*2 恋を否定する俺
彼女を名前のある個人として認識したのは、二度目の出逢いだった。
「貴方が好きです。一目惚れなんです。貴方に助けていただいて、貴方の優しさに惹かれました」
開口一番、彼女はそう話した。
恋する乙女とは正にこういった状態を指すのだろうと思ってしまった。
胸元で懇願するように両手を組んで、まるで二人だけの世界だというように俺だけを見つめて。
上気した頬は白い肌を一層際立たせて、きらきらと輝かせた瞳は盲目的で、どうにも夢見心地だった。
それを可愛いとは思えなかった。
「は? 助けたって……いつ?」
そんな感情が、元々素っ気ない俺の物言いに嫌悪として乗っかる。
「入学式を終えた帰り道です。私、人波に酔ってしまって。貴方に助けていただいたおかげで、とても落ち着けました」
ああ……と声に出さずに息を漏らす。
覚えてないほど遠い記憶ではない。
昨日の話だ。
一日に何度も困っている様子の人に遭遇することなんてないので、記憶にはある。
学院の入学初日で騒々しく妙な熱気が蔓延する人波に押されて、今にも倒れそうなほど青褪めた人を横目に通り過ぎた俺は、数メートル歩いてから、どうにも気掛かりで振り返った。
そうして道端で蹲っていたその人に駆け寄った。
大丈夫ですか、と声をかけて手を差し出し、人の往来を避けた場所に移動して、その人が落ち着くまでそばにいた。
――それだけだ。
苦しげに細まる瞳は涙が滲んでいたし、口元をハンカチで抑えたその人は言葉も出ないほど青褪めていた。
具合の悪い異性をじろじろと不躾に観察するほど礼儀知らずではないので、視界の端に捕らえておく程度で横にいただけ。
頬を染めて恍惚に見上げてくる目の前の人物とは第一印象が違いすぎて、同一人物とは思わなかった。
よくよく見れば輪郭や顔のパーツは同じ――かもしれない。
「……そんなこともあったかも。けどさぁ、そんなことで好きになられても迷惑なんだけど」
しかと覚えてはいるが、敢えて曖昧な言葉を返す。
馬鹿馬鹿しいとも思った。
たった一度の気まぐれな優しさで、恋を口にする彼女が滑稽に思えた。
(俺の何を知ってるんだか)
困っている人を見かければなりふり構わず真っ先に駆けつけるような聖人君子ではない。
偶々、目についた人が気になった。
今にも倒れそうだと思って、そう思いながら歩いていたら、なんとなく後味が悪くなりそうだと思い立った。
だから振り返った。
俺の気分の問題で、彼女を心配したわけじゃない。
「どうしても一番にお伝えしたかったのです。貴方が差し伸ばしてくれた手に触れて、貴方の優しさに救われて、私は運命を感じました。一目惚れなんです」
けれども彼女は俺を優しいという。
何も知らないから。
俺の内心を的確に想像できる関係性ではないから、たったひとつの行動だけを俺の全てと思い込んで、俺を優しいと評価する。
ほぼ初対面の相手に冷えた態度で突き放してる今の俺を前にしても、彼女は変わらない。
「あっそ。俺は君に興味ないから。こういうの、迷惑だと思ってるし」
「そうですよね。突然の告白になってしまったことは謝ります。私、どうしても伝えておきたかったのです。昨日はお礼も言えませんでしたから」
しゅん、と音を立てるように急速に気落ちした彼女は昨日のように小さく弱々しい存在にみえた。
なんだか俺が悪者に思えてきて、それこそ気分の問題で。
「……礼は受け取っておく」
唐突な告白は隅に置いて昨日の礼を素直に受け取ることにした俺は、ぱっと表情を輝かせた彼女に、表情筋が険しく反応した。
面倒な事態を自ら招いてしまったと瞬時に後悔したのだ。
「ありがとうございます! 私、気が逸ってしまって自己紹介もしておりませんでしたね。イェルチェ・ミラーと申します。イェルチェと呼んでください!」
「……俺はアレクセイ・ビロッセ。他人らしくビロッセで良いから」
「アレクセイ様! 素敵なお名前です〜。私、アレクセイ様に興味を持っていただけるよう頑張りますので、まずは友達からよろしくお願いしますね!」
「…………ああ、うん。そんじゃ」
もう何も言えないと呆れた俺は適当に相槌をうって、その場を離れる。
人が集まり出す、授業前の朝の教室。
そのど真ん中で始まった告白話を一人残らず興味津々になって、固唾を呑んで終始見守っていた。
俺も逆の立場ならそうしていた。
そんなクラスメイトは俺が歩くと、即座に道を空けてくれる。
こんな形で注目を浴びるなんて嫌な気分だ。
講義が始まるぎりぎりまでこの場を離れることに決めた俺は、開け放たれた扉から廊下に出る間際、視線だけを後ろにやる。
彼女は、新たなクラスメイトの好奇に満ちた視線が気にもならないらしい。
近くの席に腰をおろして、僅かに視線を落として、頬に手を添えて、うっとりと微笑んでいた。
俺との会話を幸せそうに噛み締めているんだなと思った。
彼女は俺を見ていない。
俺の言葉を真に受け止めていない。
何処までも盲目に、幻想の俺を見つめている。
ここまでくると憐れにも思った。
*
「お〜い、見てたぞ〜」
「……なんだよ」
「ついにデートか〜! もう付き合っちゃえよ、お前ら!」
ベルトマ工房の新作発表会に行けることになった俺は、友人の三日月に細まった両目に緩んでいた顔を顰める。
「デートじゃない。俺が外したチケットをミラーさんが一枚余分に持ってたから有難くついてくだけ」
「おうおう。それを世間はデートって言うんだぞ」
(これだから嫌なんだよ……)
俺はどうやら初対面で好きだと告げてきた彼女を嫌いではないらしい。
好きでもないし、愚かで憐れだと今でも思うけれど。
気持ちに正直で、好意を率直に告げてくる直向きさや、素っ気ない俺の態度にも屈さない根気は尊敬してしまう。
けれど、思い立ったら周囲の目を気にせず一直線な行動力は、はっきり言って苦手だった。
それに加えて、周りのクラスメイトは例外なく俺たちのやり取りに興味津々だ。
彼女との挨拶に続く雑談をした後は、友人から冷やかされるまでが毎日のセットになっていて、それが苦手意識に拍車をかけた。
それで余計に愛想のない態度になってしまう。
単に休日のデートを誘われたら迷いなく断っていたのだが、彼女は喉から手が出るほど欲しかったチケットをぶら下げてきた。
行きたいと直接話した記憶はないが、どうせ目の前の友人が俺の話を横流ししたのだろう。
こいつは「健気で可愛いじゃん。応援したくなるんだよな」と常々話している。
(実質デート……になるんだよな。ミラーさんのことだから、二人きりなのは確実だし)
思うのだが、俺は喧しい外野が気にかかるのだ。
いつまで経っても一目惚れの恋に盲目な彼女の恋人にはならないけれど、友人にはなれるかもしれない。
そういった、多少は彼女に歩み寄る気持ちが生まれ始めていた。
嬉しい贈り物をもらうからだ。
何かをもらったら、何かを返そうと思う。
誰だって、もらうだけでは後味が悪いだろう。
だから、彼女に対する好意が芽生えたのではない。
結局は俺が居心地悪く思わないための、自分本位な気持ちの問題なのだった。
だからこそ、彼女を初めて可愛いと思ってしまって、どうしようもなく動揺した。
学院では見ることのない彼女の私服は浮かれた性格とは反対に落ち着いていた。
目に痛い派手さはなく、少しくすんだ上品な色合いでまとめた服装は、実年齢よりも大人の女性に見えていた。
緩く巻いた髪がふわふわと風に靡いて、それを手のひらで軽く抑える姿は絵になっていた。
ヒールの高い靴を履いていたから、余計に大人びて見えたのかもしれない。
それなのに彼女はいつものように飛び跳ねる勢いで駆け寄ってきた。
俺だけを一心に見つめて、瞳を輝かせて。
そんな彼女の姿を可愛く思ってしまったのである。
(……犬が尻尾振って懐いてくるのと同じだろ。冷静になれよ)
可愛いとは思ったけれど、恋ではない。
俺は彼女の恋を否定する。
ほんの少し速まった鼓動も否定した。
それなのに、一分後にはどうしてだか手を伸ばす俺がいた。