約を入れてくれた。タクシーの中で波子は山下に「私のせいで怪我をさせて御免なさい。」としきりに謝った。山下も安原も波子のせいではないと言ってくれたが、波子は自分だけなら良いが、同僚にまで迷惑を掛けた事が許せなかった。病院に着くと、看護師が車椅子を用意していて直ぐにレントゲン室に運ばれた。撮影が終わると、脳神経外科の医師のもとに移動して少しの間待たされた。医師から呼ばれると、波子は安原に待合室で待つように言われた。暫く待つと二人で出て来て、山下は異常はないが様子を見る為一晩入院する事になると告げられた。入院に必要な物は看護師に揃えて貰うので、安原からひとまず帰るように言われた。納得して寮に帰り一人になると、もうこれ以上走るのは続けられないのかなと悲しくなり、涙が出で来た。暫く一人メソメソしていると、富田が山下の様子を聞きに来た。「紀平さん泣いてたの、眼が赤いよ。山下さん良くないの。」「ごめんなさい、そうじゃないの。山下さんは様子見で一晩入院するけど、今の処大丈夫そう。」「良かったわね。」「みんなに凄く優しくしてもらっているのに迷惑ばっかり掛けてるから、何故か悲しくなって来ちゃって。」「そんな事ないよ、みんな紀平さんの事好きだから、迷惑なんて考えた事もないよ。」「そんな事言われると、又涙が出て来ちゃう。」「紀平さんは、あれだけ強いのに偉ぶらないし、静かで素朴だし、悪く言うのはネット上の何も知らない阿呆共だけだからね。」「とにかく、山下さんが大した事なくて良かった、元気出しなよ。」富田はわざと明るく笑いながら波子の部屋をあとにした。
オリンピックが始まった。陸上競技はオリンピックの前半で、選手村では有力な選手の顔も何人か見られた。波子はすれ違った選手の中や食事中に挨拶に来てくれる、激励のビデオメッセージをくれた選手に、一人一人身振り手振りでお礼を伝えた。
100メートルだけに出場する波子は予選から全力で走り、他の選手を寄せ付けない強さを見せた。準決勝で世界記録にあと0.3秒差まで詰め寄るタイムで走ると、世界各国のテレビ局やスポーツジャーナリストが、絶対に破る事が出来ないと云われていた世界記録
10秒49を更新するのではないかと期待された。
女子100メートル決勝を明日に控え、トレーナーの山県は部屋で佐野と波子の準決勝の走りをVTRで観ていた。ノックの音がしてドアを少し開けると、波子が緊張した顔で立っていた。山県は急いで波子を招き入れた。「お願いが有ります。私を抱いて下さい。」山県は思わず波子を見つめた。波子は俯向いたまま、しかし強い意志を持っているようにじっとしていた。「でも、明日は大切な決勝だよ。」波子は自嘲気味に「大丈夫です。私、鬼の血を引いてますから。」山県は思わず波子を抱き締めた。抱き締めたまま波子をベッドに導いた。ゆっくり波子の服から下着に手をかけていく。山県は自分も服を脱ぐと、波子の唇を求めた。口づけしたまま下腹部に手をやると、秘めた部分は充分に濡っていた。潤いを指で掬い上部の小粒を軽くなぞってやると「うっ」と小さく息をつめた。身体を繋いでやると「ああ」と言いながら腕を巻き付けて来た。優しく優しく抽挿を繰り返してやると、やがて波子が大きく体を反らし山県の男性自身を強く締め付けて来た。山県は思わず放出した。山県が身体を離そうとすると、波子が「お願いです、そのままじっとしていて。」と言うので、二人で暫く抱き合ったままでいた。すると山県は男の部分が回復して来るのを感じた。今度は二人激しく抱き合いやがて果てた。少しまどろんでいると、波子はベッドから抜け出し浴室に消えた。やがて浴室から身支度を調えて出て来た波子は「何も言わないで下さい。」と言って部屋を後にした。
決勝はいつになくレベルの高い決勝に成りそうだった。佐野は準決勝で11秒03と大幅に自己ベストを更新しながら、決勝の舞台に立てなかった。澤部でさえ10秒98と二度目の10秒台だが、全体の六番目というレベルの高さで有る。スタート位置の後方でめいめいがストレッチなどで身体をほぐしている。スターターがスタート台に立つと各々がスタート位置に来る。「オン ユア マークス」「ゲット セット」「ゴー」の声と同時にバーンというピストルの音。八人が一斉に飛び出す。20メートル付近から波子が少しリードする。ベロニカ、アリアナ、サンディが追い上げようとするが、逆に差が広がって行く。残り10メートルで波子の勝利はもう確定している。更に差を広げてゴール。タイムはなんと10秒43、圧倒的な世界新記録だ。波子はゴールしてもそのまま走り続け、通路に消えた。まるで一切を拒否するかのように。スタンドはざわめき、各国の実況は一斉に世界新の走りを伝えている。二着のベロニカも三着のアリアナも波子を捜しうろたえた様子を見せている。ドーピング検査をする為控室に来た、アンチドーピング機関の係員も波子を探している。
その日から波子は行方知れずとなってしまった。ドーピング検査違反で波子の金メダルは剥奪され、世界新記録も取り消された。
海外からは認められたが、日本の心無い人達の中傷に波子は潰されてしまった。山県が呟いた。「波子は鬼の末裔かもしれないが、波子を潰した人達、本当の鬼はどっちなんだろう。」