どん底
なぜだかわからないが、私は暗い闇の中にいた。
むせるほどのものすごい悪臭がたちこめている。
すこしずつ目が慣れてくるとあたりの景色が見えるようになった。
ここはすり鉢状になった大きな穴の底で、直径30メートルくらいだろうか。
途中までは岩伝いに登れそうだが、半ばくらいからは突起がなく脱出は不可能だ。
ぐしゃっと何かを踏みつけ足元を見ると、腐乱しかけた死体が幾層にも積み重なっていた。
私もそのうちお仲間に加わることになるのだろう。
そう思っても、特に恐怖とか怒りとかわいてこない。
漠然としたあきらめだけが心を支配する。
白骨化が進んだ場所まで移動し腰掛けるとシャリっという音がして頭蓋骨がくだけた。
大の字に寝転がりぼんやりと上を見上げる。
はて、なんで私はこんなところにいるのだろう。
どうしてもここにきた経緯が思い出せない。
死ぬまでの時間はまだあるようだし、少し考えるとするか。
まずは自分の記憶を整理する。
私は信仰心の厚い両親に育てられた。
父は大学の先生をしていたし、母はいわゆる世間知らずの純粋培養のお嬢様だ。
日曜日になると教会に連れて行かれていたのを覚えている。
小学校からミッション系の学校に進んで高校までそこですごした。
無遅刻無欠席で成績は常に優秀でおまけにスポーツ万能だ。
いじめはすることはなく、むしろいじめられている生徒がいたら守ってやった。
そのまま医学部に進み、医者になり、海外の医療ボランテイアに参加した。
では、ここは海外で事故に巻き込まれた?
いや違う。
私は海外で3年間過ごし、日本に戻ってきた。
そのあと、法学部に入り直したのだ。
司法試験に合格し、そして弁護士になった。
医者をしながら、弁護士として冤罪に苦しむ人を救うために戦ってきた。
そこで何か恨みを買った?
いや、違う。
私の人生はまだ続いている。
私は医者と弁護士の二刀流として話題になった。
そんなある日、私の人気に目をつけたある党が私に政治家にならないかと言った。
少し興味もあったので立候補し当選した。
党に入るとそこは欺瞞と汚職に満ちていた。
義憤に駆られたわたしは、まだ染まっていない若手議員を説得し、野党の若手議員の力も借りて党を改革した。
全ての政治家が腐っているわけではない。
一度は悪しき習慣に染まった先生たちの中からも志を同じくする人たちが出てきた。
私はそういう人々と連携し、新党を結成した。
新党は総選挙で第一党となり、私は内閣総理大臣となった。
軋轢を起こすことを覚悟で、国民第一の政治をおこなう。
事なかれ主義や慣例重視の人罪を排除し、省庁の志ある若手を補佐官に登用した。
大衆受けのいいその場しのぎの政治ではなく、未来に繋がる改革を行った。
最初は反発もあり、暗殺騒ぎまであった。
それでは私は敵対勢力に拉致され、ここに?
いや違う。
私は70歳になり政界を引退した。
惜しむ声もあったが、老害になりたくなかったのだ。
私はひとりの医者に戻り、無医村で開業した。
おかしい。
ずっと辿っていても、ここにいる理由にたどり着かない。
たしかそのあと、私は90歳まで現役の医者を続けた。
そうだ、思い出した。
ある寒い日の朝、洗面台にたとうとして私は倒れて・・・そのまま死んだのだ。
私の葬儀には大勢の人が集まった。
わたしの所属していた与党だけではなく野党も、政権に批判的な左派の新聞までもが私の功績を称えた。
私はその姿を中空に浮かびながら眺めていた。
徐々に身体が上昇していく。
そして気がついたらここにいた。
ということは、ここは地獄か。
このような地獄に落とされるような罪を私は犯したのだろうか。
自分に罪があればそれは甘んじて受けよう。
ただ、理由が知りたい。
「神よ、私はなんの罪でこのようなところに堕とされたのですか。神よ、お答えください。」
しばらくして雷鳴と共に荘厳な声が響き渡る。
「我が子よ、我が忠実なる下僕よ、教えてやろう。お前は3歳の頃、頬にとまった蚊を手で殺した。それからも何千もの蚊を殺し続けた。」
呆気にとられる私に構わず、神の声は続く。
「お前はコメを、麦を、果実を食った。牛を豚を魚を食った。お前は数えきれぬほどの命を奪い生きてきた。」
私は暗い気持ちになった。それがすべて罪だというなら、誰一人天国になど行けない。それは人間だけでなく、生きとし生けるもの全てだ。
「神よ、それがあなたの考えだというなら甘んじて受けましょう。ではどのような行いをすれば天国に行けるのでしょうか。悪しき行いをしていたものはどうなったのでしょうか。」
「死後の世界はただ一つ、皆、等しくここにいる。」
怒りの気持ちが湧き上がってくる。
「神よ、それでは正しく生きようとした私やその他の者の気持ちは無意味だったというのですか。それではあまりにも無慈悲ではないでしょうか。」
「お前は死後の特権を得るために生前に善行を積んだのか。それならば偽善である。神は全ての人間にとって平等であるのだ。」
それっきり声は途絶え、ただ闇が広がる。
それから何百日もたった。
空腹感などなく、ただ少しずつ腐っていく。
徐々に考えるのをやめて行ったが、時折りふと神の言葉を思い出し独り言をいう。
「悪事を働いた者たちはこれを当然の報いだと思うだろう。善行を積んだ者たちも、まだ自分に至らぬところがあったのだと思うだろう。私にとっては蚊は等しく蚊であったし、私に食べられた生き物たちも感謝されたところで殺されたことには変わりない。神にとって人間もその程度の存在なのかもしれないな。」