72.不純な気持ち
討伐組合から宿屋までの道も半分を過ぎた辺りだろう。
街灯と建物の間を進んでいると時々、外側の道を馬車が走る。探索者が獲物の積まれた荷車を押す姿が見えないのは、正門以外から討伐組合の建物に向かうためだろうか。
「アケハ、他の国に行った事はあるかい?」
隣にいるアンシーが話しかけてきた。
資料館でも探した事はない。この国の地図の外は知らない。
「一度も無いな」
「資金が要るけど見物した方が良い、違う点があると面白いよ」
王都にも慣れていない、行くとしても相当先か、逃亡先になるか。
「魔物、食文化、宗教観、寿命、美的感覚、獣魔、自然環境、……意識できない事でも記憶には残る。後々実感できる事もあるから、違いを経験しておいて悪い事は無い。まあ、価値観が壊れる事が少なくない事は問題かもしれない。それでも演じれば解決する」
アンシーも価値観の違いを意識して演じているのか。
「具体的には言わないけど、宗教の違う国に行く事を勧めておくよ。壁の外を歩く力が無ければ難しいけどね」
光神教以外の宗教でも洗礼はあるのだろうか。魔物の侵入を防ぐ場合でも魔法は必要ではない、洗礼の無い国もあるかもしれない。
「アンシーが特に印象的だと思った事は何なんだ?」
「それは……、言葉の意味が経験の差で変わるだろうけど、まあいいのか……」
アンシーが考え込むような、うなる声を続けている。
最後に落ち着いた頷き声を出した。
「言語もそうだけど、あの空気は今でも思い出せるよ。慣れない自分が異物だと思い込んで疲れていたけど、慣れていた事に気付いた時の高揚感……というのかな。変われる自分に期待が持てた。根拠のない自信が得られるんだよ」
異物感なら自分は感じている。
ダンジョンを操作でき、洗礼を受ける前から魔法が使え、生み出した魔物に命令できる。同じような存在はまだ見た事が無いし、聞いた事もない。
似ているかもしれない魔族という存在も、断定できるほどの知識は持っていない。
アンシーは、先ほど握手に使った腕を浮かせて、手を開閉させている。
「本当に力も無くて何もできない時には、……私を頼ってもいいよ。外に連れ出すだけなら造作もない。その後は保証できないけどね」
手の動きを止めて、こちらを振り向いた顔には、笑みは無い。
「その一度だけだ。以降は手を貸さないよ」
周りの騒音も、ニーシアとレウリファの声さえ聞こえない。先ほどまであったはずだ。
異常だ。アンシーの対応も、獣使いの探索者だから助ける、という事ではないだろう。何か知られているのか、討伐組合がこちらを調べたのか、アンシーが知らされている可能性もある。
アンシーから顔を背けられない。
止めていた口を動かす。
「それは、……助かると言っていいのか?」
視線の先、目が丸くなる。
歩いているアンシーは顔を背け、手で目を覆い隠して、笑う。
歯の閉じた、溜めたような笑いは、聞き慣れていない。
手をどけて、口を開けて笑うようになったアンシーが顔を上げ、こちらを向いた。
「いい、……いいよ。生き残れて来れて、楽しい事は多くないとね。たまには」
言葉を強めた、耳に残るような声が届く。
アンシーが普通の探索者では無い事はわかる。何であるかを確かめる方法は無い。聞き出そうとすれば機嫌を損ねる可能性はある。
今アンシーから攻撃されれば無傷ではいられない。配下の魔物も連れておらず、武装をしているが戦えるのはレウリファだけだ。そのレウリファでも対応できないだろう。
「私はまだ、何も知らないよ。何かを隠している君が話してくれるまで待つから。今のところは君と私だけの秘密だ」
周囲の音が近付いてきた。
「確か、アケハが身に着けている使役の指輪も、最初は国の外から輸入された品だったはずだ。今では国内で生産されているけど、品をたどってみると意外に外の物が受け入れられている」
購入した使役の指輪はゴドの民が作ったものだ、と奴隷商人は言っていた。国内であれば討伐組合の資料館に資料があるかもしれない。
「向こうは光神教とは違ったはずだ。国外の資料は手に入らないから、直接行って楽しんできたらどうかな、その時はみやげ話を頼むよ」
アンシーが満足するような話があるだろうか。道中で出会った魔物を覚えておけば、獣魔好きであれば興味があるかもしれない。
先の事を想像しながら道を歩く。
宿屋についたため、宿屋の主人に鍵を貰って、裏庭の獣魔小屋に向かった。
鐘の音は2回目が過ぎており、住民も家を出ている時間だ。裏庭には誰もいない、獣魔を遊ばせても問題ないだろう。
獣魔小屋に入り、自分が借りた部屋から配下の魔物を連れて、裏庭に出た。
「ああ、雨衣狼だ。触れてみてもいいかい?」
裏庭に待たせていたニーシアとレウリファと異なるもう一人。アンシーは両腕を持ち上げおり、こねる動きをする指がこちらを向いている。突進する事は無いらしい。
「危害は加えないでくれ」
「もちろん」
アンシーの方へ向かう。
連れてきた配下の魔物の様子、自分の肩に乗せた2体の夜気鳥は別として、雨衣狼達の動きが悪い。自分を陰にしてアンシーから逃れようとしているように見える。
「奴に触れられたくなければ、俺の後ろに隠れてくれ」
ルトとシード、2体の雨衣狼は明らかにアンシーを避けている。
「ヴァイスは構わないのか?」
黄色い布を巻いた雨衣狼、ヴァイスが隣の方に来るとこちらを見上げる。
「嫌だったら逃げていい」
ヴァイスはアンシーの元に歩いていく。
アンシーがこちらに顔を向ける。
「触れても?」
「慎重にな」
「わかった」
アンシーはヴァイスの顔を見ながら、警戒させない動きで、地面に膝をついた。
地面から浮かせた手に、ヴァイスが近寄るのを待ち、ヴァイスの口の高さに徐々に合わせていく。ヴァイスは手をわずかに避けて近寄り、アンシーの手が首に届く。
おそらく触れているだろう。
アンシーの表情は緩い。細目で口角を浮かばせ、優しい笑みが見える。
「いい触り心地だよ、きっと毛質も良いだろう」
変わらずヴァイスの方を見ている。
さらに寄った雨衣狼の体に、腕がそえられる。
「うん、気持ちいいよ。整った強い毛並みだ」
腕ごと動かして、背中の毛並みに触れている。
「体調を気づかう余裕があるんだね。いいなあ」
ヴァイスは体を預ける事はしないが、逃げる様子は見られない。アンシーの撫で加減が良いのだろう。
両手を使いヴァイスの顔や背中へ手櫛を流す、アンシーを眺めた。
「十分に堪能できたよ。ありがとう」
アンシーが手を放すと、ヴァイスがこちらに寄ってきた。
下げてあるこちらの手に頭部をこすり付けてくるヴァイス。垂れた尻尾は揺れている。
「ありがとう、ヴァイス」
ヴァイスに感謝の声をかけておく。通じているかは知らない。
アンシーの方は立ち上がり、衣服を軽く振り、はたく。手で膝当ての汚れを落とした。
「雨衣狼に触れたのは初めてだが、よく手入れされているね」
先ほどまで部屋に閉じ込めていたために、雨衣狼達の毛並みにはゴミが付いている。ヴァイスの体に残る、麦わらや土ぼこりをアンシーは気にしていないようだ。
「時間がある時には彼ら自身で直していたし、櫛を使う事もあった」
ヴァイスの後頭部を手で揉む。
人間一人分の大きさを持つ獣なら、近寄られる事に脅威を感じるのが普通だろう。
見知った獣魔でも無い初対面に近い関係のはずだが、アンシーは慣れた様子で、ヴァイスの全身の動きを確かめながら撫でていた。
「櫛が使えるのは獣の特権だね。彼らが慣れてくれるまでは大変ではなかったかい?」
アンシーの話を聞きながら、ヴァイスの耳周りを指で遊ぶ。
「いや、従順だった。むしろ、俺の方が慣れていなかった」
「そんな事もあるのか。まあ、私が触れる事を許したぐらいだから、あり得ない話でもないか」
ダンジョンが生み出した存在が、普通の魔物ではない可能性はある。
「ついでに触れさせてくれた彼女の名前は?」
「ヴァイスだ」
黄色の布で覚えているため、布が外した場合は見分けが付かない。布を洗う場合も時間を分けて対応しているが、一度に洗う事態もあるかもしれない。それぞれの名前で反応してくれる事を期待しておこう。
「ヴァイスか、……良い経験だったよ。ありがとう」
アンシーはヴァイスの方を向いて話したが、ヴァイスはこちらを見上げていた。
かがんでから両手を使ってヴァイスを撫でる。首を自由に動かし体も寄せてくるため、向けられた部分を満足してくれるまで曲げた指で揉みほぐす。
横向きに腰を下ろしたヴァイスの各所に残るゴミを落としながら、軽く撫でていく。
ヴァイスの顔がアンシーの方を向く。
「あー、うん。私も未熟だったよ」
ヴァイスは持ち上げた顔を降ろして、地面へ完全に伏せる。
このまま撫でていてもいいが、忙しいままでは触れ合う時間も少なくなる。家探しの用事を終えた時に獣魔たちに応えた方が良い。
撫でる手を止めて、ヴァイスの体から離す。
「ヴァイス」
声をかける。ヴァイスが伏せた身を起こし、邪魔にならない横へ移動した。
「よし! 終わったみたいだし出発しようか」
アンシーの提案に従う。
裏庭にある水場で手を洗った後に、獣魔を連れて宿屋を離れた。




