270.息抜き
晴れ日の日差しを薄雲が抑えている。
教会の敷地を一周する庭園は、敷地を囲む壁や教会施設の圧迫感を大きく減らす。植えられた草木が細かな輪郭を持ち、生み出される奥行きは建物の見慣れた印象を薄めてくれる。
細部が風に揺れる姿は、人が廊下を渡る光景より流動的で飽きないものだ。汚れを是とする立場であれば、雨でも外を歩いていたかもしれない。
虫の付着や雨で濡れる欠点があるため、書類作業の合間に訪れる者は中庭の方を好むだろう。自分としては、廊下で横切る広さでは、建物の隙間という印象を強く感じてしまう。
庭園を通って獣舎に向かう。
日に数回往復するうち、昼に一番長く獣魔と接する。運動不足を注意して、獣舎の外に出す機会を貰っている。
庭の利用は時間に正確に従わなければならない。このあたりは、教会側で飼育されている馬との兼ね合いになり、無断で連れ出す真似ができない。
専属従者として雇われながら、休憩時間は獣魔の都合を優先できる。
主人から優遇を受けていると断言していい。獣魔の不調には、専門家の紹介も構わないと言われた。
最初に雇われた際の条件が、今でも守られている。
保護を受けた時とは状況も変化しており、数々の騒動ではアプリリス自身も危険な場面にあった。一人の特別を維持する必要など無かった。
獣魔がたった一体になった後も、休憩の短縮を求められた事は無い。
着替えをして、獣魔用の個室に入る。
「ヴァイス」
扉を開けた先にはヴァイスがいた。
こちらの接近を足音で知ったのだろう。駆け回る事も不可能ではない広さで、物が置かれない壁ぎわに留まる理由も少ない。
背後の扉を閉めた後、目線を合わせるよう足を屈めると、手を伸ばした事を合図に、人より強靭な体が駆け寄ってくる。
込められた勢いを腕で受け止め、以降の接触を許す。体をこすりつける動作は、完全に離れる瞬間がなく、毛並みに隠された質量を常に感じさせてくる。
抑揚を下げた声で呼びかけ、ヴァイスの首元をほぐす。正面から抱きかかえる手は、軽々と肩回りまで届く。
前半分を掴みかかるような体勢でも抵抗されない。ヴァイスから信頼されているのだろう。
最初とは違う。
こちらの体は、既に雨衣狼を脅威としていない。わずかな弱点も隙を見せなければ取り繕える程度でしかない。こちらに本気で締め付けられてしまれば、ヴァイスは潰れる苦しみを伴って殺されるしかない。
体を張って信頼を示すには危険な関係だろう。
ヴァイスも感じているはず。
最低限だった接触も、今では日常的な行為にある。一緒に駆け回り、触れ合う内に、こちらの変化を察しているだろう。
襲いかかり押し倒すまでできても、牙や爪では傷つけられない。
いくら雨衣狼が魔物だとしても、縛って捕らわれた状態なら素人でも殺せる。個の強みも大抵は環境ありきだ。抵抗されなければ、殺す術はいくらでもある。
強みである足も牙も封じられた状態で、どうして安心を得られるだろうか。
こちらは信頼に足る相手ではない。
雨衣狼に命令して、離れて戦闘を眺めていた存在だ。危険があれば足止めとして消費される立場で、どうして尽くせる。
今のヴァイスは命令どころか、しなくても自死を選んでしまう。不慣れなダンジョンで格上の魔物と遭遇した際、自身を囮にして逃亡時間を稼いでくれたのだ。
信頼が報いられることはない。
獣魔の飼育を拒否されれば、専属従者の地位を保つために必ず切り捨ててしまう。ヴァイスが信頼する相手は、いつか自身の首をへし折る者だ。
背も腹も隠さないヴァイスに触れるたびに、不調の有無を探してしまう。こちらの本願にとって不可欠ではない存在でも、軽々しく死んでほしくはない。
ダンジョンを操る存在でなくても、自分の性格では安心を得られなかった。力を増したところで次の脅威を当てはめる。ヴァイスのように信頼を演じる余裕さえ生まれないだろう。
いずれ、自分の限界を知った時にはヴァイスの姿を目指す。理解から遠い存在でも、行動の価値を認めざるをえない。分かりきった未来を意識しても、経験するまで納得できない。
ひと通りの接触を済ませて、軽い掃除も終える。運動場へ連れ出したところで手荷物を置いて、自分もヴァイスと一緒に地を走る。
掃除中は邪魔しなかった代わりに、遊べる機会には存分に遊んでいる。
速度のある四つ足の走りは、こちらの近くを周回する。
競争するまでもない性能差があり、進行方向を反転させようと、寸分の内に追いつかれるだろう。
並走では走り足りないのが明らかなため、ある程度を走った後は玩具に頼る。
投げ飛ばした布の束を、ヴァイスは揚々と咥えてくる。
数度続けて、次の狙いを探そうとした時に、近づいてくるラナンを見つけた。
ヴァイスを手元に留めて、相手に礼を示す。
「ごめん。邪魔したみたいだね」
「いや。こっちも気にしないさ」
知らない顔ではない。話す距離にあってもヴァイスに緊張は見えず、少々の反応を返す片腕に甘えてきている。
ヴァイスから視線を戻した直後には、ラナンの視線も同じ向きにあった。
「外歩きには良い空だ」
「だね。今日くらいの明るさだと目も疲れない。……こんな日が続いても、それはそれで農作物が困ってしまうから、惜しいね」
ラナンの金髪が輪郭を捉えやすい。
自分の仕事着だって変わらず、日差しの強い屋外では少々色が強い。
「操れないから良い、か」
「困り事もあるから、その時は思うくらいかな」
「それもそうだ」
屋外活動は天候に左右されやすい。雨続きで日程が遅れた時には、空を変えたくなるだろう。
たとえ、空を自由に調節できたとしても、結局、人同士で意見が衝突しそうではある。どちらにしても節度が存在して欲しいものだ。
会話だけに集中すると、ヴァイスの時間が無駄になる。玩具をヴァイスの顔の高さまで運び、強調するよう揺らした後に放り投げる。
迷いなく駆けていくヴァイスを見送り、ラナンに注意を向ける。
「良い暮らしだ。獣魔も暮らせる広い土地がある。専用の部屋があり、昼には庭を駆け回れる。こんな生活は都市の住民でも中々実現できない。……感謝しているよ」
決して、自分個人では用意できなかった。
家を借りた事も一年弱の猶予しかなく、稼ぎが貯金まで回らない。探索者としての貢献も足りなければ、必要な環境が整うはずもない。都市生活において、獣魔を持つべき立場ではないと示されていた。
壁の外で暮らすにも、自力で食料を得る必要があり、害獣の対処に追われる。戦闘を獣魔に頼っていた時点で、今ほど安定した生活はできなかった。
ダンジョンでの暮らしを諦めたのも、力不足が原因だった。
「今より開拓が進めば、人の生活は良くなるのか?」
「正直、難しい。……土地を広げたところで生活は変わらない。新しい都市ができても、同じ環境を整えようとする。移住当初はともかく、頭数が増えるだけだろうね」
「難しい話だな」
「僕も詳しくは知らない。実際は良くのなるかもしれない。……余力を集めれば、今より大きな問題にも挑戦できる。生活を改善する機会も増えるかもしれない」
ラナンとの会話の隙に、ヴァイスが戻ってくる。布束を取ってきた事を褒め、押し付けてくる半身に広く触れる。
繰り返して覚えさせた行動であり、ヴァイスの楽しむ様子も偽りには見えない。
落ち着いた頃合いに、ラナンは触れてみたいと頼んできた。
対象を変えても反応は変わらず、避けられた事に苦笑いを見せていた。




