44.幼姿綻礼、彼女と魔書3
慌てていたニーシアを抱きしめていると、震えも感じなくなった。
「ここにいる間に、何かあったのか?」
髪を撫でていると顔が上がる。
口は開かないが、首を振って答えてくる。
直接内容を聞いても答えないかもしれない。
「ニーシア自身で解決できる問題なのか?」
返答は変わらない。
「俺やレウリファでも助けられないのか?」
返事は変わらない。
「逃げるなよ」
ダンジョンの情報を持つニーシアを手放す事はできない。逃げるなら、レウリファに命令してでも殺さなければならない。自分かニーシアのどちらかが死ぬ事になる。
「はい、アケハさん」
背中に手を回されて、強く抱きしめ返される。
自分の存在が認められている気がする。
背中に手を回して、再び強く抱きしめ返した。
ニーシアも自分も態勢を変える事なく、抱きしめ続けている。
「ニーシア、行こうか」
「そうですね」
手をつないで離れるとレウリファの待つ場所へ向かう。
棚を抜けて通路に出ると、現れた少女が目の前で止まる。
こちらの顔を見ているので、意図があって行動をしているのだろう。
「マカロン様が呼んでいらっしゃいます」
目の前に現れた子供は身なりもいい。
オリヴィアから自分たちの外見を教えられているのか。都市で出会った時から服装も変わっているが気付くものだろうか。
貴族という政治に関わる存在は、庶民に命令できる地位にある。従った方が良いだろう。
「時間があればと仰せられましたが、まさか、時間を空けずに来るという事はありませんよね」
少女の声は聞こえるが、意味が耳に入らない。
「できる限り待たせましょう。明日でもいいです。いえ、一年後に向かいましょう。それまで私と一緒に遊びませんか?」
冗談も含んでいるが、待たせるなという意味だろう。あるいは身を整えろという事だろうか。
「呼び出す目的は聞いていないか?」
「内容については何も伺っておりません。ですが、この時間からの面会となると屋敷で泊まる事になります」
使いの人間に対してもダンジョンの内容は伝えていないようだ。
「連れ人があと一人いる。それと宿泊所に一度戻りたいが構わないか?」
部屋を確保している以上、宿泊所に知らせておかなければ心配される。
「はい、問題ありません、後ろに付いていて構いませんか?」
「ああ」
「これから私は寵愛を受けるのですね。ああ、この身はついに役目を果たすのです」
オリヴィアと出会った時も、似たような冗談を聞いた覚えがある。髪の色も似ているが性格も似ているのだろう。
身をよじる少女の切り揃えられた髪が揺れる。
「アケハさん……」
「……あの人で間違いないだろう」
「私の事はサブレと呼んでください」
目の前の姿勢を正した少女、サブレは無垢な笑みをする。
「俺はアケハと呼んでくれ」
「私はニーシアです」
「アケハさん、ニーシアさんですね。よろしくお願いします」
まだ閉館まで時間があるが、待たせているのも悪い。
「レウリファの待つ机に戻ろう」
「そうですね」
ニーシアの手を繋いで歩く。
付いてきているか気になり、途中で振り返る。
サブレがこちらを見てから笑顔を見せる。
「どうぞ、お構いなく」
レウリファがこちらに気付いて、読んでいた本を下ろす。
「ご主人様、この方とはどういった関係でしょうか?」
「オリヴィアの使いで、俺たちを呼び出しに来た。屋敷の方で泊まる事になるから、宿泊所にも寄る」
レウリファの視線が動く。
「わかりました。資料を返しに行きます」
レウリファが司書を呼びに向かう間に、広げていた資料を整える。
地図や地理の資料を運びやすいように積んだ後で、置いた覚えの無い本を手に取る。
レウリファの読んでいた本だろう。
「私も屋敷の書庫でその本を読みましたよ、この都市でも置かれているんですね」
オリヴィアの書いた本だ。題名も聞き覚えがある。
内容が気になり、本を開けて途中を読む。
興味深いほど情報量が多く、写実的な描写は物語というよりも生態調査に近い。ただし、この観察がされる間の獣使いの行為は、こちらの想像を跳躍している。男の行動さえ細かく描かれており、自分の動作は魔獣からの誘いを受けた形であるため、抵抗なく相手を捕らえられる。つがいの引き寄せられる動きに我を忘れて飛びつく様は狂気だ。意識して演技している。これは、……の……、
「ご主人様!」
魔書だ。書いた人物は理解している。読んだ人物を。
自分の手を包みこんだ手は酷く柔らかく、離れた時の喪失感は耐えきれるものでは無い。身体が横を向いたその瞬間、腕を伸ばして捕らえたところで逃げる様子は無い。そのまま引き寄せ、耳を軽く食む。指の横腹を丁寧に撫でていき、手首をつかむ。袖の隙間に指を通して毛並みを味わうと、こちらの腕を指で撫で返してくる。口から離すとこちらへ顔を向け、わずかに開いた口から、かすかに聞こえる音が近づく。この音を止めるように……、
「お二方!」
激しい痛みと共に何かが流れた感覚があり、目を開ける。
頭を傾けたレウリファがいた。
相手を驚かせないように顔を離す。掴んでいた手を離して、互いの姿勢が戻る。
「レウリファか」
「はい、アケ……、ご主人様」
何をしたかを覚えている。
「自分が悪かった」
「いえ、私こそ申し訳ありませんでした」
レウリファという個を無視して襲い掛かるほど飢えていない。
「アケハさん、どうしたのですか?」
誰かの声。
「レウリファが違う存在に見えた」
机には魔獣姦通日話という題名の本がある。
一部を読んだだけだが、人間と異なる部分に対する嫌悪が減った。これをすべて読んだ人間はどうなるのだろう。
「子供ではないのですから、簡単に感化されないでください。感受性が高いなんて言い訳はできませんよ」
聞こえたのはサブレの声だった。
「それに、経験した以上は影響が残ります」
レウリファの手前に現れたサブレがこちらを見ている。
軽く見上げているサブレにゆるい表情はない。一切の動きも無い目の前の人間は生きた様子が見られない。
森林を思わせる緑の瞳を見て、ダンジョンの周辺を歩いた記憶を思い出す。あの時はニーシアとレウリファが先を歩いて自分を呼んでいた。
「落ち着きましたか?」
「ああ、助かった」
「そうですか。これは読まない方が良いでしょう」
机の本を取ったサブレが、離れた場所で立つ司書に返す。
司書が台車に本を仕舞う動作を見て、自分も机の上を片づける。
自分が司書に資料を返すと、注意されるが慰められた。
資料館を出る事を伝えると、出口まで案内されて預けていた荷物を受け取る。
外の空気は少し冷えている。オリヴィアを待たせているのは悪い。
宿泊所に行き、受付で部屋を返して荷車の保護を頼んだ。
「マカロン女爵はどこで待っているんだ?」
「離れに停めてある馬車の中にいます」
サブレに付いていくと馬車が見えた。装飾も少なく、塗装もされているように見えない。
木板で組んだ箱に御者台が取り付けた馬車は、一見すると安く作られたようだが、素人が作るような歪みは無い。
「少し待っていてください」
サブレが御者に話してから、馬車の扉に近づいた後で戻ってくる。
「中へどうぞ」
サブレは側面にある扉を開けた後に踏み段を下りた。
促されて馬車に入ると、前後に座席があり、後ろの端にオリヴィアが座っていた。
「また、会ったね君たち」
庶民と変わらない服装をしたオリヴィアが話し掛けてきた。




