あくび
失った季節を取り戻すためだけにぼくは大人になった。
いつまでもキャンデーを舐めてオモチャで遊んでいるわけにはいかないのだ。
10代だった頃、何だってやれた。
何だって言えたし、未来というのは無条件に美しいものだと信じて、いつまでも若いままでいられると思っていた。
そんな幻想は消えて無くなり、今ぼくは27歳。
まだ全然若いじゃないかというのは気休めにしかならない。
ぼくは夢や希望を捨てるための準備を、冬眠前の小動物のようにせっせと始めていた。
ちょっと前まで付き合っていた女の子は破天荒でわがままで散々振り回された。
でも摩耗してボロボロになっていた心で、また一つ強くなった気になっていた。
喫茶店のなかでマルボロを片手にひたすらブラックコーヒーを飲んでいた。
酒が飲めないのでアルコールではなくニコチンとカフェインに依存している。
シンガーソングライターになりたかった。
ぼくの唯一無二の夢。
曲も沢山書いてライブハウスで歌った。
でも当然というか何というか、何にもならなかった。
地球はいつも通り回り、終電を逃せば家には帰れない。
27歳で死ぬロックスターは多い、ジミヘンドリクス、ジャニス、カートコバーン。
でもぼくはスターじゃないし、人並みに長生きをしたい。
夢とか希望やらを捨てるために、無理矢理に捻り出した「現実を見る必要性」のようなものをいくつか自らに突きつけてみた。
まず見た目が凡庸、
これは大事でぼくは自分のカラダが巨大化されたポスターなんて見たくないし、見られたもんじゃない。
そして強靭な精神力や体力、気合その類、
これも全然ない、根性も男らしさも持ち合わせていない。
そして悲しいかな、才能、これがない、
10年以上音楽やっていれば嫌でも自分で気づく。
時たま酔っ払い相手に拍手を貰うことはできても、武道館やなんかで歌う力はまるで無い。
そして愛がない、
ぼくにとってギターはもはや家具であって、音楽はデトックスのようなもの…というと少し格好がつくけれど早い話が飽きてしまっているのだ。
でも惰性で続けているうちに、だんだんやめ方がわからなくなってきていて、何だこれ、ってなっている。
表現者じゃない自分なんて嫌、と思い続けてずるずるずるずると続けてしまっている。
これって結構苦しいんだぜ。
叶わないと決まっている夢が目の前にあって、でも動き出せない、そんなモラトリアム、
「クジラさんならいつか成功できますよ」
腐れ縁の友人、タマルがぼくに言う、だから無理だってプロは天才で変態なんだからさ。
「でもまだ20代だし、諦めることないですよ」
悪癖や悪夢は早めに醒めて断ち切るのが良いんだよ。
「そういえばこないだまで付き合っていた彼女、どうして別れちゃったんですか?ルックス、クジラさんの好みどストライクだったじゃないすか、ショートヘアで小柄で眼鏡っ子」だから見た目だけだったんだって。
「とにかく続けていれば何とかなりますって!」
音楽なんてやっているけれどぼくは結構現実主義者だ。
たまたま手にしたのがギターじゃなくて包丁とフライパンとかそういう地に足がついたものであって欲しかったと何度思ったことか。
無理なんだよ、ムリ、ムリムリ、そう分かっているのに、幻想の方にカラダもココロもアタマも全てが向かう。
「クジラさん」
「何だタマル」
「俺も最近ギター買ったんですよ、教えてください」いいけど、何で急にギター。
「モテるじゃないすか。弾けると」
ギター弾けるとモテる、だからやる。
それって不純なようでいて1番良い動機だと思う。目的と手段がハッキリしている。
「ちなみにタマル、ギターよりベースの方がモテるぞ」「マジすか!」本当のことだ。
「どうでも良いすけどそんなにタバコ吸って喉に影響ないんですか?」ギターを始めた頃にはすでに喫煙者だったから分からないな。
高円寺の小さな喫茶店でアルバイトをしている。
高校を中退してからずっとだから、10年そこらにはなる。
うちは母子家庭だからかここのマスターはぼくにとってまるで父親のような気がする。
「クジラ君彼女と別れたって?」
どうして皆してぼくの心の傷をえぐり散らかそうというのだ。
別に遊びだったんで、と笑って言うとマスターは悲しそうな顔をして「そういうのがいけないんだよ、君は根は真面目なんだから、真面目な子と真面目に優しくしあいながらこう、ねえ…」
「いいんですバンドマンなので、クズで」クズじゃないバンドマンも居ますよ、すみません。
カランコロン
入り口のドアが開く
「いらっしゃいませぇ」
セルフレームの眼鏡をかけた長髪で小柄な大学生くらいの女の子が一人で入ってきた、奥の方の二人席に座るのを見て、ぼくはメニューを持っていく。
「只今の時間はケーキセットがお得となっています」
「……」
「御注文がお決まりの頃また伺いますね」
今年27歳だというのに今だに女性からシカトされるとこう心が、ゴリゴリ、ってなる。仕事なのに、もう大人なのに。
しばらくして、メニューを聞きに再度行く「いかがでしょう」
「この店で1番美味しいケーキと1番普通の飲み物を下さい」
……
これね、こういう不思議で変な人って居るけどね、ぼくはそういう人が大っ好きなの、困ったことに。
「お客様、私の主観でよろしいのでしょうか?」色気の無い顔に精一杯の笑顔をたたえて言う。
「1番美味しいのは恐らくレモンパイです、そして、この時期1番オーソドックスな飲み物はアイスコーヒーかと思われますが」
女性客はふんふんと頷きながら聞いていてこう言った、
「じゃあシュークリームとダージリンをお願いします」は?「あの、さっきのは、」
「訊いてみただけ、美味いケーキ屋かどうかはその店のシュークリームがプリン、そして紅茶でわかるから」
「かしこまりました」
マスターにオーダーを伝えに行ったらその女の子が言う、「灰皿ください」タバコを吸うのね。
注文されたものを届けると彼女はウィンストンの12ミリを吸いながら文庫本に目を落としていた。
「だからな、その子が、可愛いのよ」
「どうしてクジラさんはそうも変な女を好きになりやすいんですか?幸せになれませんよ」
「ぐぅ」
「で、美化してその恋愛を曲にしてフラれて悶絶するんでしょ。あ、ぼくベース買いましたよ。クジラさんのバンドに入れてくださいよ」
「俺はソロのシンガーソングライターだ。バンドはやらない」
次の週末にまた例の女子大生(であろう女)が店に来た。
前回同様タバコを片手に文庫本を読んでいる、村上春樹だ。
水を出しながら訊いてみる「ハルキストなんですか」ぼくの軽口に対し彼女は真剣な面持ちで一度しっかり頷いた。
そして「プリンとアッサムをくださいな」と歌うように言った、くださいな?
灰皿を替えに行くと彼女がこちらを睨みつけるような目で見ているので「何か?」と笑顔で尋ねてみる。
「て、て、てっ、店員さんもほ、ほっ、本が好きなんですか?」激しくつっかえながら質問をされた、そうですね、3度の食事よりは好きですね、と答える。
彼女はタバコの箱をトントン叩いて一本咥えるてジッポライターで火をつけて煙を吐くと言った。
「む、む、むらかみは、はるきでは何が好きですか?」
「ダンスダンスダンス」だとぼくは即答した。
「あ!」と女子大生。
「どうされましたか」
「私も同じ」とても嬉しそうににやにやと笑うので少しだけおたく臭い、そして「お兄さん楽器やるでしょ?」と訊いてきたので驚いて理由を聞くと、何となく、とこぼし、また変に笑う。
「おいタマル、バンド出来るかもしれないぞ」
「は?」例の喫茶店の女子大生、ドラム叩けるらしい。お前も上達してきたからベースやれ。
「クジラさんの本気の活動に僕らが参加しても良いんですか?」
「どれだって、真剣なんだ」
次の週末、店に客が一人もいない時にまたあの女子大生がやってきた、名前はみのり、というらしい。
「クジラさんって珍しいお名前ですね」
「親父が地球上で最も大きな生物だからってつけてくれたんです。オーダーはどうなさいますか」今日もプリンかシュークリームでしょうか、
「いえ、今日はレモンパイとアイスコーヒーを」少し意外だったので1、2秒沈黙したら彼女は「初めての時に聞いてからずっと食べたかったので」と答える、うーむ不思議だ。
む、少し気づいた、どうしてか注文の時には彼女はスムーズに発語することに…でも音楽とか文芸の話になると途端に舌が回らなくなるようだ。
到着したレモンパイをまくまくと食べてアイスコーヒーを飲んでいるみのりを横目で見ながら可愛いな、と思っていたら、マスターがめざとくニヤニヤしだしたのでむかついた。
「お済みのお皿お下げします、してお客様」「はい?」このあとご予定などありますか?と誘ってみたら呆気なくOKしてくれたので、内心小躍りしながら残りの仕事を済ませた。
喫茶店から別の喫茶店に移動する、というのも少し変な話だが、実際そうなった。
彼女はぼくと同じく酒は飲めないらしいし。
話をしたら都内の有名女子大に通っているエリートお嬢様らしい。
「ところでみのりちゃんドラムできたよね」
「は、ははい、す、少しなら」
「じゃあもし良ければバンドやらない?」尋ねるぼくに食い気味で肯定してくれる「や、やります!」二つ返事というやつだ。
「あのさ、ちょっと気になったんだけど、こう言う言い方をしたら傷つけてしまうかもしれないけど、どうしてアートの話をするときにみのりちゃんは、、こう、喋りづらそうになるのかな?」
彼女は目を少し丸くして俯いてから、少しふふっと笑って言った。
「ほ、本気なんです」何がだろう「本気で、ほ、本当にア、アートが好きなんです」とはにかみながら答えた。
「何があっても、ア、アーティストでありたいんです。文芸、か、絵画、音楽、み、みんな大好きです、プロではありませんが、ひょひょひょ表現者でありたいのです!」そうはっきり言ってのけた。
「そ、それ以外にわ、わたしが、息をし続けられる道はっっっ、な、無いんです」
頬に二筋の涙を流し、突然立ち上がったみのりは両手の拳を握りしめ震えていた。
急に立ち上がったせいで机の上のアールグレイに波紋ができた。
「そうか」はい、と大きく頷くみのり。
「俺もね」と言い口ごもるぼく、涙はそのままに座り直したみのりは小首を傾げ、黒い髪がサラリと揺れる。
「なりたかったんだ、それに、アーティストに」
「今は、ち、違うんですか?」もう諦めたと、年齢のことや才能のことを少し話す。
「あくびみたいなものですよ」
珍しくつっかえずにみのりが話す。
「さ、作品や、え、演奏なんて、生理現象で
、あくびみたいなものだから、と、歳とか、才能とか、優劣とか、人がどどどどどう思うかなんて関係、ないです!」
「ありがとう、でもご飯を食べていかなくちゃならないだろう?」
「プ、プロだけがア、アーティストじゃない」
「雲だって、そ、空も、か、風も、海や山だってアーティスト、人間からお金を貰うこともなく、り、り、立派にアートしています、おやじバンドだってか、か、カッコ良いし、アンダーグラウンドのバンドにしかない、か、輝きもあります。
わ、わたしは、ク、クジラさんはアーティストだとお、思います、辞めるとか、あ、諦めるとか言わないで、皆でバンドやりましょう!」
それだけ言うと彼女は落ち着いて席につき、伏し目がちになり、アールグレイをガブガブ飲んだ。
手をあげて店員を呼ぶと、モンブランを2つとホットコーヒーを注文した、気にすることはないと伝えると、2つとも自分で食べると言う。
奇行である、急に立ち上がって涙ながらに熱弁し、ビュッフェでもないのにケーキを2つも食する(しかもさっきレモンパイ食べていたし)
そしてぼくはそう言う危なっかしいタイプの女の子が凄く好きなのだ。
しかも、さっきの演説に少し感動して、嬉しくなってしまった。
「ごめんなさい、熱くなってしまって」みのりは俯く、そんなことはないと取りなしてから、どんな音楽を好きで聴くの?と尋ねてみた。
「わかりやすい洋楽のロックです、ビ、ビートルズとか、ニ、ニルヴァーナとか、レッチリみたいな…で、でも演奏するのはソウルフルであ、甘いものの方が好きで、ジェームズメイソンとかエ、エリカバドゥみたいな」
その後も他愛のない話をした後で、今度ぼくの曲の音源と譜面を渡すと言って連絡先を交換した。
「何かあったら、あるいは何もなくても気軽に連絡してよ」
「ふおおおおおお!
ジゴロですなぁ!もうそこまで接近して、バンドのメンバーにまでしちゃうとは!さすがクジラさん!!」
いつものようにタマルは暑苦しく興奮している。
「大したことじゃないよタマル、お前はいつも大袈裟だ、ああ、バンドでやる曲は俺のオリジナル曲でいいな?」
目に残像が残るほど激しくかぶりを振る彼はぼくの曲を演奏するのが光栄だとしつこいほどに言ってきた。
「これ、楽曲のCD、こっちが簡単な譜面ね、来月あたりまでに覚えてね」
うやうやしくCDと紙束を受け取る後輩、こいつ実は結構才能あるんだよな。「ルート弾きでで適当でいいから」
「クジラさん」
「なんだ?」
「クジラさんの曲って結構簡単なんですね。」
「このやろう」言うじゃないか。
「大分単純な作りの曲なんですね」
コーヒー片手にみのりが言う。「褒め言葉と取ろう、ビートルズもエルレガーデンも単純な曲を作る」隣に座るタマルがずっと笑いを堪えているのがしゃくだ、ほらほらと指差してくる。
「このやろう」
タマルとは高校時代からの付き合いだ。
ぼくは1年留年していたから歳は一個下だ。
前の高校で教師を殴って退学をくらってから1年間、フラフラとヤンキーの仲間と遊びまわっていた俺は、ふと大学に行きたくなって、親に頭を下げて定時制の高校に入学した。
1年生は殆どが1コ下の奴らばかりで少し鼻白んだが、すぐに慣れた。
当時そのクラスを取り仕切っていたのがタマルで、彼はケンカがめっぽう強かった(らしい)。
すれ違いざまに仲間に肩パンを食らわせて笑うような典型的な不良で、正直なところ気に食わなかった。
中学の頃から地元では少し名の知れたハズレ者だったらしく、上級生からも一目置かれていた。
ぼくもそれまでの一年のことがあるから、地元で名前くらいは聞いていた。
鉄砲玉みたいにどんな相手にも正面からぶつかっていくケンカをするらしい。
そんなある日、高校にアコースティックギターを持っていって、校舎裏で弾いていたらそこをタマルとその仲間が通った。
ぼくはそれを気にせずマルボロの箱をポケットから出して一本引き出し咥えて一服した。
そしてギターを弾き続けた。
ロバートジョンソンの「心やさしい女のブルース」エリッククラプトンの「レイラ」ジミヘンの「砂のお城」を歌った。
少しの間こっちを見ていたタマルは、仲間を先に行かせ、ぼくの前に立ってまっすぐこちらを見た。
おもむろにセブンスターを取り出し慣れた動作で一本出してマッチで火をつけた、彼は黙ってぼくの演奏を聴いていた、
ボブディランの「時代は変わる」、そして「朝日のあたる家」が静かな校舎裏に響いていた。
ケンカを売られるのか、タイマンを張るのは久しぶりだ、でも何故だ?と、俺はこいつの気に入らないことはしてないが?そんなことは関係ないかなどと考えながら歌っていたら情けなくも喉が渇いてきた、上目遣いにタマルの方を睨んだら、
奴は笑っていた、拍手をしてくれ一言言った。
「すごいっすね」
「なんだお前」
「ギターと歌めっちゃ上手いっすね、目指してんすか、プロ」
「おう」
「オレ、タマルって言います、クジラさんですよね?」ん、と戸惑いながら返事をする、なんだ、コイツ、いい奴か?
「オレ音楽とかゲージュツとかまるでダメで、でも好きなんでソンケーします。頑張ってください」
ありがとう、と言う声が笑えてしまう、ぼくはタマルを気に入ったのだ、人間嫌いの自分にしては珍しく。
「これからはアニキと呼ばせてください」
タマルは本当に嬉しそうな顔で、美味しそうにタバコを吸っていた。
地元で名の知れたヤンキーがたかがギターの弾き語りで脱帽するなんてまるで笑い話のようだった。
「アニキは辞めろ、クジラでいい」
「クジラさん!」タマルは満面の笑みだった。
それが奴との出会い、
ぼくは特別人よりケンカが強いわけではないし、恐らくタマルよりはるかに弱い。
だが何故か気に入られてしまい、舎弟というか腰巾着のようにどこに行くのにも彼はぼくについてきた。
自分の周りにヘコヘコしてくる奴等ばかりだったから自分も兄貴分が欲しかったらしい。
そんな呑気な日々も長くは続かず、ぼくはその高校でも教師を殴り、また退学をくらった、親には本当に悪いがぼくは自分が「学校」という機関にはことごとく向かないはずれものだと知ってしまって、もう大学に行きたいとも思わなくなった。
それでもタマルだけは相変わらず慕ってくれていて、一緒に遊びまわった。
高校をやめてすぐに始めた喫茶店のバイト、
ハタチ前後までは適当に惰性で働いて、遊んで暮らしていたが、
二十代も半ばに差し掛かる頃、さすがに真面目になろうとして、金髪の髪を黒く染めて、短く切った。
タマルは驚きながらも「そっちもいいっすね」と褒めてくれた。
バイト先のマスターなどは、クジラくんも大人になったねぇ、と涙ぐみ喜んでいて少し気持ち悪いが、ありがたいことを言ってくれた。
そのタマルとバンドが出来るんだから、ぼくは素直に嬉しい。
プロ指向のバカテク演者と組むよりコイツとが今のぼくにはお似合いだ。
みのりは初め、タマルからぷんぷんする不良の匂いに眉をひそめていたが、「クジラさんのご友人なら」と半分諦めて受け入れてくれた。
バンドを組むにあたってリーダー決めをしたがそれは案の定経験者であるぼくの役目になった。人を裁いたりまとめたりは好きではないが仕方ない。
そしてその次にバンドの名前を決めた、大抵ここで多くのバンドが揉める、言葉の好みというのは意外と大きいのだ。
格好を付けたくない、と言うのは全員一致している方向性だったが、これがまた難しい。
ぼくの名前をとって、ホエールズ、というのにしたいとタマルとみのりが沸いていたが、それは悪いけど却下させてもらった。
そこでこの前のみのりの演説のことを思い出して、
「アートはあくび」と話していたのが面白かったと言ったら、タマルは「いかついっす」と喜んで、みのりは照れるが満更でもない感じで結果的にバンド名は「あくび」に決まった。
そして週末、初のスタジオ入り。
みのりのドラミングは正確だった。
独学とは思えないほど基礎ができていて、ファンキーなグルーヴを持っていた。
タマルのベースも悪くない、愚直故のしっかりしたリズム感でサウンドに厚みをくれる。
ぼくはストラトキャスターにオーバードライブをかけて激しくカッティングをしながら叫び弾いた。
初めてにしては充分すぎる一体感でバンド「あくび」は始動した。
週末になる度何度も何時間も練習をした、どんどん曲がカタチになるうちに、皆ライブを意識するようになっていった。
つてのある下北沢のハコでイベントがあると言うので、頼んで出演させてもらえるようにした。
試しに、とはいえ大きなステージだ。
当日、みのりはびっくりする位落ち着いていたが、タマルがあまりの緊張でぶるぶる震えていた。「ヤクザにケンカ売る方が楽っすよ」
「どうせ20分そこらで終わるんだからリラックスしろよ、楽しめ」
「クジラさんはいつもこんなのを耐えていたんですね」
本番前、日和っているタマルにぼくは平手打ちをくらわせた、ばしっ、大きな音がする。
彼は驚いたが「ありがとうございます!」と目が覚めたように正気に戻っていた。
結果、ポッと出のバンドにしてはお客さんの反応は良くて、皆満足した。
打ち上げで居酒屋に行って気づいたことはメンバー全員酒が飲めないこと、そして酒が飲めなくても居酒屋は楽しく、濃い味のツマミは美味いということ。
そんなことを何ヶ月か繰り返しているうちに固定ファンもついてきて、みのりとタマルは満更じゃなかった。
でもぼくは少しナーバスになっていた。
ここが臨界点と知っているからだ…
順調に活動して、名も知れて、楽しくて、充実もする、
でもそれだけ。
その先にあるのは虚無、褒めて褒められ仲間同士の内輪盛り上がり。
そこで終わり、サクセスも変化もない。
タマルとみのりの楽しそうな顔を横目に、だんだんとライブが憂鬱になってきた。
アーティストになりたかった。
でもなれないと知っていた。
かなり早い段階で、ぼくは自分の限界を知っていた。
それはむしろ清々しくもあった。
バイト中、皿やシルバーを洗っていると、マスターが声をかけてくれた。
「元気がないのはうまく行っているからかな」ぼくは黙っていた。
「君は怖くなるんだね。終わり、や、壁があるということ、永遠が存在しないことに気付かされると」でもそれでいいんだよ、私も怖い、と続く。
ぼくは涙を流した、ほんの少しだけ。
子供用の目薬の一滴くらいのわずかな涙の雫が頬をつたった。
「ありがとうございます」
スリーピースバンド「あくび」は解散した。
元々その場のノリみたいなものだったし、皆納得し、満足した。
最後のライブの後、いつも通り酒の飲めない3人組で馴染みの居酒屋に行った。
アルコールゼロでハイになり、涙して騒ぎ立てた。
こういう青春があっても良いのではないか、とぼくは感じた。
そしてしばらく経った寒くて太陽が綺麗な日に、ぼくはみのりに告白した。
好きなんだ、と告げたら「そんなことはとっくにわかっている」と笑って受け入れてくれた。
冬が来て、ダッフルコートを着たみのりと2人街を歩いた。
デートはタマルが一緒のこともあった。
「俺なんかが一緒でもお二人の邪魔にはならないんですか」と、気を遣ってくれたが、彼がいると間が持たなくなることがなく、よく笑えるのだ。
多分ぼくとみのりとは結婚するのだと思う。
ぼくは自分の夢や幻想に完全に打ち勝ち、それを昇華できていた。
ギターも歌も、一生続けるだろう。
でもそれよりも、みのりが側に居てくれて、タマルとはしゃいだりしている方が、なんというかしっくりくる。
大人になってしまったのだろうか?
10代のぼくが見たらこんな自分を軽蔑するだろうか。
幸せで、何が悪い、ぼくはそう思った。
時は過ぎてその後の話、僕たちは順調に歳を取っていった。
みのりが大学を出るのを待って、ぼくたちは籍を入れた。
彼女は今でもぼくの為にドラムやカホンを叩いてくれる。
喫茶店のマスターは76歳になり、さすがに立ち仕事がきつくなったからと、ぼくに店を継がせてくれた。
今ではぼくが店主で、みのりも店を手伝ってくれることがある。たまにマスターが来てコーヒーを飲んでいく、
タマルはぼくのことを「二代目」などと呼ぶようになったが、奴がそう呼ぶと堅気な感じがしなくておっかないから辞めさせたい。
そう言うタマルは歳上の奥さんをもらって、双子の女の子が生まれて幸せそうにしている。
お前が親父かあ、ため息をつくと、たはは、と笑われる。
タマルもベースを辞めていない。
むしろどんどん上手くなって最近はレッチリのフリーのコピーに熱を上げている。
青春は去り、穏やかな風が吹いている。これも良いのではないか。
みのりはアートの話をしても言葉をつっかえなくなった、彼女は絵を描き、歌を歌い、ドラムやピアノ、ギターやウクレレ、そして片手間に文章まで書いている。
絵の個展をした時があって、ぼくと二人でデュオを組んで歌って聴衆を楽しませたりもした。
エリックサティの「家具としての音楽」のように、アートはみのりにとっての生活雑貨のような、家具のような、自然に親しみのあるものになっていったようだ。
それこそ、あくびのように。
あくびをするように、ぼくたちは歌を歌う。
あくびをするように、絵や写真で表現をする人たちがいる。
あくびをするように、楽器を奏でる人たちもいて、踊って、作って、演じて、見てもらって、感じてもらって、泣いて、笑ったり、怒ったり寂しくなったりして、やっぱり仲がいいのが1番だよねとか言ってみたりして。
そうやって歳をとって、いつか悩める若者に笑顔で話したり、自分の過去を思い出したり、反対に少年少女たちから学んだり、そんなことを歌にしてみたり。
悪いことばかりじゃない。
そうだ人生もアートも、
あくびみたいなものなんだよ。