*4 恋に絆された俺
二人一組になって課題に取り掛かるように、と先生が指示した日がある。
俺はその言葉を聞くなり、隣の席に座る友人とアイコンタクトで内約を取り付けた。
自由に相手を選べる際、異性と組む者は少ない。グループ決めでもそうなのに、ペアとなれば尚更だ。俺が在籍するクラスではほぼ皆無とも言えた。
同性で集まって、ペアを組むことが暗黙の了解のような気さえする。
けれども、誰もが周囲に馴染む選択をする最中で彼女だけは違った。
「アレクセイ様! まだお決まりでないのでしたら、私と組んでくださいませんか?」
最前列の左端を常に陣取る彼女は、先生が教室を後にするなり立ち上がって、一直線に俺の元まで駆け寄って来た。
それこそ「一緒にやろう」と誰かが口火を切る隙もなかった。
まだ決まっていないのなら、と断り文句を入れてはいるが、そんな時間を用意してくれてはいないのである。
けれども、俺は既に言葉なしの約束を取り付けている。先約があるのだから、当然彼女の誘いは断る。
「――わかった」
それなのに、可笑しなことに頷いてしまう俺がいた。
*
俺は時々、自分が分からなくなる。
意志に反する言葉が飛び出し、誤った発言を否定できずに終わる。
それが俺自身の思いだったのかと否定を前提に疑いながら、終いにはどれも過ぎたことだと受け入れてしまう。
そうなる原因はすべて彼女――イェルチェ・ミラーだ。
たった一度手を差し出しただけで一目惚れしたと言い、俺を優しいと評する。
俺を前にして、俺じゃない何者かを見ているような――俺とは見えてる世界が違うだろう女子。
彼女とデートとも言えてしまう外出をした日を皮切りに、俺は彼女を可愛いとすら思ってしまう。
その度に否定して「初心に帰れ」と唱えている。
彼女はいつだって、俺を見ているようで見ていない。
うっとりと蕩ける眼差しは、恋をしている行為自体に溺れているのではないか。
彼女の理想とする恋の相手が、偶々、ちょっとした気分の問題で優しく思われる行為をした俺だった。
恋に恋することをやめて冷静な状態で俺を知れば、想いを募らせていた期間に比例した落胆でもって、自分の愚かさを理解するだろう。
だから俺は、流れるままに己の有り得ない発言を受け入れてしまうのに、突如沸き起こる浮付いた感情を否定し続ける。
そうしていたかったのに――
「アレクセイ様! 私、以前からお願いしたいことがあって!」
「……なに、ミラーさん」
次の授業が普段の教室ではなく校庭になったので、俺たちはぞろぞろと廊下を歩いていた。
授業の合間の休憩時間に移動を済ませるため、示し合わせていなくともクラスメイト総出で、ぞろぞろ廊下を闊歩する。
そんな中で彼女はいつの間にか俺の隣を歩いていた。
その場にいたはずの友人は俺が振り返ると憎たらしい笑みでひらひら手を振る。
「アレク、とお呼びしたいのです」
「は……?」
思わず足が止まりそうになって、けれどもクラスメイトの行進が左右前方の視界をかためていて、廊下に鳴り渡る足音が動き続けろと俺に命令する。
「だめ、ですか……?」
彼女の両手は胸元で祈るように組まれている。だから、これは彼女にとっても大事な話のはずだ。
こんな、がやがやと左右前後が喧しい廊下で、さしたことない雑談のように話すものなのか。「待て」と言って彼女の口を閉ざしたい。
しかし、ここであからさまに動揺してしまうのも、それはそれで問題な気がしてしまう。
「や、別に」
結局、俺は明確な言葉を選べなかった。
「それは、お呼びしても良いと?」
「いや、ああ……まあ……うん」
(は? 待て待て、駄目だろ俺)
今度は自分自身に「待った」をかけた。
彼女には出来ずとも、自分自身になら制止をかけられる。
「ありがとうございます! アレク!」
それなのに、弾けた笑みで見上げてくる彼女を前にすると、俺は俺でいられない。
(呼び方くらい……いいのか、別に……)
そうして今回もまた、俺は彼女のお願いを受け入れる。
「私のことも是非名前で呼んでくださいね!」
「……気が向いたらな」
「はい!!」
とはいえ俺にはこれっぽっちも彼女の名前を呼ぶつもりはなかった。
それは、他人らしく呼ぶことで周囲にも彼女自身にも言い聞かせていた俺たちの関係が、180度変わってしまうと察していたからだ。
絶対に彼女の名は呼ばない。
「アレク!! 待ってください! 私、アレクにとっておきのお話があるんです〜」
そう心に誓っていたのに。
「――危ないから走んな、イェルチェ! 俺は逃げないんだ、か……ら……」
雨上がりの日の外回廊。
授業を終えて、家に帰る前に先生に質問しにいこうとひとり歩いていた俺を見つけた彼女は、雨水で濡れた足元に注意を向けることなかった。
それこそ飼い主を見つけた犬のように、瞳を輝かせて一直線に駆け寄ってきた。
薄らと広がる水溜まりに足をとられて、身体が前のめりに倒れていく彼女を間一髪で助けた俺は、咄嗟に口にしていた。
彼女の名が自然と出てきた。
彼女を前にしていなくとも呼んだことは一度もないのに、彼女の名を呼ぶのが自然だった。
ミラーさん、と距離をもって呼ぶことの方が違和感でしかなかったのだ。
気づいて、自覚してしまった。
――俺はついに、俺と彼女の恋を否定することを諦めた。
俺と彼女の間にある浮付いた感情を正直に認めてしまえば、その後の進展はあっという間だった。
彼女は出逢った当初から俺と恋仲になることを望んでいたのだから、俺が変わるだけで一足飛びに変わっていく。
恋ではないと否定し続けた分に比例して、タガが外れたかのように彼女にのめり込む。
そんな俺は、さぞ滑稽に映っただろう。
もうクラスメイトの関心を引き続けるのはごめんだったから、俺は堂々と交際宣言をした。
以降も好奇の目は当分消えなかったが、彼女と過ごしている時に俺が気にすることはなくなった。
俺しか見えていなかった彼女のように、彼女ひとりが俺の視野も感情も独占していた。
そうして俺たちは、学院の卒業式で互いの両親を紹介し合う。
仕事に慣れて生活が安定したら結婚を考えているとも話して、何方の親からも歓迎をされたのだった。
*
一目惚れ、という言葉は真実であって偽りだった。
彼女は俺ではなく兄に一目惚れをしたのだと、漸く理解した。
乾涸びた息が溢れる。
窓の隙間から入り込む空気の細い風音。
遠ざかっていくのに、嫌に鼓膜を刺激する兄の足音。
彼女が手に出来ない場所に立つ、兄の嫁とその子どもの無邪気な会話。
そんな雑音に紛れて聞き逃してしまうものだったのに、彼女は振り向く。
眉尻を下げて、大きな瞳を恍惚に潤ませた彼女が心配だと表情で語って見上げてくる。
堪らず抱き寄せた。
「アレク? どうしたの?」
「なにも。ただこうしたかっただけ」
「もう。ご両親を待たせてるのに駄目だよ、こんなところで」
ぷくりと柔らかな頬を膨らまして怒った様子でいるが、頬は赤く色付いたまま。
俺の背に腕を回して瞼を閉じた彼女は、相も変わらず夢見心地だ。
そんな彼女を前にしていると笑えてくる。
(これからも、俺を見てろよ。兄さんを見てるつもりで、俺だけを見てろ)
ようやく合点がついた。
俺を前にして幸せを噛み締める彼女の違和感に。
昼中堂々と起きていながら夢をみている彼女が馬鹿馬鹿しくて。
何年と月日を経ても幻想の俺を思い描いている姿に呆れて。
いつの間にか彼女の意に沿う発言を口にするようになって。
今では、一貫して変わらぬ彼女を喜ばせてやりたくなる。
そんな風に変わってしまった自分自身を悔しく思った。
俺は愛してしまったのだ。
一目惚れした俺の兄に変わらず恋心を抱き続ける一途さに。
叶うあてのない恋をその弟で叶えようとした盲目な姿に。
見目しか似ていない俺の全てが兄そのものだと勘違いしている彼女に。
そんな、俺にも兄にも幻想を抱いている彼女の、愚かだからこそ直向きな眼差しを愛してしまったのだ。
彼女は夢をみるように兄に恋をしている。
兄に恋しているようで実際は俺に塗り替えられているのに、盲目ゆえに気づいてもいないのだろう。
俺はそんな彼女を愛していて、彼女も兄を重ね合わせた俺を愛している。
つまるところ、相思相愛なのである。
俺はそれを喜ばしく思う。