276.不振
朝の世話で訪れる獣舎には、蝶の姿もある。
掃除を続ける間、ヴァイスのように離れた位置で留まる。個室に残された止まり木や空の樽で羽を休め、踏まれる危険のある地面には近づかない。
作業の合間に視線を向けると、待っていたかのように、その場を飛び立つ。
宙を舞うために大きな羽を動かす。鮮やかな色を目で追う際にも、首を回すほど長距離ではなく、広くもない室内を壁寄りに飛んでいるらしい。
花園を飛び交っている蝶が人間ひとりを意識するとは思わない。
ヴァイスの顔を撫でて、作業に戻る。
掃除を終えて、食事も準備した。
ヴァイスの正常な食欲をながめつつ、体に休める。
水拭きでも取れない壁の黒ずみは、初めて訪れた時には存在しなかったかもしれない。隣の空き部屋を覗けば、簡単に分かる答えだろう。
作業着を着る今は、汚れを気にせず背中を押し付ける。
床に座る。
一息ついた後には、視界に蝶が入ってくる。
「賢いな」
蝶に向けて腕を差し出す。獣魔といる姿を観察していれば、手が空いた時を狙えるようにもなる。
手の先に降りた蝶を眺める。
細い体だ。触れれば崩れるかもしれない。精々が見るだけ。何の意味にもならないはずだが、蝶は頻繁に訪れている。
普段、庭園にいる時には姿を隠す。
魔法を疑い、魔物と予想しているが、解剖してみない事には確信できない。
「魔力が好みなのか? まあ、魔物に魔力を浴びせる人間は珍しいか……」
攻撃でもなければ、魔力を使わない。そもそも魔法を使える人間が少ない方なのだ。学びの機会を経た者でも、個体差のある魔力量に困る。魔物に浴びせるなんて浪費はしない。
自分でなければ、この身が誇れる魔力量も活用できたのだろう。
この蝶に与える魔力も、誰かの一日を繋ぐ価値はある。対象が魔物であると知れば、責める者も現れるかもしれない。
目の前で蝶が飛び立つ。
飽きて部屋を出るでもない。
正面に留まった体が途端に膨らみ、地面へ落ちた。
音で質量を示した塊が、徐々に輪郭を強め、一つの形にまとまる。
「……魔族」
地面に伏せた姿勢の人型がある。
垂らした黒衣が持ち上がり、姿を変えた魔族と目が合う。
「何をする気だ……」
相手との距離が近く、こちらは壁を背にしている。警戒させずに部屋を出るのは難しい。立ち上がるにも、壁伝いに避けるにも、動きを知られるだろう。
眼前の魔族が特別弱い個体であるとは期待しない。
それに部屋の中にはヴァイスもいる。
……ヴァイスもいる。
視線を横へ外すと、普段通りに食事を続ける姿がある。
突如として姿を変えた魔族に警戒していない。
注意を戻すと、眼前の魔族もヴァイスの方を見ていた。
再び視線が重なる。
地を這う一歩が距離を詰める。
呼吸を落ち着かせて相手を見ると、襲いかかる状況から遠い。魔族の動きは緩慢で攻撃を企むには遅すぎる。
魔族の顔が手に届く。
これまで通りに魔力を放出すると、魔族は頬ずりを始める。
見た目どおりに人の質感がある。擦れる肌も、横髪のひとつひとつも人と区別できない。違いを挙げるとすれば、黒衣や体の端に取ってつけたようにある蝶を模した造りだけだ。
魔力を浴びせるうちに、魔族は手の位置を過ぎる。
人としては大きくない体で、覆いかぶさるように抱き着いてきた。
肌に外部の魔力が触れる。
流れの中に重みは無い。そよ風のように当ててくる。こちらが魔力を放出すれば即座に散る、細工の無い魔力だ。
相手の体に合わせて魔力を広げると、魔族は接触を増やした。
体格に見合う筋力しか持たないのか、抱きしめる力は弱い。
しばらくすると魔族自ら密着を解き、蝶に変わると部屋を去った。
「何だよ、それ……」
蝶が魔族だった。
教会の中ですら安全を確保できていない。
敷地内で自由に遊ばせている状態で、何で排除できると思うのか。
ただちに報告すべきだ。
内通者とは疑われまい。自分の仕事は聖女付きの専属従者だ。殺せば聖者への僅かな妨げになる。敵の襲撃対象にも入るだろう。
敵と仮定すれるなら排除も処分も正しい判断だ。どれだけ無害な態度も、騙し打ちの準備と見なせる。
蝶を殺す。
魔族に対する恐怖を、あの蝶に押し付けていいのか。魔族だったとはいえ、危害を加えられた事は無い。それどころか、正体を明かした後も、以前と変わらない扱いを求めてきた。
生かして観察したいから監視を頼む、と話したところで実現しない。一度暴れるだけで都市存続に関わる被害を出す。魔族一体のために聖者が付ききりにするはずもなく、保護する余裕はどこにも存在しない。
考えただけで疲れる。
とにかく、蝶の目的を知るべきだ。
アプリリスに報告した後では戦力を連れて対面するしかなくなる。場合によっては聖者も同席するかもしれない。観察という段階を過ぎるだろう。
聖者を害する目的で近づいてきたなら接触を絶つ。
何も知らず庭園に住み着いたというなら、即刻、都市の外へ逃がして今後一切近づかないよう言い聞かせなければならない。
聖女棟に戻り、日常をこなす。
昼に獣舎を訪れて、蝶の姿を見る。
問いかけても返事は来ず、普段のように飛び回れば、手の上で休む。
人型にならず、それは夕方も同様だった。
「アケハさん、大丈夫ですか?」
日中は仕事を優先するため、考え込む時間は無い
自室に戻った後も、部屋を共有するレウリファがいる。
「……変だったか?」
「はい」
不振を隠せないから、レウリファに負担が向かう。
対面に腰を下ろす姿に、緩みは見えなかった。
「……私で協力できる事はありませんか?」
「自分でも扱いきれない。単に諦められないだけだよ」
悪い意地だ。
自分が求めているから、同情して他人を助けようとする。
好ましい実例が増えれば、自分も生きやすい環境になるだろうと。
結局、魔族とダンジョンを操る事の違いなど、指摘したところで認められない。潜在的な害に変わりなく、人間の前では共々排除される。
魔族だと判明した時点で処分が決まる。個体差など、撃退法の考案材料になるだけだ。
一緒に暮らしたければ、人の形態など見せなければよかった。こちらは人間だ。相手が魔族と分かれば排除するしかない。殺されるのも当人の失態だろう。
蝶が殺されたところで、自分が殺されるとは限らない。
特別云々ではなく、自分と蝶は違う存在だ。
結局、事態が動くまで予想は定まらない。
「負担をかけてばかりだな……」
自室とはいえ、教会内で魔族を話題にするのは慎重になる。
立ち上がった後、レウリファの隣に腰を下ろす。
「次の休暇は、聖都を観光に行ってみないか? 暮らしていながら出歩く機会が少ないんだ。食事でも、買い物でも、知らない物は多く見つかるはずだ」
「獣人だと難しくありませんか?」
「探せばいい。……見つからなければ、名所から街並みを見下ろすだけでもいいさ。遠くの視線は集まらない」
教会で暮らす内に、外での生き方を忘れてしまうかもしれない。以前を思い返すためにも、似たような経験はした方がいいだろう。
「どうしても、教会では考え事ばかりになる。気分転換だな」
「わかりました。一緒にですよ?」
「ああ」
レウリファは一人にさせると不便になる。
獣人と知れば、立ち入りを断る店もある。たとえ専属従者であろうと、間に立つ者がいた方が話は早いだろう。
「変な休暇を取ったばかりで待たせるかもしれないが、空き時間にでも下調べはしておく。聖都は街並みの変化が少ないみたいだから、古い資料も参考になるはずだ」
「楽しみにしておきますね」
「あまり、期待しないでくれよ」
先行きの悪い話題で、静まっていた身振りも取り戻す。レウリファの陽気は眠りにつくまで続いた。




