279.決壊
扉を叩いて、待機室に入る。
「エルフェ。預かった会計簿の確認をしたい。待機を任せていいか?」
「……分かったわ」
唯一見つけたエルフェは水回りに近い席で水休憩をしていた。
フィアリス側の専属従者がいないと椅子の空きが多い。聖女が一人減った時点で、書き物机を取り合う状況はまずありえない。特にフィアリスが夜番を頼まないおかげで、夜から朝にかけては占有に等しい。
壁の鍵置きから保管室の鍵を取って、一旦部屋を離れる。資料を取って帰ってきた待機室では、エルフェは出入りの楽な席まで移動していた。
静かな室内で会計作業を終えて、書類を一つに重ねる。
手帳に要連絡と書き残す。
「もう、音を立てても大丈夫だ」
「そう?」
見ると、読書を止めたエルフェが視線を向けてきている。
「もしかして、汚れが付いているか?」
「いえ、何も……」
視線は動かない。
「あまり頼られなくなってしまったわね」
「まあ、いつまでも頼りきりになるわけにもいかない。……と言っても、細かい部分では助けてもらうままだぞ」
後任を教えるような熟達は諦めている。本来、世話係でしかない従者は入れ替わりが少ない。教会事情に疎い人材が入るでもなければ教わる一方だ。
聖女が任命権を持つ役職でなければ、早々に外されていただろう。最初から光神教に関わる事も無かったかもしれない。
「そうね。……時間だから顔を見せに行くわ」
エルフェは室内の時計を見て話す。
「一緒に行く。書類を片付けるまで待ってくれるか?」
「わかった。私も食器を洗わないといけないから、急がずにね」
予定を決めた事で、同時に立ち上がる。
資料室に書類を預けた後、待ち合わせたエルフェと廊下を進む。
歩調を合わせて、行く先の内装を見渡す。
足音は薄い絨毯に隠れる。開いた窓から風を取り込み、昼中の光が屋内の影を薄めている。
「エルフェも魔法を使えるんだったよな?」
「最低限ね。教会勤めで義務的に学んだものだから、実践ではなく知識寄り。貴方みたいに普段使いできるほどではないわ」
あくまで専属従者は日常の世話係だ、武術や魔法の技能も必須ではない。
戦闘参加を求められない以上、聖者や聖女に関する魔法の知識も得られない。正確な情報が手に入るとすれば、聖騎士や教育係、宝物庫の管理人くらいだろう。
戦力を探るには不適な立場でありながら、実際の戦闘風景を見た。
実益は少なくとも十分な成果だ。
聖者は光神教が語るまま、魔族に対抗する力として活躍をしている。敵対されるわけにはいかない。
「普段使うものでないなら、どういった用途になるんだ?」
「手元の明かりを足すか、ちょっとした自己防衛くらいね」
照明も防御手段も、日常生活での実用性が高い。
少なくとも探索者が欲しがる技能だ。明かりの調達に困る野外では、少しの燃料も緊急時に備えたくなる。
「便利だな」
「まあ、使えば便利よね」
魔法は一度使うだけでいい。奇襲の有無が大差を生む。
多用される戦いの時点で普通はありえない。
「……アケハも無理はしないでね」
「どうした」
「ほら、聖者の活動も本格的になるでしょう? 魔族の動向も怪しくなってきたから、この先、危険な場面も増えてくる」
主張は正しく、聖者は国を襲う魔物を排除するだけではない。いずれ圏外へと旅立ち、魔物の王を討伐しなければならない。
魔族の意図は不明だが、その活動頻度には偏りがある。最近になって被害が連発している事も、歴代の記録を知れば断言できるほどの特徴だ。
統率者の発生が影響している。
近い数世代が討伐に失敗しているわりに、魔物の王の活動は世代を越えない。致命に届かずとも大きな損傷を与えて、長い回復期間を要していたのか。魔族の中でも競争があり別の存在に取って代わられたのか。
自分は詳しい事情を知りえる立場に無い。
限られた情報の中でも、推測できる事はある。
ラナンとフィアリスが続けている訓練の日々は、危機が迫れば形を変える。
彼らの今の姿は仮初だ。半端な時期に加わった自分も、聖者の活動からすれば始まりの出来事でしかない。
「遠征なんて付いていくものじゃない。大抵は死に場所を探すようなものなのよ。一度向かってしまえば、聖者や聖女でさえ生還を見込めない。聖者の遠征は、各国が支援する遠征とは訳が違う」
元探索者で野営の心得がある程度では足りない。
戦力が足りなければ邪魔になる。
洗礼において聖者と聖女は別格なのだ。
魔族の討伐に人生を捧げる、彼らの助力になるとすれば訓練を続けてもらうための支援だろう。半端な戦力は魔族の前では邪魔になるだけだ。
「次の仕事でも探しておこうかな」
「どうして、そこで辞める話になるのよ……」
戦闘技術は戦士として劣る側だ。
唯一誇れる魔力量を活用できなくなるなら、貢献できる部分が減る。
身軽な一人だから価値があった。
教会で補給を行うだけなら、既に十分な人材が集められている。日頃から武装を管理する者がいる。一人に限る理由も無い。
「貴方は自信を持ちなさい。事務作業もできないわけではないでしょうに……」
呆れを示したエルフェは、すぐに態度を緩める。
「元々、戦闘なんて兵士に任せればいい。私たちの仕事は教会での生活を支える事。外の事を心配しても、無駄な負担になるだけなのよ」
「……意外と嫌われていないんだな」
「冗談よね? 態度が硬くて面倒な部分もあるけど、顔見知りを新任させるほどじゃないわよ。私が嫌いと言った事ある?」
「いいや」
首を振って否定する。
エルフェが見たかは不明だが、納得した様子で歩いている。
「それに私たちは見届け役になるかもしれない。……聖者の寿命は知っているでしょう? 聖女も負傷によっては活動が難しくなる。私たちは彼らの死にゆく姿を眺める立場でもあるのよ」
遠征での負傷で、帰還後が療養生活になる場合もある。
健康状態を調べる医師を常駐させるようになり、生活の不自由を専属従者が補う形になる。聖女棟は事態を想定して余裕のある設計がなされており、自分も移動式の寝台の保管場所や扱いを確認した。
聖者や聖女の生きた姿をそばで眺める仕事だ。
今は死ぬ姿が想像できなくても人間には違いない。歴代と同じ結果になるなら、専属従者は死を見届ける役になる。
「主人が去った建物の維持を、知らない人間に任せるのは嫌よ」
「……そうだな」
思い入れが生まれるのも当然だ。
聖者も聖女も、人としての生活がある。身近に仕えれば情も湧く。異常な部類のアプリリスでさえ職務に努めており、貢献を疑う者はいない。
次の世代にも使われる。光神教が擁立する者の施設だ。エルフェも後継の管理者が粗雑に扱うとは思っておらず、少しでも知っている者の手で対処したいのだろう。
簡単に辞めると嫌われるらしい。
エルフェが機嫌を取り戻して移動を早める。
慣れない歩調に合わせる途中、過ぎ去る光景に違和感を覚えた。
足を止めて横を見ると、窓の外に黒い存在が見えた。
「アケハ?」
蝶だった。
「エルフェ……。済まない。忘れ物をしたみたいだ」
「え――」
「取りに戻るから、構わず先に向かってくれ」
数歩の距離が詰まる前に、背を向ける。
急ぐ足を抑えて、来た道を戻った。




