拾われた芥の命、ぶっ飛んだ頭の女
安寧のアドリス。今はもう、かつての栄華は見られない……いや、栄華など遥か昔に失われたイデアルクラウスの地の、辺境の町。あらゆる諍いを捨て、どこまでも続く心からの平穏を得た代わり、何を得ることもなくなった、現世の天国にして、贖罪の地。そこから少しの荒野で隔たれたところに、イデアルクラウス唯一の文化都市、悠然と聳える叢雲城を終端に抱える、研究都市ミドガルゾルムはあった。
御伽噺に語られる、世界を取り巻く大蛇の本体。遥か昔、異界の勇者が討ち果たした、世界蛇の死骸の上に成り立つとされた研究都市は、滅びゆくイデアルクラウスを繋ぎ止める、最後の砦だった。
ミドガルゾルムの都市には活気があった。遥か昔に失われた「式」の技術……御伽噺によれば「世界に組み込まれた法則」を解き明かし、その本質の理解と再現、そして新規構築を目的とし、イデアルクラウスでは遥か昔に失われていた、知的活動を奇跡的に取り戻した、イデアルクラウスの文化の中心地。
イデアルクラウスには、もちろんアドリスやミドガルゾルム以外の集落も残っていて、その中にはミドガルゾルムよりも遥かに大きな都市もある。だが、その全ては最早、そこに生きる民同士、ただ奪い合うだけの、現世の地獄だ。再現も、修復も出来ない式の恩恵に完全に依存して、自分では新しく何も生み出すことが出来なくなった、堕落しきったイデアルクラウスの大半の民は、最早魔物と呼んで差し支えない存在だった。
そんなわけで、イデアルクラウスの地には、唯一今を生きる人が暮らすミドガルゾルム以外、天国と無数の地獄のみが残っている。
アドリスに生まれながら、アドリスの在り方に馴染めず、酔狂にも武人を目指して町を飛び出した私は、半ば当然の結果として、アドリス近くの荒野でぼろ雑巾のように転がっていた。
戦いには勝った。武人として戦う以上、敗北は即ち死である。だが、勝ったからといって死なないとは限らない。それが分かっていて……いや、理解していようといなかろうと、私が選んだのはそういう在り方だ。
目を閉じて、そのまま死を受け入れようとしていたが、何処からか、どこか芝居がかったわざとらしい声が聞こえてきた。
「んん、こんなところに都合よく、身寄りのなさそうな、虫の息の実験体が転がっている。夢のお告げに従って、正直出たくもない散歩などに出る羽目になったのは、極めて面倒だと思ったが、成程。これが今回の目的だね」
既に目も開かないので何も見えないが、何やら不穏な事を言う女の声が聞こえる。
まぁ、最早どうでもいい。死んだ後のことなど知らん。使えるなら死体でも何でも使うが良い。そう思っていると、女はまるで心が読めているかのように言った。
「おいおい待てよ。何勝手に死のうとしてるんだ? 実験体がただの死骸でいいなら、そんなものは究極、無限に調達出来るだろうが。大昔はともかく、今のイデアルクラウスには、無価値なゴミクズなんて無限にいる。正当防衛で、遠慮なく始末していいバカどもの死骸なんぞ、必要なら幾らでも手に入る。いやまぁ確かに、消耗品の在庫が増えるのは悪かないけど」
事も無げに言い放った。話す内容の一部については同感ではある。だが、無頼漢の死体を積極的に活用するという発想はなかった。武人などを志した私が言うのも何だが、倫理観はどうなっているのか。
「倫理、倫理ねえ。僕が善良さの欠片もないクズだってのは、他でもない僕自身が一番良くわかってるけどさ。でも一方で、僕は社会に……研究都市に期待されている振る舞いに反することはない。だから、身寄りのない君の立場と、研究都市の技能者である僕の立場、どちらが正しいかというと、僕の立場のほうが150%正しい。その行いが心底倫理的、人道的だったかどうかは、研究都市は評価しない。その行いがもたらす利益のほうが億倍大事なのさ。というわけで、諦めな」
割と酷い言い草だ。だが、確かに一理ある。このまま無価値に死んでいくだけの私を、単純にそのまま捨て置くのと、生かしたまま囚えて実験材料として扱うのと、どちらの利益が大きいのかは明白だ。そういう考え方もあるか。
「ふむ、君は本当に潔いなあ。頭おかしいんじゃないか? まったく、いくら僕が超絶魅力的だからって、悪ぅいおねーさんの口車に、気軽に乗せられちゃ駄目なんだゾッ☆」
まぁそれもそうだ。如何せん見えないので、魅力のほどは知らんが。それはそうと、いきなり口調をガラリと変えられると、吃驚するので止めてほしい。
「ただ、実のところ、君が不服に思うかどうかなんてのは、本当にどうでもいい。敗者は権利を奪われ、勝者の都合の良いように扱われるものだ。君は随分と聞き分けがいいが、それで何か扱いが変わるわけじゃない。……それがもし不服なら、いくら死に損ないのボロ雑巾とはいっても、ちゃんと抵抗したまえよ?」
私は別にこの女に負けた訳ではないが、今その場に立っているものが勝者である以上、私が敗者である事実には何ら変わりはない。
御託はいい。好きにすればよかろう。
「……まさかそこすら一切反論がない、とは思わなかったな。フッ、おもしれー男……なーんて、言うわけないんだからネッ! 冗談はさておき、さっさと済ませてしまおう。『クロージャー! このアホ男の最低限の命の保障と、僕の研究室への運搬をお願い。ついでに意識も奪っといて』。以上、よろしくね☆」
そんな言葉が聞こえた瞬間、突如意識がぷっつりと途絶えた。
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気が付くと、上等な寝台に寝かされていた。見知らぬ場所だ。もちろん、私が知っている場所などほんの限られたところだけなのだが。
「おや、気が付いたかな? 傷の具合から事前に予測していたより、遥かに早かったな。遥かに早いというか、どう考えても異常だ。どんな回復力してるんだよ」
聞き覚えのある声だ。体を起こし、視線を向けてみると、やや長身の女がこちらの様子を伺っていた。美醜の感覚には自信がないものの、本人が言ったように超絶魅力的かどうかは兎も角として、発言そのものが烏滸がましくないくらいには美人である、と言って差し支えないだろう。運動不足気味なのか、肉付きは全体的にむっちりとしている。
「……声を聞く限り、さっきの女だな。取り敢えず救命に感謝する」
「待て待て、感謝するな。してくれるな。僕は君を、僕が好き勝手利用するために連れてきたんだ。死骸より、自由に使える生きた人間のほうが都合が良かっただけだ。感謝なんてされたら、情が移るかもしれんだろうが」
そうは言っても、死んだらそこで終わりだ。命が助かったのは事実なので、それに感謝をする、というのは別に間違っていないと思うし、拾われた命をその後どう扱われるか、とは無関係の話だ。そんなことより、されたら困る自分の弱みまで、さらりと語ってしまっても良かったのだろうか。
「……まぁ、そうだ。君が抜けているのはさっきのやり取りから明らかに分かっていたが、僕も全く人の事は言えないな。感謝の意図は分かったので、さっきのは聞かなかったことにしてくれないか?」
「了承した。しかし、やはり他人の心が読めるのか?」
特に話してもいない内心に対し、ここまで的確に反応を返されているのだ。聞くまでもないとは思うが、一応聞いてみる。
だが、女はこう返した。
「はぁ? 如何に僕が完全無欠のラフィングブレイスちゃんだからといって、そんなもの、おいそれと読めるわけないだろう? 突拍子もなく、ほとんど初対面の相手に、何を馬鹿な事を言ってるんだよ」
別に心を読んでいるわけではないらしい。しらばっくれている可能性もなくはないだろうが、それにしては素直過ぎる反応だ。となると、私の思考が単に読み易すぎるというだけの話か。だとしても不可解ではあるが。
「……は? まさか君、もしかしてそれ……口に出していないのか? え、こんなにはっきり聞こえているのに?」
反応から察するに、この女には私の内心が現に聞こえていて、実際に私が口に出している言葉との差が分かっていなかったようだ。
「どう聞こえていたのかまでは把握しようもないので、正確な状況は分からんが、少なくとも私は、今ここで感謝の言葉を述べるまで、お前に対して一切言葉を発していないぞ」
実際、死にかけていたからな。そんな余裕はなかった。女は何やら目を輝かせて思案に耽っている。
「ふむ。ふむ……非常に興味深い。何か面白そうなので、ちょっと試してみるか。今から10秒やるから、何も喋らず、とにかくいろいろ考えてみろ。もしそうしないなら、なんかこう……アレだからなっ☆ はいスタートっ!」
なんかこうアレ、って何だ。あまりにもてきとう過ぎる。
色々か……アドリス、武人、強者、研鑽、敗北……いや、方向性もなく色々と言われても困るんだが。
「はぁい、終了〜。お疲れ様っ☆ 結果なんだけど、『なんかこうアレ、って何だ。あまりにもてきとう過ぎる』ってのと、『いや、方向性もなく色々と言われても、僕ちん困っちゃうよお……』ってのは聞こえた。君ねえ、失礼だとか思わないのか? 心外だわー。傷付くわー。ぶーぶー」
なるほど。何となく傾向が分かる。伝わるのはあくまでも相手に対して思ったことだけ……内面に向けた思考でなく、外側に向けた思考に限定される、ということだな。心の中でだけ言っている言葉が聞こえている、という感じだろう。
「……驚いた。君、意外と賢いな? そんで……そこまで的確に僕の期待を分かった上で、僕の渾身のボケをスルーしたな? そんなの……そんなの、許せねえよっ! 許せねえよなぁ!? 乙女に恥をかかせるなんて! よよよ……」
女はそう言って、わざとらしく泣き真似をしている。実のところ、内容の方向性は合っていたので、些末な差異だろうと考えて流していたが、私の反応に不満があったようだ。どう反応しろというのだ。
「どう反応しろというのだ」
「二回も言わんでよろしい。いやまぁ、多分実際に口に出してるのは一回なんだろうが……。もー、こういうのは、具体的にどう反応するとかじゃないんですぅー。ちゃんと用意された突っ込みどころに対して、何かしら反応を返すのが礼儀なんですぅー。全体的に薄情だぞ、君。ぶーぶー、ばーかばーか」
そういうものか。難しいが、一応覚えておこう。役に立つ日が今後来るかは分からんが。
「そうしてくれたまえ。……まぁ君に対する結論は、さっきの推論で一旦問題なかろうが、この現象がどういう条件でそうなるのか、は気になるところだな。そのあたりは追々調べていくとしよう。…………」
真剣な目で、こちらをじっと見つめて沈黙している。恐らく、同じことをこちらに対して試しているのだろう。何となく、失礼なことを考えているような予感があるが、聞こえている訳ではないので分からないし、そうでもないかもしれない。
目線を合わせて見つめ返してみると、女は目を逸らした。
「分かっているとは思うが、特に何も聞こえてはいないぞ」
「まぁ、それはそうか。聞こえるからといって、必ずしも同じように伝えられるとは限らんわな。念話が使えれば、一々口をきく手間が省けて便利かと思ったが、内心まで筒抜けになりかねないのはちょっと困るので、それは良しとしよう。何にせよ、要研究だな」
そんなことを言いながら、女は明らかに安堵した顔をしている。細かい内心までは知らんにしろ、感情自体は筒抜けだ。伝える必要もないので黙っていよう。
「さて、予め言っておくが、今こうやって朗らかに話しているからといって、僕が君をこれからも都合良く扱う事実は変わらない。詳細は省くが、君はもう僕に逆らうことは出来ないので、命令には全面服従するように。特に何もない間は自由にしてくれて構わないが、命令に逆らえば最悪死ぬ、ということは忘れるなよ」
「ふむ。仔細は知らんが了解だ。お前が拾った命だ。私が生きている限り、好きに使うが良い。全面服従の制約については興味があるので、差し支えなければまた教えてくれ」
「……君なぁ。受け入れざるを得ない無茶を押し付けてる僕が言うのもアレだが、いくらなんでも潔すぎないか? ちょっとくらい抵抗感とかないわけ?」
そう言われても、放っておけば死んでいたのは単なる事実に過ぎん。むしろ、自由が与えられるとは思っていなかった。具体的にどれくらい自由がきくかは知らんが、武人として再起の機会が与えられたのは、単に僥倖と言って差し支えないだろう。
「まったく……まぁ都合自体は良いんだが。とにかく、これは正式な主従の契約だ。細かい条件等はまた教える。僕は技能者ラフィングブレイス。敬意を込めてラフィ様とかラフィたんとか呼べ」
「大笑の繋ぎ手か。私はグレンゼルムだ」
「早速聞く気ないじゃんかよ。くそー。確かにこれは命令じゃないから、別に聞かなくても良かったんだけどー、ちょっとくらいは困惑とかしてくれないとヤダヤダー。ぶーぶー。まぁお前に真面目な口調でラフィたんとか呼ばれてたら、その時はぶん殴ってたところだけど」
まるで暴君だ。本当にしてほしいなら、ちゃんと具体的にきっちり説明した上で命令しろ。それなら出来る。
「やだね。そんなの人形遊びと変わらんじゃないか。そんなんなら、やるにしてもそこらのゴミクズどもの死骸に、そういう式を組み込んでやらせるほうが、余程効率がいい。趣味じゃないからやらんけど。しかしお前、無駄に名前長いな。グゥで良いだろ。これはもう決定事項な。異論は認めない」
まぁ好きに呼べばいい。仮に内心嫌な名前で呼ばれようと拒否権は無いのだし、そんな中で、特に嫌でもない呼ばれ方に決まることに、何の異論があろうか。
「いい心掛けだ、グゥちゃん。では、これからよろしくな? 馬車馬のように働けよ」
「ああ、よろしく頼む」
無価値に死ぬはずだった塵芥は救われた。それがどういう影響をもたらすのか、当人たちは知る由もない。