不完全な数字.名も定まらぬ男の一生
50を越え、60に近づきつつある。
光神教でも最高齢に並ぶ、その男は寝台から室内を見渡す。
部屋主によって飾られた品々は、決して皆に評価される物ではない。
あくまで男に関係する物品であり、希少性や価値換算は基準にならない。むしろ、飾るための保護材に費用をかけていると言っていいだろう。
黒ずみのある赤い羽根。
経年で輝きを欠き、みすぼらしくも見える小魔石さえ、男にとっては大切な物だという。
老年になって手に入れた筆記具も、今の主流と呼ぶには遅れているものだ。
目覚めは遅く、室内には既に多くの光が届いている。
立って近づく必要もなく、それぞれの物品を眺める。
自身の経験を思い返す、老人に与えられる時間は後悔ともいえない。
肉体的に衰え、通常の業務を遂行できるとは思われない。先代聖者の専属従者であったとしても、その役目は全うしており、本来なら個室を与えられる立場になかった。
次代の教育係という立場と身寄りのない境遇から、特別に終身の居場所を与えられた。
通常の権力図から外れ、組織の抗争からも一歩引いた位置にいる。経費は小部門の枠の隅にしか記されず、最終会計からは実態さえ掴めない。
出歩く機会も減れば、今は少ない訪問者しか名を知られない人物だ。
そんな男の部屋に、女性が入室してくる。
男にとって、それは見知らぬ顔だった。
世話係が訪れるのは少なくない。新人を加わったという話は聞かされておらず、報告にしても単独でくるはずもない。
それでも知ったように歩く女性を、男は寛容に眺める。
「見かけない顔だ」
呼びかけに返事もしない。
部屋の主に対して、礼儀を欠く部外者である。
「そうか、死期が近いか」
「……はい」
「久しぶりと言った方がいいのか?」
「ええ、……ですが、今は、”ただの”修道女ですよ」
ようやく口に出した言葉も短く、初対面には似合わない話題だった。
無断で入室した事を謝りもせず、当然のように足を進める。
「新たな聖者を見たよ。未だ幼い顔付きだが、悪くないと思う」
男の感想は不敬に近しい発言だが、異を唱える者はいない。
別の教育係も似た印象を抱いて、今も主の鍛錬を支えている。
「結局。フィアリスは来なかったな」
「お互い、嫌われましたね」
男のいる寝台に近づき、初めて顔を合わせる。
女も働ける年齢ではあるが、祖父と孫娘とも見間違える光景だろう。
「初めて面会した時、並ぶ顔に君を探したよ」
今日の遭遇が事前に知らされていたわけでもない。
今より距離を縮めないのが初対面の緊張だとしても、手紙で知らされていた特徴を確かめるような視線を男が女に向ける。
「あの頃の約束を、今も守ってくれている」
「死ぬまでは一緒ですからね」
「迷惑ばかりかける。すまないな」
会話が止む。
朝冷えのない室内は、教会でも希少な働き場だ。
椅子の用意があれば長居してしまう快適さがあり、物の少ない部屋でも本一冊持ち込めるなら需要が一変する。
行儀見習いの合間を縫って訪れるには、手の温かみが惜しくなる空間だろう。
「……私と同じになりませんか?」
「相応に生きた。それでも再びと言われると分からないな」
少々の間をおいて、話題を出した女に、男が答える。
「次の私が、私であるとは限らない」
「その時はその時です。一応の対策は取らせてもらいますから」
「まったく、周到だな」
世話係には見せない歪んだ笑みにも、微笑みが返される。
「ええ、……ですから、今は眠っておいてください」
「そうさせてもらおう」
答えを確認した女は、ひとしきり部屋を見渡した後は、満足して立ち去る。
残された男は起床の準備を始め、自身の手にある使徒を模した印を見て、ため息を吐いた。
残り少ない平穏も、自分の不安を取り去ってはくれないだろう、と。




