*3 初恋を叶えた私
二人きりでデートをしたからといって、劇的に何かが変わるでもなく。
変わり映えしないと思ってしまう日々にも、振り返れば緩やかな変化はちゃんとあって。
そうして、彼との出逢いから一年が過ぎ去った時、私たちの間には明らかな変化が生まれていた。
「――イェルチェ」
彼が私を名前で呼ぶようになったのだ。
それに、時々は彼から声をかけてくれる。
「アレク! お疲れ様です〜」
私も、彼を愛称で呼ぶようになっていた。
愛称で呼んで良いか尋ねた時、断られるだろうと思っていた。
ダメもとで、拒絶される不安に緊張しながらも口にした私は、彼からの承諾をもらえたことに飛び跳ねる勢いで喜んだ。
その勢いのまま「私のことも名前で呼んでほしい」と伝えたのだが、彼は曖昧に否定した。
そもそも、私の申し出に了承したこと自体に彼自身が驚いていた。
話の流れに呑まれて意志に反した言葉を口にしてしまったのだろう。家に帰ってから彼の思いを遅れて察した私は、少し落ち込んだ。
(でも、次の日には名前で呼んでくれたんだよね)
あの時の喜びは忘れられない。
一日の授業を終えた帰宅時間。
偶然彼の姿を見つけて、帰る前に少しだけ話したくて駆けだした時、私は足を滑らせた。
不安定に宙に浮いた体に、視界を埋め始める砂埃混じりの水で濡れた足元。
痛みに耐える為に固く閉じた両目を開いた時に映ったのは、心配と怒りで震えていた彼だった。
待ち構えた痛みが生じることはなく、代わりに全身から彼の切迫した熱量を感じていた。
私を抱き止めた彼の両腕は苦しいほどに力強く、温もりに満ちていた。
危険な真似をした幼児を叱るように私を注意する最中で「イェルチェ」と私を呼んでくれた。私を受け止めてくれた。
以来、彼は名前を呼び続けてくれている。
「先ほどの得点、格好良かったです〜!!」
雪溶けを終えた春。
待ってましたと言わんばかりに、クラスの男の子達は校庭でボール遊びを始めていた。
そこには彼もいて、私はそんな彼を校庭の隅から眺めていた。
緩いルールで始めたはずの試合を終えて、少し離れた水場に向かう仲間とは別に、彼は私の元にやってくる。
用意周到なことにタオルを持参していたので、首周りの汗を拭いながら歩いていた。
もう片方の手には上着が乱雑にかかっている。
一度動きを止めてしまえば、汗も身体も途端に冷え出す。
彼が風邪を引く心配はしなくて良さそうと安堵して、緩くうねる髪が汗で真っ直ぐになった姿も、それをタオルで拭って乱れたところもまた素敵だと眺めていたら、声をかけてもらうまで惚けてしまっていた。
私はぱっと立ち上がって、感想とともに手を合わせる。
得点を競い合うスポーツごとに興味はないけれど、俊敏に立ち回って活躍する彼の姿はいくらでも見ていられる。
ひとつひとつの動きにどういった意味があるのかは分からなくとも、様になっていて格好良いのだ。
相手にボールを取られて悔しそうにする姿もまた格好良い。
けれど、そんな感想を彼は喜ばないだろう。私にだって、それくらいの配慮はできる。
罰が悪そうにそっぽを向いて、頭を掻いて、それから「あんがと」と視線も合わせずに呟く。
恥じらっているだけだから、可愛いなと思った彼への感想も心の中で留めておく。
「俺らまだやるんだけど、いつまでいる気?」
今度もやはり素っ気ない。
彼を知らない人が聞いていたら、観覧を拒否されていると受け取りそうなものだが、私は彼にそんな意図がないことを知っている。
「今日は予定がありませんから、最後までアレクの勇姿を見届けます! でも、無茶はしないでくださいね!」
仲間内で楽しく遊んでいるはずなのに、時々妙に荒っぽい。時間が経つにつれて真剣になって、それゆえに力任せになる時がある。勝ちたい一心で、考えるよりも先に身体が動いてしまうのだろう。
私はその度にはらはらする。
こういう時に彼が怪我をしてら、私は何をしたら良いんだろう。真っ先に駆けつけることはできても、知識がないから手当てはできない。
きっと泣き喚くことしかできないから、想像だけで、無力な自分が嫌になる。
いつだって彼は手を差し伸ばしてくれるのに、私はそれを返せない。
私は出会った時から今日に至るまで、そしてきっとこの先も、彼の優しさに救われていくのだろう。
「なら、帰りは送ってくから。……きっと暗くなるし」
「まあ!」
「そんで、これ」
続けたかった喜びの数々を彼は物で塞ぐ。
ずい、と彼が私の顔に押しつけたのは、片腕にかけていた上着だ。
私の視界を上着で埋めて、私が両手で掴むと彼が離れていく足音がした。
慌てて掴んだ上着を胸元まで引き下げて、息を胸がいっぱいになるまで吸う。
「――アレク!! これっ」
「ぜってー着ろよ! 嫌でも着ろ」
振り返って言うなり、彼はスピードを上げて走り去っていく。
(嫌なわけないって知ってるのに)
遠のいていく後ろ姿を眺めて、戻ってきた友人たちと合流しては楽しげに戯れ合う彼の姿を他所から見る。
手にしていた上着を握りしめていることに気づいて、慌てて手を緩めた。
まだそんなに時間が経ってなかったので、皺にならずに済んだらしい。
ほっと息を吐き出すと、何となく遠くの彼から視線が向けられている気がして、いそいそと上着に腕を通す。
指先まですっぽりと覆われて、ぶかぶかだった。
へへっと笑った時に口元に寄せた手から、正確には上着の袖口から、彼の香りが鼻先を掠めた。
毎日彼を目で追っているから、いつだって思い出せる。
この上着を着て登校する眠そうな朝。
身震いして手をポケットに突っ込む姿。
上着を片手に持って教室を後にする溌剌な下校時間。
けれど冷たい風が吹く外に出ると慌てて袖を通す彼。
馴染み切った彼の香りとその温度を身体中から感じて、私はその場に蹲る。折り込むように顔まで埋めると、吸い込む息全てに彼を感じれた。
私は幸せ者だ。
胸がいっぱいになって、張り裂ける寸前まで息を吸う。
だから、どうしようもなく息苦しくなった。
*
「あんさ、イェルチェ。俺ら、付き合おうか」
声を掛け合わなくとも、授業終わりには一緒に帰るのが当たり前になっていた。
帰り支度をしていた私の前で立ち止まった彼は、私が見上げると、そう口にした。
「――――付き合う、とは?」
文脈からして、そういうことだろう。
私がずっと望んでいたこと。
けれど、彼は相変わらず素っ気ない。
今回も気恥ずかしさを紛らわすための態度のはずだ。
それでも、本当に彼の恋人にしてくれるのだろうかと疑ってしまって。
信じたいけれど、あと一歩の後押しが欲しくて、つい問いかけた。
「何で俺が言うと戸惑ってんの」
そんな私に少し不機嫌に口元を歪めた彼は、言葉にするなり面白おかしく笑い出す。
向けられた眼差しだけでなく、笑い方も柔らかかった。
私を彼の胸のうちに受け入れてくれる笑み。
誰にも見せたくないと思ってしまう、私にだけ向けてくれた笑顔。
「えっ、え、まあ。アレク、本当に?」
「おう、本当。今日から恋人同士ってことで、良いよな」
「〜〜〜〜っ!! はい! はいぃッ!!」
嬉しさのあまり、言葉にならない。その代わりに表情と身振り手振りで喜びを表す。
髪を振り乱す勢いで何度も大きく頷いた。きっと可愛いと思ってもらえる前に怖く思われた。
「手だして。左手」
大袈裟だと言うように苦笑いを浮かべていたけれど、彼は言及しないでくれる。
言われたままに手を出せば、手のひらではなく手首を掴まれた。
「――?」
手を繋ごう。
そう言われたのではなかったと残念に思って、上へ上へと引き上げられていく左手に私は首を傾げた。
流れに沿って体勢を変えると、教室の後方を向く形になる。
表情はそれぞれ違っても大勢のクラスメイトが一様に私たちを見ている。
仲の良い友だちからは私たちの関係を興味津々に聞かれていたけれど、彼と話している最中のクラスメイトの様子を気にしたことはなかった。
私にとっては彼が全てで、彼との会話にいつだって全力だった。
だから、こんなにも注目されていたなんてと今更ながら驚いた。
「ってことで、俺ら付き合ってるからな、諸君」
掲げた手は、挙手で、クラスメイトへの宣誓だった。
私が座る席はいつだって教室と廊下を繋ぐ扉のすぐそばだ。
言い逃げをすることに決めたらしい彼は、クラスメイトの反応を待たずに大股で歩き出す。
いつの間にか繋がれた手に引かれて私も廊下に出たところで、弾かれたような歓声が教室内から沸き立った。
私以上に喜んでくれているようにも思えた盛り上がりに、彼と二人で笑い合ったのだった。
*
学院の卒業式で、私は参列した両親と彼を引き合わせた。
彼もご両親に私を紹介したくれた。
恋人であり、いずれ結婚する婚約者として挨拶をさせてくれた。
彼の母は甘いミルクティーのような瞳を嬉しそうに細めていて、厳格そうな彼の父は、撫で付けた渋いブロンドの髪が高貴な雰囲気を醸し出していた。
彼の父が「今度うちに来なさい」と話し、彼の母が「晩餐会を開きましょう」と歓迎してくれた。
そうして、私は新調したドレスに身を包んで、彼の迎えで彼の邸に招かれた。
彼の邸はちょっとした庭付きの一軒家。
貴族の邸ほど大きくはないけれど、来客用の一室や使用人部屋もあるだろう規模で、庭も建物の外観も手入れが行き届いているのが一目でわかる。
彼の案内でホールを進む。
行き先は繋ぎの応接間だ。そこに家族が集まっているというので、私はどきどきしていた。
歩いた先の扉が見えて、ここなんだろうなと緊張に胸を鳴らせていると、ガチャリとドアノブが下がる音が響く。
次いで出てきた人物に、私は息を呑んだ。
「ああ、アレクセイ。……と、そちらが婚約者どのか」
「そうだけど、何処行くんだよ。これから紹介するって話したろ」
「悪い、ディーが庭で遊びたがるんだ。先に父さんと母さんと話していてくれ」
「ふぅん。ディーの希望ならしょうがないか」
そう言って、半歩端に寄った彼の横を通って、私の前に立つ。
「折角来てくれたのにすまないな。また後で挨拶させてくれ」
背を屈めて目線を合わせてくれたその人は、私に柔らかく微笑んだ。
時が止まったかのように微動だにせずいた私は、はっと瞬いて、慌てて頭を下げてお辞儀をする。
不自然だった私の様子は緊張によるものと思ったのだろう。
「ゆっくりしていってくれ」と言い残して歩き去るその人の後を、ひとりの女性が私たちに会釈をしてからついていく。
私は堪らず、胸に手を当てた。
どく、どくと身体中のあらゆる血脈が波打って、過去の記憶を呼び覚ますように騒ぎたてていた。
――――ようやく会えた。
私の初恋のひと。
あの日見た左手の薬指に嵌めてある指輪は変わらなかった。お揃いの指輪が小さな子どもの手を引く女性の指元で輝いている。
羨ましい。
けれど、最初から分かっていたことだ。
初恋は叶わない。
だから、忘れられない初恋のひとの義妹になれること自体が幸運で、私は彼に感謝をしている。
あの人と同じ瞳を持って生まれた彼。
あの人と同じ髪を揺らす彼。
あの人と同じ声質で私の名を呼んで、愛を囁いてくれる彼。
本当に、何一つ変わらない。
あの人に出逢って初恋をして、彼に出逢って運命を感じた。
二度目の初恋だった。
いつだって、私を助けてくれたあの人のように、彼は私に手を差し伸ばしてくれる。
――そんな彼を、私は愛している。