ショタに笑顔でいてほしい幽霊VSショタを恐怖に陥れたい幽霊
中学校のクラスメイト曰く、照川翔太は不運である。
〇×中学校へと登校する際には必ず日に一度は車に轢かれかけ、月に一度は犯罪者に出くわし、年に一度は誘拐されかける。それだけでなく、彼と共に曰く付きの場所や心霊スポットに赴けば必ず幽霊に出くわし呪われるという。
数多くの開運スポットやお祓いに赴けど、寧ろその地に住む神主や坊さんから匙を投げられ、二度と来るなと塩をまかれる始末。
そんな奇妙な天命を授かってしまった彼は、物心がついた時から背丈が二四〇センチメートルはあろう女性に、憑かれていた。
「 ぽ 」
腰まで伸びた宵闇を墨汁で溶いたような黒い髪に、それとは真反対に夏の空に描かれる雲のように穢れのない白色のワンピースを着て、ツバ広の帽子を被っている。翔太に優しく寄り添う姿は愛着のようにも、執着のようにも、そして恋慕の表れのようにも見えた。
幼いころから自分を見守ってくれている存在。雨の日も、嵐の日も、両親が仕事で帰らず夜一人でいた時も、欠かさず翔太の隣にいてくれた彼女。
だからこそ、少年から青年へと大人の階段を上るべく、翔太は意を決した。
「ねぇ、八尺様」
「ぽ?」
八月中旬の昼下がり、冷房と扇風機を使わなければ家のリビングでろくに勉強もできないようなうだる暑さ。父と母が家にいないこの時間帯こそ、翔太と八尺様と呼ばれた女性、否、彼に憑いている幽霊が人の目を気にすることなく語り合うことのできる唯一の時間だった。
翔太の目の前にいる幽霊に八尺様と名付けたのは翔太自身だった。名のある霊媒師や祓魔師、僧侶に尋ねても彼女の真名が分からなかったため、翔太がネットのとある掲示板に記載されていた幽霊の名を与えたのだ。
脚をぶらぶらとさせながら椅子に座っている翔太を、その後ろから優しく抱擁している八尺様が見下ろす。丁度へその位置に当たっている翔太の頭を撫でて男子特有のツンツンと痛気持ちいい髪質を指で感じながら、翔太の蒼い目を見る。
これから翔太の口から紡がれる言葉が、八尺様にとっては忘れられないものになるとはつゆ知らず、穏やかな表情で翔太と目線を交わした。
「ボク今年受験あるし、集中したいから勉強中は離れて。というか、さすがにこの年になってでも一緒に中学校に行ったり、塾に憑いて来るのは止めてよ」
ムスッとした表情で、どこか斜に構えた表情でそう言い放った。
唖然として動かない八尺様の抱擁を解き、筆箱と高校入試の過去問を閉じて椅子を立つ。
「じゃ、ボク塾行くから、憑いて来ないでよ」
未だ石像のように動かない八尺様を横目に見ながら、すました顔でリビングを去り、二階へと向かうべく階段に足を懸けた。
自室のドアを開け後ろを向き、憑いて来ていないかを確認、そして閉める。
「あんな身体を一日中押し付けられたら勉強どころのさわぎじゃないよっ」
照川翔太は幽霊に憑かれているだけの思春期真っ盛りでうぶな男の子だった。
日はとうに沈み、夜空に浮かぶ三日月さえ西の空に傾いた二十三時。
志望高校の過去問を解かされて頭の中の栄養が絞り出されたかのような感覚を抑えながら、チャリを漕ぐ。立ち漕ぎをして全力でペダルを回せば十五分程度の帰路をゆったり、コンビニで買ったパンを口に加えながら道を駆ける。
塾の先生に怒られたことを思い出して、翔太は、思わずため息をついてしまう。自分で『集中できないから』と言ったにもかかわらず、余計に集中力を欠いてしまったことに、
「情けないな何やってるんだ、ボクは」
と口から悔いの音が漏れる。
普段であれば背中越しと頭上から感じる八尺様のひやりとした体温を感じなかったからか、普段よりも逆に集中できなかったのだ。
帰って謝ろうか、いやでも、と翔太が疲れ果てた脳に鞭打って思考を回そうとしたその時、前からこちらを呼ぶ声がした。
「もし、そこのぼくちゃん、ちょっといいかい?」
ゆったりと、しかしほのかに耳に残る低音の声が翔太の鼓膜を震わせる。
ブレーキをかけ、女性の前で停止。
「なにかようですか」
そう言って翔太は女性の方に目を向けた。
彼が初めに見た感想としては、『赤色の不審者』だった。夏だというのに分厚い深紅のコートを羽織り、鮮血のような赤のボトムスにハイヒール、そのくせ口を覆うマスクは真っ白。
八尺様とは髪色まで反対だ。なんてあっけからんとしていると、ズイッと、翔太の方へと歩み寄ってきた。
彼の右肩に手を置き、右手でマスクを口元からズラす。
そして、一言。
「ねぇ、口紅を変えたの、 ワタシ、キレイカシラ」
そこから覗かせたのは、大きく割れ、何本もの鋭い牙を持ち、長い舌をダラリと伸ばし、涎を垂らした、醜悪であった。
ドッと、汗が噴き出る。一度、鼓動がドクンッと痛く跳ね上がる。
久しく忘れていた、八尺様以外の、この世ならざる存在のオーラ。
腹から這い上がる悲鳴を喉で殺し、顔を歪ませる。あまりの恐怖に、目尻から涙が溢れそうになる。
だが、翔太の人としての生存本能が、無意識に彼の身体を突き動かした。
肩に置かれた手を払いのけ、食べかけのパンを怪異に投げつけ、ハンドルを強く握る。そして、ペダルを力強く踏み込み、駆け逃げた。
「ッハ、ハァッ、ハァッ、ッゲホ」
漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ。ペダルを一回転毎に踏み込む強さを上げる。
後ろを決して振り向かず、ハイヒールとアスファルトがぶつかる乾いた音に決して耳を傾けず、「ニゲルナ」という声を無視して、無心に漕ぐ。
だがしかし、闇夜に蠢くモノの手からは、逃れることができなかった。
「ワタシカラハ、ニゲラレナイ」
前傾に漕いでいたはずなのに、浮く。
否、浮いたのではなく、ガクッと沈む。まるで大きな段差を降りる時のような感覚。翔太が下を見ると、アスファルトが口を開け、牙を立て、その奥にはギョロリと金色の瞳を覗かせていた。
喰われる
「あぁぁぁぁぁ!」
自転車から、飛び退き、回転して無様に着地。擦りむいた膝とアスファルトの凸凹が翔太の腕に浅く、縦長く切り裂いた。
「ヤッパリ、チノホウジュンナイイニオイ。ぼくちゃん、トテモオイシソウ」
翔太が顔を上げると、そこには異形の異様な姿があった。口が、顔の眉間から顎紗季まで縦にも割れている。突起のような鋭い歯が、口の至る所にあり、ひと噛みされれば肉が抉られ喰われるだろう。
腰の力が抜け、その場にへたりと倒れ込む。脚が震え、溺れるように浅くしか呼吸ができない。
そして、眼前に迫る口裂け女の獰猛な口。
走馬灯。
翔太の脳裏によぎったのは、親でもなく、学校の友達でもなく、とある一人の幽霊だった。向日葵畑を背景に、そよぐ風に吹かれながらこちらを振り返る。幻想的で、翔太にとってはどんな絵画よりも価値のある記憶の一片。
最期の抵抗に、声を振り絞る。
「助けて、八尺様!」
「 ポ 」
黒い風が眠る街を駆け、翔太を守らんと白い拳が口裂け女の鳩尾を捉えた。
吹き飛ぶ口裂け女を横目に翔太の方へと顔を向け、優しく抱擁。
「ぽぽぽ」
もう、大丈夫___。翔太にはそう聞こえた気がした。
気を失った翔太を寝かせ、自分の大切な人をたべようとした畜生の怪異に八尺様は目を向けた。鳩尾に手を当ててせき込む赤い女。苦しみながらも自分を殴り飛ばした白い女性を恨みがましく睨みつける。
「アァ、クソ。もっと、モットモットクルシミナクスガタガミタカッタノニ。ジャマシナイデヨ」
頭をくしゃくしゃと掻きむしりながら、赤い瞳を八尺様に向ける。口から血の混じった涎を周囲にまき散らしながらわめき散らす。
「ショタトヨバレルジキガイチバンオイシインダ。トクニソノナミダトチハカクベツナノヨ」
地団駄を踏む。一蹴、一蹴毎にアスファルトに亀裂が入り、広がってゆく。
「ソレヲジャマスルナンテ、マシテヤマモルナンテヤッパリアナタジャマダワ」
この口裂け女は元々照川翔太を狙っていた。不幸という旨味を最大限濃縮したかのようなその存在に、初めて一目ぼれにも近い食欲に駆られた。だが、翔太の周りにはいつもこのデカ女がいた。邪魔で仕方がなかった。歯がゆかった。
独り占めしている姿に、殺意すら覚えた。
だが、自分では八尺様には遠く及ばない。それを口裂け女は自覚していた。幽霊としての格が違うのだ。だからこそ口裂け女は待った。翔太が独りになるタイミングをずっと、ずっと、小学生の時から、ずっと。
「チクショウ、チクショウ。アトスコシダッタノニ。アト、ホンノヒトカミダッタノニ!」
何年も我慢し続けたその自制心が、崩れる。即ち、冷静さを欠く。
それが、口裂け女の致命的な敗因となった。
口を大きく、それこそ家屋一つ丸ごと飲み込まんとするほど大きく開き、己の牙を全て、余すことなく伸ばし研ぎ、八尺様もろとも貫き喰わんと牙を立てる。
それを、八尺様は鞭のようにしなり、金剛石並みの型さを持つその豊満な脚で、口裂け女の牙もろとも一蹴。
「ァェア?」
飛んでいる。それが、今の口裂け女が最初に抱いた違和感だ。
先ほどまでいた住宅地は遥か下。目算で高度千メートルは下らない。
あぁ、やはり自分は狙う相手を間違えたのだろう。口裂け女はそう、最期に思考を巡らせた。胃の部分が空洞になり、自分が自分である感覚が消えてゆく。
墜ちる、落ちる、堕ちてゆく。灰色の地面が迫りくる。残り百メートル、五十、二十、五、三、一___零。
ハラ、ヘッタナ。 そして、命が消えた。
「……ぽ」
自分を呼ぶ声がする。まどろみの中、海の中。必死に己の名を呼ぶ誰かがいる。
「ぽぽ、ぽぽぽぽ」
眠たいのに、煩いのに、その声を無視できない。誰かの手が、頬を優しく撫でてくれる。それはとても、安らかで___。
「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ7」
「うわぁ!」
大きな声八尺様の声で叩き起こされた翔太は、鼓動が早くなっているのを感じながら周囲を見る。どうやら自分がいる場所は近所の公園にあるベンチらしい。
ぼんやりとする頭を振り払い、そういえば、と思い出す。
「八尺様! あの女の人は?」
「ぽぽぽ」
相変わらず何を言っているのかはわからない。でも、翔太には何を伝えたいのかが自然とわかる。彼女曰く、撃退したらしい。
良かった。と、ひとまず安堵。そして、懺悔の念が押し寄せた。
日中、ひどいことを八尺様へ言ったにもかかわらず助けられてしまった。離れようとして、逆に守られてしまった。何よりも悔しいと思う反面、嬉しいと思ってしまう自分が嫌だった。
胸の内側から際限なく溢れ出す濁った感情。翔太は、それを飲み込もうとして、八尺様に抱擁された。
「えっ」
緩く、しかし、生きていることを確認しようとしたのか、いつもより力がこもっていた。その圧迫感が、翔太にはとても気持ち良かった。
「……心配かけて、ごめんなさい。でも、ボク強くなりたかったんです。八尺様を守れるカッコイイ大人になりたくて」
ごめんなさい、ごめんなさい、そしてありがとうと、嗚咽交じりに言葉を漏らす。涙を流し、生きていることを実感しながら、彼女の氷のような温かさに触れながら、何度も何度も、ありがとう、と。
いつか、貴女を守ってみせると、少年は街を優しく照らす天ノ川に誓った。