90.魔法
夕方近く、最初と比べれば、効率良く作業を終えている。最後に洗った荷車も、夜の内に乾くだろう。
ニーシアとレウリファに告げてから庭に出て、軽く体を動かした後に散歩する。最後の鐘が鳴るまで余裕がある。夕食前に家に戻ればいい。
並ぶ屋根も、飛び出た建物も。見下ろした王都に変化は無い。
暮らし始めて、ひと月も経っていない。街並みを憶えておらず、目につく建物を確認したり、王都の中央にある教会を眺めたりする程度だ。
アンシーと比べれば、違いに気づく事も少ないだろう。
当の本人は庭の一か所にいる。寝椅子を持ち出して、日を浴びている。
隣に机と腰掛けがある。何も物は置かれていないし、相手がいるわけでもない。
アンシーは布を体にかけているが、肩が露わになっている。
近付きながら様子を見ると、布に隠されていない膝から下は肌を晒している。
布一枚で過ごすには寒い。
アンシーがこちらに顔を向けて、手招きする。
指あき手袋をはめているようだが、寒い事に変わりない。
誘いに従って、そばに近づくと、暖かい何かに触れた。重さは無い。手を引くと、元の温度を感じる。
アンシーが笑って、口を動かしている。
座る様に示している。腰掛けに近づいた。
「面白いだろう?」
声は届かず、外より暖かい、何かがあった。
腰掛けに着くと、全身が温められる。布一枚で過ごせる事には納得はできた。
後ろへ振り返り、手を伸ばす。確かに外は冷えている。
「魔法なのか?」
寝椅子のアンシーは、腰掛けている自分より低い位置に顔がある。
布を押さえながら、起き上がる。
胸の辺りから布をまくり、背中にも手を伸ばす。
両手を放したアンシーがこちらに向く。
「半分正解だね」
寝椅子に片手を置き、背中をわずかに反らしていた。
アンシーは両腕を前に伸ばし、上まで傾けながら伸びをする。
声を吐き切った後に、ため息をついていた。
「いろいろ小細工をしてある」
アンシーは、寝椅子のふちを2度叩いて見せる。
「安心していい。弱い風では飛ばされないよ」
片足を曲げ、背筋を正したアンシーが答える。
「魔法は使うほど鍛えられる。器用、継続、強度とね」
手袋から飛び出た指を立てている。
「日頃から使っているとね、洗礼印が強力になる。戦えるものが戦うしかない世界だよ」
こちらに近い片手から手袋を外す。
手の甲に異様に濃い紋様が見える。
「学士の印」
こちらに向けられていた手の甲は、アンシー自身に向けられ最後は手袋に隠れた。
「安心していい。洗礼印が見えないほど薄い人間も、まれにいる。何の印か忘れなければ問題無いよ。鍛えれば濃くなる事もあるかもしれない」
洗礼を受けた覚えはない。魔道具が使えるため、過去に洗礼を受けた可能性はある。何の印か知らない以上答えようもない。
「何か飲み物でも持ってこよう。少し待っていてくれ」
アンシーは巻いていた布に手をかけ、外した。中に下着を着込んでいたらしい。脱いだ布を寝椅子の上に折って置いた。
アンシーは背中を見せると、寝椅子から立ち上がり、自身の家に向かっていく。着脱し易い靴らしく、かかとが見えている。
空気が元のように冷えていき、外の音が戻った。
寝椅子に置かれた布は、風で揺れる。飛ばされて地面に落ちるかもしれない。
腰掛けから立ち上がって、寝椅子に残った布を押さえておく。
オリヴィアの養子であるサブレに出会った時も、変な印象があった。
クロスリエにある討伐組合の資料館の中で最初に出会った時だ。魔書を読んでレウリファに迫った際に、サブレが痛みを与えて止めてくれた。
響くような痛みだったが、サブレ自身は素手の状態で、武器の類も見えなかった。魔法を使っていた可能性はあるだろう。
サブレはニーシアより幼い容姿でも、洗礼を受けた後なのかもしれない。
布を掴む手の方が温かい。魔道具か、と一瞬考えたが、使っていたアンシーは離れている。熱が残っているだけだ。
手袋で両手の甲を隠している。洗礼印を騙れば、手袋は不要かもしれない。ただ、武器を掴む場合の保護にもなるため、実際に外す場面は少ないだろう。
アンシーが戻ってくる。
容器を2つ運んでいるのは良い。ただ、その下にある盆が異様に分厚い。
「私の名残を感じているのか……。あ、いや、冗談。ごめん」
布から離そうとした手を留める。
「ありがとう、高い布だったから。気にしてくれたのは嬉しいよ」
アンシーは四角い盆から机へと容器を移して、盆も横に置く。容器からは湯気が昇るのが見えた。脇に置かれた盆がずれている、指の厚みほどの板が3つ重なっていたらしい。
寝椅子に戻ったアンシーが布に触れたため、こちらは手を離す。
「よし、受け取った」
持ち上げて布が、折りたたまれていく。
寝椅子に置いた後、上にアンシーが座った。
「少し暖めるよ」
声の後、包み込まれるように熱が伝わってくる。最初に使われていた魔法を使ったのだろう。
アンシーの近くから広がるという予想と違った。
「驚いたかい?」
「かまどより早いな」
「あー、かまどと比べられると、便利な気がしないな」
かまどの有無は重要だが、アンシーにとっては違うらしい。
アンシーが首を振ると、白い髪留めの先から髪が揺れる。寝椅子を掃いている程度に長く、深い青の髪が止まった。
「どうぞ、アケハ」
机から容器を持ち上げ、手渡してくる。
砂をまとったような表面。温かい容器を両手で受け取った。指で叩いてみると金属のような響きが出る。
茶色の液体が入っており、苦く、甘い香りがする。
「サコラを砕いて溶かしたものだよ。果実を少々、樹液で甘みも足してある」
アンシーはもう一つの容器を手に取り、飲んで見せる。
小さな傾きを戻して、小さく笑う。美味しい、と小さな呟きが聞こえた。
「ここで飲む事を習慣にしている。一緒に飲んでくれるだけでも、嬉しいかな」
自分も同じように口に含む。
以前食べたお菓子より、苦みが抑えられている。甘みが舌に乗るが、飲み込んだ後は香りに負ける程度で、残った苦みもすぐ消えた。燻製で出た汁を薄めたような、癖のある酸味が足されている。
サコラの実を単体で食べた事は無い。確かではないにしても、嫌いにはならないだろう。
「飲めなかったら、後で貰うよ」
アンシーは弱い笑みでこちらを見ていた。
「嫌いじゃない」
「私よりも大人だね」
舌が漬かる量ずつ口に含む。似たような飲み方だ。
アンシーの位置では王都の景色は見えにくいが、同じ方向を見ながら休憩を続けた。
容器が机に置かれた。空には赤が混ざっている。
「アケハは魔法を使わない方が良い」
突然告げられる。誰が使うべきか、明確な区別があるのだろうか。
「素質はあるよ。魔道具も使えて、疲れている様子はないからね」
使役の指輪が魔道具にあたる。使用者によっては疲れるのだろうか。
「魔法は便利だけど、常に使えるわけではない。下手な人は倒れるし、死ぬ場合もある」
火を噴くような魔法も、自身が浴びたら死ぬだろう。魔物と交戦している時に、倒れるような魔法は使えない。
武器と同様に扱い方次第と考えていた。素質を筋力や器用さで例えられないのだろう。
「貴族が魔道具と魔石を揃える事は、間違いではないんだ。道具が不要だから魔道具より優れている、なんて事は無い。欠点は確かにある」
自身で考えろと示しているのか、告げられない内容なのか。アンシーは理由を教えてくれない。
討伐組合の資料館を探しても、恐らく資料は無い。魔物が使う魔法について書かれていても、魔法の使い方が書かれた資料は無かった。
回数が限られ、使いどころが難しいだけなら、別に魔法に限った話でもない。情報が足りない状態で、決めつける必要はないだろう。
「戦力を上げたいなら、探索者だとしても明確な手段だと思う。それでも慣れるまで長い期間がかかるし、教えられる時間が少ない」
アンシーは寝椅子に座ったまま、こちらへ上半身を向けている。
「アケハは、私のように強くなりたい?」
話の内容が変わっている。
使う事を否定されたのに、今度は使う事を提案している。
有効だが勧められない手段だ、と伝えたいのだろうか。




